石崎 香織   彼氏な、みなみさん

 休み明けの月曜日、梅雨と呼べるにふさわしいジメジメとした湿気の多い蒸し暑い朝だった。

ふさわしいと言っても、季節的にだから、私にとっては不愉快この上ない。

 自分のデスクの背面の窓ガラス越しにも、その熱気を押し付けてくるように、ブヨブヨとした見えない食指で背中を触られているような熱を感じる。


 空を見上げると掃除機で吸い取られたように、所々ぽっかりと穴の開いた雲海が広がっていた。

穴の隙間から差し込む朝陽は明るくて、雲の薄い部分からも陽が透けて見えた。


―――雨雲ではないから、今日の花火大会は見られそう。


 休みを一日挟んでもつばさは相変わらずというか、さらに元気になってみなみさんの家に行った。

これだけつばさがみなみさんを好くなんて正直、私自身は思ってもいなかった。

第一印象から悪い人でない事は分っていたけど、ハッキリいってつばさの好きなタイプだとは思わなかった。


 つばさはどちらかと言えばアウトドアな気質で、外で遊ぶことが好きな子供だ。

だから女性の保育士さんでは物足らないかも知れないと思っていたけど、預けている時間は一緒に公園で遊んでくれてるらしいので、気は合うみたい。


 今までの保育園では、お迎えのたびにつばさの浮かない顔と疲れた様子の保育士に出迎えられていた。


 私に非があることは十分に理解しているけど、明らかな迷惑顔で出迎えられるのはやっぱりいい気分はしない。


 けど文句のひとつも言えなかった。


 つばさの為にと一生懸命働いていたつもりだけど、つばさにとっては有難いとは思えなかったんだろうな。それを口に出したことは、今までに一度もなかったけど。


 私はコーヒーマシーンにカプチーノのカプセルをセットしスタートボタンを押した。

小型のラジコンモーターが唸るようにマシーンが音を立てて稼働し始める。

そんな振動をそばで感じながら、私は今ままでの暮らしが幸せなだったのか、自問した。


 つばさを身籠った時から一人で育てて行こうと決意して、勤めていた会社を辞め独立した。

敢えて安定した生活から抜け出して困難な道を選ぶあたりが自分らしい。

逆境に立ち向かうことで自分を鼓舞するのが自分のスタイルだとも思っている。

そんな母親だからこそ、失敗は許されなかった。そして結果も残してきた。


 それはつばさにひとり親であることを負い目に感じてほしく欲しくなかったから。頑張れてきたんだと思う。

裕福な家庭こそが、幸せだとも、思ってた。


 抽出されたコーヒーの香りが鼻の奥で広がると、ちょっとした幸福感が私を包んだ。

コーヒーの香りはいつも変わらず満足いくものなのに、それなのに私は……。


自答の結果、つばさの為だと思っていたことが私の勝手な幻想だったと思い知らされた。

保育園に朝一番で登園し、まだ誰も居ない部屋でつばさの朝が始まる。

その後の十時間近く、つばさがどんな生活を送っていたのか私は分らなかった。

保育士さんたちの話を間接的に聞くだけで、つばさも積極的に話してはくれなかった。

むしろ自分から聞くことを恐れていたのかもしれない。



 度重なる転園でせっかく仲良くなれたお友達と別れ、また一からスタートを強いられる生活はつばさの性格を頑なにしていた。

園で子供たちの輪に入っていくことを嫌って、日に日に他の子と遊ぶことが少なくなってきた。

なにからなにまでつばさを追い込んでいくような私は、母親失格だと自覚した。


 つばさが大きくなれば出生についても話すことになる、その話を聞いたうえで『僕がどれだけ母さんに振り回されたと思ってるんだ!』とつばさの苦痛がわが身に降りかかる気さえする。


 それなのに、この生活を辞めるわけにもいかなくて、藁にも縋る思いでみなみさんのところへ駆け込んだ。


 私の今までの育児は結果失敗だったと言うしかない。ていうか言わざるを得ない。

失敗の上書きで、なにより恋愛が一番の落第点。

つばさを授かった事は幸せの一言に尽きるけど、つばさの幸せをかなえてあげられていない時点でこっちも落第点を貰いそう。


 私の人生はどちらにしても失敗続きだ。そんな時に、運よくみなみさんと出会えた。

つばさがあと一年、安心して預けられる、そんな気がしてきた。

ここから人生の転換点だと、自分にも言い聞かせて頑張るつもりだ。


 カプセルを捨て、淹れたてのカプチーノを一口含む。

カップから立ち上る香りとはまた違い、口腔から風味として、また鼻の奥で香りが広がった。

また小さな幸福感が私を包む。



 つばさは明らかに今までとは違った雰囲気で、いつもと同じようにお迎えが遅くなっても以前は一度も見せたことがない、満面の笑顔で出迎えてくれた。

今までの一年間をギュッと凝縮したような一週間を、私はゆとりをもって過ごすことができた。



 コーヒーを一口飲むとき、コクのある苦みを味わう余裕もなく、頭の中では常につばさの事を考えながら過ごしていた。

ましてや、このいい香りを楽しむ事もできなかった。


 与えられた幸福な時間を作ってくれたのは、紛れもなくみなみさん。彼女に感謝の意も込めてなにかお返しをしたい。

返しても返しきれるか分らないくらいに、自分の中でありがとうが夏の入道雲のようにどんどんと膨れ上がっていた。


―――さぁ、私たちの幸せについて、もう少し真剣に考えよっか。


「おはよう、香織。金曜日のディナーはどうだったかしらぁ?」


 さぁ考えよう! その矢先、計ったように邪魔がはいる。

ドンと背中に手のひらを打ち付け、あやうく口からコーヒーが噴き出しそうになった。

いつの間にか京子が私の後ろに立っていた。


「物思いに耽ってぇ、仙波さんとの食事の事でも思い出してたんでしょ」


「ぶー、つばさの事」


「また何か心配事?」


「え? 心配事なんてないわよ」


「じゃあなんでつばさの事を考えてたの?」


「心配事がなくなったから、将来の事を真剣に悩めるようになったの」


「結局、仙波さんのことにも繋がるんじゃない」


 この馴染みとの会話はいつも上手に回られてしまう。

私の思考が、それとなく京子には分っちゃうのかな。


「物思いに耽っているところ悪いかなぁ、なんて思っても、気になっちゃって」


「そう思うならそうしてくれた方が有り難いんだけど」


「私がそれを出来ない事は、知ってるでしょ?」


 悪戯っぽく笑う京子を見ていると、腹を立たせる気力も出ない。


―――いや、怒る程でもないか


 私の中でここ数日間、気持ちのゆとりが出来て怒るという感情が減退していた。

人はカルシウムを摂取するとイライラしないというアレに近いのかも?

私が摂取してるのはつばさの笑顔だけどね。あぁ、みなみさん! 本当にありがとう!


 先週の金曜日、仙波さんから誘われたお食事も、以前の私だったら断っていた。

一応つばさにも、「どうすればいい?」と相談してみた。

人生相談の回答者が格言のように、よくいう言葉がある。

『相談者は、相談する時点でもう答えは決まっている。あとは背中を押してもらいたいだけ』と。

 その言葉を借りるなら私の中では、既に答えが出てて、つばさに背中を押して貰いたかったのかも。

その結果、たった六歳の回答者は、『行ってらっしゃい!』との即答を下した。


 みなみさんに預ける前週まで、私はつばさを会社へ連れてきた。

それこそ小さな子供が背負うには大きすぎる荷物を背負って、満員電車に乗る様は周りの目には異様に写っていたはず。

きっとデリカシーのない親として見られていたんだろうな。


 会社に着くとつばさはすっかり人気者になっていた。

仙波さんとはオセロで遊んで貰い、大勝ちさせてもらったことに満足していた。

あの一週間がつばさの中で、良い印象として残っていたのかもしれない。

私もつばさも少しずつ成長している。そんな気がする。


「今度はつばさも一緒に、って誘われた」


「それって、ほぼプロポーズじゃん。どーすんのよ」


「どうしてそこに直結するかなぁ。仙波さんは、またつばさに会いたいってだけでしょ」


「あんたは結婚を考えてないわけ?」


「それは、まだ」


 京子は疑いの目を向けて、態度のハッキリしない私に「いい大人が、なに縮こまってんの」と叱咤した。


 そりゃ、私にだって分かる。ホップ、ステップ、ジャンプ。

今、私と仙波さんは友達以上恋人未満の段階。まだお付き合いを持ち出せるほどの勇気がない。

その先では、まだかな~とつばさが待ちくたびれている。


 この件に関しては、私だけの判断でとても決められるような事じゃないと思う。

最後はつばさと二人で決めたい。

 無事、再婚へ落ち着くのか分らないけど、いまは先の人生を考えられる余裕も出てきた。


「大人の男女の付き合いに子供が関わるって事は、つまりはそういう事でしょ」


 私は返事をせず、窓の外へ視線を向けて静かに頷いた。

京子も何も言わず満足そうに微笑んでいた。

昔をよく知る好よしみとして、私の恋愛成就こそがつばさの幸せであると理解していた。

 生まれて一度も父親という存在に触れたことのないつばさが、これからやっと、そのスタート地点に立てるかも知れない。


 同年代から遠く離れたスタートラインに立って、出遅れた分を取り返せるのだろうか。

もちろん父親が居ない事がハンディだとは思えない、けど父親が居ないぶん愛情を十分に与えられたとは言い難い。

私にとって、それが一番の悩みどころだった。


 私にはそんな心配が頭の中に浮かんでは消えるシャボン玉のよう。夢と期待で大きく膨らんで浮かべた薄い膜の玉は、強く吹くだけで壊れる。

親子三人となれなかった私たちは、今にも壊れてしまいそうなほど、脆いのかもしれない。


「それで当の本人は何事もなく、元気にみなみさんの所へ今日も行ったのね」そう、つばさには深刻な問題など身近なこととは感じるわけもない。


「すっかりお気に入りみたい。私なんて眼中になしよ」


 自然と私は頬が緩んだ。つばさの無邪気な笑顔が今の私にとっての救いでもある。

つばさが笑っていられるのなら、それでも今は良いと思えるようになった。

朝陽の眩しさに目を薄く開く、さも微笑んでいるように見えるかも知れない。

私は苦笑いを、無理やりに笑っている事とした。


「どんな魔法を使ったのか分らないけど、相当みなみさんに懐いちゃったみたい」


「香織を見てると、『取られちゃったな~』って顔してるわね」どこかの犬がウシシと笑うような、仕草を京子が真似てみせた。


 つばさの年頃にもなると可愛い反面、悪魔のような憎たらしさも芽生えてくる。

わがままで臆病な割に頑固で気分屋。

人の性格を分析するのは得意だ。仕事関係で人と関わりを多く持つ社長としての見識の賜物かな。

 そんな社長の立場から分析したわが息子は、『手懐づけるのが難しい』子供だった。


 まだお喋りもままならない頃は、手を離さずにニコニコと私に付いてくるだけで物静かなものだった。

散歩の途中で出会うおじいちゃんおばあちゃんを見かけると、愛想よく手を振ったりもしていた。


 けれど今じゃ老人よりも昆虫や爬虫類の図鑑を見て楽しむ趣向を持っている。

図鑑をウキウキしながら眺めている後ろ姿を、虫嫌いな私は背中に悪寒を走らせ眺めている。


 5歳のつばさが日常の様々なことに興味を持つのは、母親としては嬉しい限りの事だけど、そのベクトルがより深い所へ向わないことを、陰ながら祈っていた。


そんなつばさが、みなみさんと一緒にホタルを見に行ったことを、身振り手振りをふまえて私に話してくれた。


その大げさな素振りが私には可笑しくって、お腹を抱えて笑ってしまった。同時にこんなに楽しそうなつばさを見たことで、子供らしく育ってくれていることも実感した。


「へぇ、近くにホタルが見れる場所もあるんだねぇ」私の話に京子が感心する。たぶん京子はホタルを直に見たことがない。かく言う私も、見たことはない。知識としては知っているのに、アニメ映画や写真でしか見たことがない。そんな事が世の中には沢山ある。


「夏って感じだよね。私も連れて行って欲しいなー」


「でもさ、そのみなみさんって行動力あるよね」


「出来る女は行動力を伴うのよ」思い立ったら即行動、私の理念とピタリと一致する辺りが、みなみさんに好感を抱く要因かも。THE行動力。


「できる女とはちょっと違うかな、つばさが図鑑を見てたら連れ出してくれたんでしょ? それって彼氏みたいじゃない? 彼女が花火大会特集記事見てたら、『見に行こうぜ』ってカンジ」


 なるほど、と京子の理屈に、私は妙に納得した。彼女の行動力がつばさに与えた印象は、『特別なもの』だったのかも知れない。

今までの保育士さんとは比べものにならない人なのだろう。

今日も元気にみなみさんの所へ行ったのもその点からいうと頷けた。

 でもさ、つばさは男の子でみなみさんは女の子、京子の云った事とは逆じゃない? 



「えっ? 浴衣……、ですか?」


「これ、うちの会社で今夏売り出す新商品なんだ。みなみさんに着て貰いたくって」


 彼女は明らかに戸惑ってる。私にとって年頃の女の子のファッション事情を知っておくことは、とても意義がある。


 いわばマーケティング調査の一貫。無償で提供すれば大抵は喜ばれるんだけど、みなみさんには抵抗があるのかな。


 それとも浴衣はあんまり好みじゃない?


「これを着て貰って、花火を一緒に見に行きたいなぁ、って。ダメかな?」困惑の色が強くなった、もうひと押し。「みなみさん! いこっ」つばさがすかさずフォローしてくれた。


「わ、分りました。着ます」


「あーりーがーとー!」なんとか口説けた。親子の阿吽の呼吸。ちょっと強引だったけどゴリ押しも時には必要だね。


 断られたらどうしようかと思った、つばさが居る手前、二人だけでも花火を見に行かなきゃならないし。

今までつばさと二人きりで花火を見に行ったことはない。


 つばさの趣味が良いのか、昆虫や爬虫類以外にはあまり興味を示さず、かわいい系代表格の犬や猫にはほとんど見向きしなかった。


 私の人間関係上、犬派が若干優勢で、少数派の猫がトラさながら、虎視眈々と巻き返しを図ろうとしている。

そんな犬猫抗争すらつばさにしてみれば別世界のお話。アリとキリギリスの童話の方が興味をそそられるのかも。


 一人で地べたに座り込んで飽きることなく観察して毎日を過ごす。そんなことよりも大勢で空を眺めて歓喜する花火大会の方が私は健全だと勝手に思い込み、つばさを連れだそうと決心した。


 みなみさんが一緒ならより心強いと、身勝手な話だけど誘うことにした。



  右手持った紙袋を、みなみさんに手渡した。ちらっと中にのぞけている透明の袋に包装されているのは、紫色のツクバネアサガオをあしらった浴衣と、朱い鼻緒に幾つもの白い風車を縁取った下駄が入ってる。


「あれ、みなみさんネイルしてたんだ?」紙袋を受け取る指先の爪に、てんとう虫が付いているような、赤地に白玉のデザインが見えた。記憶の限りでは、朝にはなかったはず。


「昼間につばさ君と一緒に、ネイルしていたんです。お母さんが帰って来る前には落とそうねって話していたんですけど、意外にお迎えが早くて間に合わなかったんです」


申し訳なさそうにしているみなみさんとは対照的に、共犯者のつばさはニヤニヤとした面持ちで私に向かって爪を見せつけてきた。


 つばさの小さな爪にもてんとう虫が止まっていた。みなみさんの器用な一面を私は知った。


 私にはそんな器用さもなくて、取り柄といえば発想と実行力ぐらいなもんで、『それだけあれば十分でしょ』と京子によくなじられたりしたものだ。だから私は可愛くないんだな。


 みなみさんの方がよほど女の子らしくてCute、おまけにつばさにも好かれるし、きっと男の子が好きになるタイプとはみなみさんみたいな女の子だと思える。なんだか悔しい。


 でもそんな仲の良い二人を見てると、浴衣に描かれたペチュニアの花言葉のように、私の心はやわらぐ。


二人の笑顔が、身体の底からわき上がるエネルギーになって、今の私を突き動かしてくれる。


なんだか不思議。この感覚を二人も感じているのかな?


きっと私だけじゃないよね。


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