石崎 香織   RISINGWAVEの香り

 陽の光から隠れるようにビル影が私と太陽の間を遮る。


まだ陽が昇りはじめて二時間も経っていない。




 ビルの隙間からは、すこぶる快晴な青空が見える。あまりの明暗の差で、目がくらむ。


品川駅を出て西を目指して、私は歩いていた。


都会の騒音は耳馴染みが良い、心地良さすら感じさせてくれる。




 地元に帰れば等間隔に並んだ住宅と街灯が私たちを出迎える。


日中の騒がしさを、私は未だに知らない。この時期は、近所の野良猫が発情をよくしていた。


夜な夜な奇妙な鳴き声を響かせて、つばさも「何の声? 赤ちゃん?」と聞くくらいだ。


発情なんて言葉は、幼いわが子には縁がない。


そう、私が付き合っていた過去の男たちの方が、まだ似合うと思う。




 平日のこの街では、恋する男女よりも働く男女の方が多い。


この大きな街全体が会社そのもので、私はその中の歯車の一つでしかない。


周りの人たちも、歯車。コロコロ転がりながら毎日を生きている。


大した楽しみがない私にとって、そう見えてしまうだけなのかも知れない。


私は横目で陰鬱そうな人たちを追い越し、オフィスに早歩きで向かった。




 駅から十分程歩いた十七階建ての高層ビルに、会社のオフィスが入っている。


一階の共同ロビーで受付嬢の真由美が、ビルに出勤してくる人たちと挨拶を交わしてる。




「真由美ちゃん、おはよう」


「あっ香織さん、おはようございます。あれ? 今日はつばさくんいないんですか?」




 つい先週までつばさは私と一緒にここまで来ていた。


真由美が訊ねるのも無理はない。だって今週も連れてくる予定だったし、それを彼女にも伝えていたから、つばさが見当たらない事への発言だった。




 今朝の話を説明すると真由美は、「つばさくんに会えないのは残念だなぁ」と寂しげな感想を漏らした。 


つばさが聞いたら喜ぶよ、あの子はああ見えてとても面食いな一面がある。


真由美ちゃんはまさにこのビルの看板娘、ロビーに入った瞬間に彼女が居るだけで場が華やいでる。


そんな彼女の事をつばさも気に入っていた。




「つばさがそれ聞いたら喜ぶ! 伝えておくね!」




 真由美に手を振りその場を後にした。


エレベーターホールは無人で、エレベーター三基分のドアが連なっていた。


ちょうど真ん中のエレベーターが下がってきたので、私は中央の昇降ボタンに指を触れた。




 オフィスは八階の東側フロアにある。一時期、自分の健康にと思い階段を使ってみた。


二週間ほど続けた結果、特に健康に対して効果を発揮しないと判断して上ることを辞めた。


時に私の行動は周りの目には、奇異に写るらしい。


階段を上るのが飽きなのか諦めなのか、周りが判然としない中途半端な時期で辞めた。私の中ではもちろん諦めだ。


つばさを妊娠した時は、結婚を選ばなかった。さもそれが当然のように選択した私を、周りはきっと諦めだと思ったはず。しかしそれは私にとって、飽きだった。




 当時付き合っていた彼とは、結婚は特に考えてはいなかった。私には男を見る目がない。


仕事にも満足し充実してた頃、とある友人の結婚式で彼と知り合い、付き合った。告白は私から、した。




 ある日、酔った私を求めてきた彼が、避妊せずに事に及んできた。その結果、私は妊娠した。


教養は身に着けた自身があった、でも素養はお世辞にも良くはないと思う。だから男の本性を見抜くことが出来なかった。


付き合って来た男性にとって私は財布か欲求の掃き溜めでしかなかった。大切にされたことなんて一度もなかったかもしれない。


そこで彼だけを責めるのは不公平だと私は思い、彼に妊娠を黙って別れた。




 私はエレベーターの出入り口上にある電光表示をボンヤリと眺めていた。




 ―――今ごろつばさは何してるかな?




 私から見たみなみさんの印象は受け答えのハッキリした女の子で、むしろ普通に保育園に勤めていないことが不思議なくらいに、人として魅力的な女の子だった。


かく言う私も通常の保育園でお世話になれるほど常識的なお勤めが出来てる訳じゃなかった。


そのいう点では、みなみさんの存在は非常に有り難かった。


今のままつばさを預かってもらい小学校へ入学したら、彼女を自分の職場に勤めさせたいとも思った。




「おはようございます。香織さん」




 電光表示が4から3に変わり、ドアの向こうから微かな振動を感じていた私に、ドアとは逆の背後から聞きなれた声が耳に届く。


振り向かなくても誰だか分るほど、耳に馴染む声だった。




「あ、仙波さん。おはようございます」




 パッと振り返る私。きっと純情な乙女の顔になっているに違いない。


そこには筋肉質な身体がグレーのピンストライプスーツの上からでも分るフォルムと、堀が深い欧米人のような顔立ちのわりに、顎鬚と短髪の黒髪はいかにも東洋人らしい男性が立っていた。




 彼は仙波勤せんば つとむさん、同じ階にオフィスをかまえる経営者だった。私が常日頃お世話になっている知人でもあった。




「今日はお一人ですか? つばさくんは?」


「今日から別の保育所に通わせてるんです」


「へぇ、それは良かった。しかし、つばさ君に会えない寂しさもありますね」


「またまたぁ」


「本当の事ですよ」




 彼は上品に笑って見せ、その表情につばさへに対する寂しさも表現してみせた。




 ―――非情に悔しいんですけど(笑)息子に嫉妬しちゃう。




 先週まで私の右隣にいた小さな後ろ姿を思い浮かべているのか、しんみりとした声で母親である私に率直な感想を漏らした。


ちょうどエレベーターが着き彼が私に、どうぞと促し二人で話しながら乗り込んだ。 


子供というのはおいしい立場だなと、大人のくせに子供じみた嫉妬をしてしまう。


もし私がここに来なくても出張か外回りだろう、それくらいにしか思われないはずだし。




 男嫌いだった私が、昔懐かしい感情を仙波さんに対して感じ始めていた。




「それなら、安心して仕事に集中できますね」


「ええ、先週みたいに周りのみんなに迷惑かけなくて済みますから」


「逆に皆の仕事のモチベーションが上がってましたよ」


「またまたぁ」


「これも本当の事ですよ」




 彼から微かに漂う甘みのあるフレグランスが、鼻腔を刺激した。


いつもと同じRISINGWAVEのFREE、彼が好んでつけていることもかなり前から知っていた。


そんな香りに包まれながら無意識に階層ボタンを押す。


もう見なくても分るくらい配置場所を覚えている。


ただ、今は少し緊張しているせいか、指先が震えてる。らしくないぞ、私!




 熱もないのに頭がクラクラする。かるい眩暈と動悸が私を襲う。




 ―――あれ? これって階段で上った時と同じ感覚?




 僅かに身体にかかる重力が私を現実に引き戻した。


二人で電光表示を眺めて他愛のない話をしていた。


もう六年か、私が恋愛感情を捨てたのは。それからはひたむきにつばさと仕事に情熱を捧げて生きてきた。


恋人が居なくても楽しく過ごせたし、未だに必要性も感じていない。


なのに、どうして私は…




「もし、今週末に時間が空いているのでしたら、食事にでも行きませんか?」




 これまた唐突(笑)


私の心の内が、あなたには見えているのでしょうか。


期待していることを、次々と叶えてくれそうな、そんな予感すら感じさせてくれる。




「三人で、ですか?」


「できるなら、二人で」


「またまたぁ」


「お願いできませんか?」




電光表示は6から7へ変わった。




「確認してみます」




 視線は変えずに返事だけした。これはデートのお誘いだよね?


 つばさを妊娠して以来、恋愛逃避をしていただけに自分の変化に、少し戸惑いを覚えている。


冷静に考えてみたら親しい男性の中にも嫌悪を『探し』自分のほうから相手を遠ざけていた。


恋愛にひどく臆病になっていた自分が、また男性に恋心を抱くなんて。まぁ今までのダメンズと比べ彼はじゅうぶん魅力的。そう、凄く。




 ドアが開き、彼がドアを押えてくれた。その彼の表情が一階に居たときよりも殊のほか明るい印象に写った。


そう錯覚したのかも、私だけが。




「じゃあ、連絡待っていますね。お仕事頑張ってください」


「ありがとうございます。仙波さんも無理せずに」




 互いに会釈を交わしてそれぞれのオフィスに歩を向けた。


 私はようやく緊張感から解放されてホッとしていた。




「おはよう香織、仙波さんと何かあったの?」


「やだ、京子見てたの? 面倒くさい奴に見られた~」




 通路の角からヌッと身を出して立花京子たちばなきょうこがニヤニヤした表情ですり寄ってきた。


おそらくエレベーターを降りたときから見ていたに違いない。


 どこかの家政婦に負けず劣らずの観察でもしていたのだろう。その口ぶりから察するに、私たちの雰囲気を感じ取ったに違いない。




「あんたね、そんなぞんざいな言葉は親友に使うもんじゃないよ。ところで、デートの約束でもしてたんじゃないの」


「はぁ? そんなのじゃないわよ。ただのお食事のお誘いよ」


「それをデートのお誘いと言わずしてなんていうのよ」


「確かにそうだけど、はっきり言われると恥ずかしいって!」




 彼女とは幼馴染の腐れ縁で、小学校からの付き合いだ。


彼女との会話で先ほどまでの緊張感が、幾分和らいだ。


私の人生において京子だけはプライベートも仕事も垣根を越えて、親友と呼び合える関係を保つことが出来ていた。


「そういえばつばさ君、大丈夫だった? 新しいところ」




 京子にだけは事前に話をしてあったので、つばさが居ない現状を把握していた。


実のところ、みなみさんの保育室を見つけてくれたのは京子だった。


たまたまWEBでみなみさんのブログを見つけ、私に連絡をくれた。




「うん、結構しっかりしている人だった。人を騙すタイプじゃなさそう、何より女の子だから安心」


「じゃあこれからは身を入れて仕事に集中出来そうね。社長、よろしく!」




 肩をバンバンと叩きながらはしゃぐ京子をよそに、私は少し思い悩んでいた。




「お食事、断っちゃ……ダメかな?」


「いいじゃん、行けば」


「つばさが心配なのよ、見ててもらえるか」


「そのための保育室でしょ? お願いしたらいいじゃん」




 私が真面目に悩むほど、京子はサッパリとした回答を寄越してくる。


『お茶こぼしちゃった』『いいじゃん。拭けば』そう、とても単純な悩みみたいに。




「仕事上の付き合いでもあるんだし、その延長だと思いなさい」


「そ、そっか。社会人としてのお付き合いも大切だよね」


「じゃあデート楽しんでね!」


「簡単に言わないでよー! 私の性格知ってるでしょ」


「あんたの性格良く知ってるから言ってんでしょ。男嫌いのアレルギーがでてたら、もっと素っ気ない態度取るでしょ。仙波さんに対してそれがないのは、好きって証拠でしょ」




 面と向かって仙波さんに対する好意を指摘されるのは、正直いって恥ずかしかった。


分ってても口に出さないのが大人の礼儀って時もあるじゃない。


京子にはそれすら、まどろっこしいと平気で悪態をつくこともある。


私にはそれが心地よく感じて、羨ましくなる。それだけハッキリと物事が云えたら、もう少し自分を好きになれたんじゃないかな。




 付き合う男性に対して、「きっと変わってくれる。分かり合える」なんて幻想を抱くことなどなかったはずだ。


私に足らないのは、そういった部分。人の内面がきちんと見られていないところだった。




「それにさ、つばさくんも男の子だし、父親がいても良いんじゃない?」


「父親って。そんな性急な話じゃないでしょう」


「でも考えてもいい話でしょ。途中で居なくなった訳でもないし、受け入れやすいとは思うわよ?」




 ふと私の脳裏に六年前まで付き合っていた男の顔が浮かび上がる。


飼い犬が飼い主を見つめる様に、愛情を欲しがるような視線で私を見ている。


『僕を見捨てないでね』と口癖のように彼は言っていた。


今でははっきりと顔も思い出せない。霧がかかったようなぼやけた中から、徐々に思い出された顔は、とても私の好みだったとは思えないくらい不細工な顔だった。


「こんな顔だったかな?」と思案してみても、やっぱり顔は思い出せなかった。


もしかしたら、それは全て私の嫌悪感から肥大化した妄想かもしれない。


私のネガティブな一面、男嫌いな私。




 これ以上は一緒に居たくないと、妊娠を隠し別れた。それ以降、男性との交際も避けてきた。


あの日の選択は少なからず正しかったはず。


今まで父親が居ない事に不自由を感じたことはなかったし、不幸だとも感じてない。


でもそれは、私だけのこと。つばさはどう思ってるんだろう。




 つばさには、父親が必要なのか、その事について二人で話したことはない。


父親が居ないことに疑問も抱かずに生きてきた。いつかそれは心の内に、自然にふつふつと湧き上がってくるものかもしれない。




「夫は必要ないけど父親が居たら、つばさはもっと幸せを感じられるかな」


「それは、なるようにしかならないよ。それよりもあんたの幸せはどうなの?」


「わたし? 考えてもないよ。今はつばさが居ればそれでいい」


「つばさが不幸でも、香織は幸せなの?」


「そんなこと、あるわけないじゃない」


「じゃあ自分の幸せもちゃんと考えときな。どちらかだけが幸せならそれでいいんじゃなくて、二人とも幸せな道を選ばなきゃ」




 彼女は明快に答えた。もっともだと思った。


私は幸せになれると信じていた。だけど幸せは私には振り向いてくれなかった。


今はつばさが居ればそれだけでよかった。でも、つばさには父親の存在が必要になるのかもしれない。




 京子と並んで歩きながらオフィスに入り、無意識に自分のデスクまで歩いた。


頭の中は答えが出せないことが分っているのに、見つける作業を必死に続けていた。


私とつばさを幸せにしてくれる人。


おぼろげなに写る背中から、微かにコロンが香るような気がした。


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