栗林 健太   始まりの日

「みなみさん、僕ブロックで遊びたい」


 部屋をキョロキョロと見渡し、つばさが俺にお願いをしてきた。


「ブロック? レゴのブロックでいいかな?」


「うん!」




 レゴブロックは、確か押し入れに仕舞ってあるはずだ。


引っ張り出すか。


俺は香織から渡されたノートをいったん閉じた。




「オッケー! 持ってくるから待っててね」




 つばさに親指を立てて、俺はブロックのしまってある和室に向かった。


つばさは頷いて、視線をテレビへ戻した。




 ―――午前11時、もう三時間も経ったのか。




 俺はつばさが今まで通っていた保育園のノートの内容を、まとめる作業に没頭していた。


さすがに初対面の子供をいきなり預かってるんだ、”様子見”だけじゃ不安だ。


何がダメで、何がOKなのか。何が好きで、どんなことに興味があるのか、書かれている情報を元に、整理していた。




 真剣な表情でアニメ、スポンジボブのDVDを食い入るように見ていた。


身動きもせずに画面を見つめる後ろ姿をしり目に思った。




 ―――相手が男の子で助かった。




 俺は和室に入るなり安堵のため息をついて、表情を崩した。




 ―――やっぱり今までの女装とはわけが違う。緊張感しかない。




 仮に女の子の保育でも、内容に違いがあるわけじゃない。


けれど、もし女装がばれた場合のリスクが、男の子に比べて断然高い。


わざわざ女装してまで女の子を保育をするってのが、一般的に理解されない。


そう考えると、男の子の方がリスクは少ない気はする。あくまで主観的にだけど。


でもやっぱり女装をして、男の子の面倒を見ている現状も、相当ヤバいだろ。




 ―――女装は、悪事なんだろうか…




 女装する男性は、世間様の目に映れば、変質者と下卑た言葉を浴びせられる対象だ。


女装しながら男の子の面倒を見ているとすれば、変質者に加え、男の子に興味がある、危ない性癖の男に格上げされるわけだ。


弁解の余地も、機会も与えられるわけがない。


もし裁判になったら、黙秘権を行使せざる負えない。




 俺はバカだと知ってる。自分に自信があれば女装なんてせず、今とは違う人生を送ってたはずだ。


小さいころは少年野球に熱中し、プロ野球選手を目指し、ひたむきに努力する少年だった。


小学校の高学年になって、背があまり伸びることがなかった。


周りの友達は身長が伸びていくが、俺一人が成長期の波に乗り遅れた。




 中学高校と周りの同級生に混ざると、その身長の低さからからかわれる様になった。


パッと見、男には見えない。むしろ男子の制服を着た女子?的な視線を向けられていた。


いじめの対象にはならずとも、6年間の学生生活は、ネガティブな思考を育てるには十分な期間だった。




 こうして女装に逃避する俺は生まれ、自分への自信を徐々に捨てていった。




 ―――いっその事、全てをさらけ出せたら楽になれる? いや、無理だ。俺が耐えられない……。




 学生時代から、他人から『なんだ、やけに背の低い男だな』と言いたげな視線を受けて生きてきた。


俺のコンプレックスが、誰かに言わずとも見てわかることが、悲しかった。




 ―――誰に、俺の気持ちがわかるってんだよ。いい加減に気づけよ。




 その時、背中につばさの声が届いた。




「みなみ先生、まだぁ?」




 あんなに熱心にテレビを観ていたくせに、起用なことに頼みごとだけは良く覚えていたりする。


子供はなぜか要領が良い。


そう…不器用な自分と違って。




「あ、ごめんね! 今探してるから、もう少し待ってて!」




 今はなんとか、みなみ先生を演じるしかない。不器用なりに頑張るしか、ない。




 押し入れのふすまを開け、奥からレゴの入ったプラスチックケースを引っ張り出た。


実家から持ってきたレゴは、6年もの間、押し入れの中で使われるその時を、待っていた。


すこしホコリを被ったフタは、カビが生えてるようにも見える。


フーっと息を吹きかけたが、このままホコリをまき散らすのは衛生的に良くない。




 洋服タンスの上に置いてあったティッシュを二枚取り、キレイに折りたたんだ。


フタの縁から、ティッシュで丁寧にホコリを拭き取った。


なんとかホコリは舞うことなく、ティッシュに舐め取られた。




 ホコリがびっしりと付いたティッシュを、ボーっと眺めた。


これだけのホコリが積もるまでに、俺はなぜ変わってしまったのだろう。


変わったのは俺か? 周りの環境か?


判然としない思考だけが、ただ頭の中でぐるぐる回ってた。




「汚いね」




 右後ろの肩越しから、突然つばさが声を掛けてきた。


危うく地声を出しそうになり、驚きのあまりに持っていたティッシュを握りつぶしてしまった。




 待ちかねて様子を見に来たのか。手の中に、握りこんだホコリとティッシュが汗でにじむ。


『汚いね』そのフレーズが一体なにを指して云ったのか、俺は思慮してしまった。


もちろん、この手の中にある、ホコリの事、だよな…?




「みなみさん、オヒゲ生えてるね。汚いね」




 ―――そうだね、みなみさんホントは男だからオヒゲ生えているんだよ。汚いよね!




 そんなバカげた自虐と同時に、激しい動揺が起こる。


こんなに近づいて話をしてたら、直ぐにバレるんじゃないかと焦ってしまう。


気が気でない状況で、俺の思考は常にネガティブモードになっていた。




「ず、ずーっとここに入っていたから、ホコリ…被っていたみたい……」


「ふーん」


「すぐ持っていくから、向こうで待っててね?」




 俺の問いかけに返事はせず、つばさは黙ったまま下を俯き、俺のシャツの袖を、ギュッと握りしめた。


レゴで直ぐに遊びだす様子は、ない。




「どうしたの? ブロックで遊ばないの?」


「痛い、お腹」


「お腹冷えちゃったかな?大丈夫?」




 ―――またか……。




 つばさはここに着いてから、既に三回トイレに行っていた。




「じゃあ、おトイレ行こっか?」




 俺はつばさの手を引き、立ち上がった。


手のひらが若干湿っていたので熱を疑ったが、首筋に手を当て体温を確かめた、発熱もなく呼吸も乱れてない。


きっと、あれだな…。


俺の頭の中で一つ、心当たりを見つけた。




「すぐそこで待ってるから、何かあったら呼んでね?」




 俺はそっとトイレの扉を閉め、脇の壁に寄り掛かった。


つばさは、保育園が変わるたび、初日の登園日はお腹の不調を訴えていた。


慣れない環境で、ストレスが溜まっていたんだと思う。


いうなれば、つばさはデリケートなんだ。


この環境の変化に順応するのには、かなり時間が掛かるような気がしていた。




 ―――5分経ったかな?




「つばさくん、お腹よくなった?」


「うーん、もうちょっと」




 さすが年長児ともなるとトイレも一人で出来るので助かる。


この場合、それは非常に好ましい事であった。


俺の場合、トイレの補助を行えば、それを『いやらしい行為』だと取られかねない。




 俺はまだツイてる! アレの事じゃないぞ。運に見放されていない。


でも俺は恵まれていると自惚れることは、しない。絶対に。


今の俺は、リスクを回避することで頭がいっぱいだった。




 ふと顎のラインを指でなぞる。


成人を迎えたあたりから、徐々に主張を強めだしたヒゲが、微かに残っていた。


ほかの人と比べ、かなり薄い方だが、女性のムダ毛処理した肌並みには、生えていた。


もちろんファンデを塗って目立ちにくくなってると思うが。




『汚いね』




 ―――いや、まさか、な……。




 いちいち頭の中を、女装がいつバレるのか、の心配事でいっぱいにし、なかなか保育に集中できなかった。




 つばさの不調を考えると俺の心配事など些細なことだ。


初めて預かった子供が、お腹を下している状況は、極めて不安でもある。


 かく言う俺も、胃の方がキリキリと痛む。痛みのあまり、吐き気もした。


さっき胃薬をこみ上げる吐き気とともに、胃へと押し込んだばかりだ。




 大人の俺は、まだ薬に頼れるが、つばさに関していえばそうやすやすと薬に頼るわけにはいかない。


症状的に、恐らくはストレス性の腹痛だろうと俺は考えていた。


 預かった保育ノートを見ると、どこの保育園でも初日は必ずつばさは腹痛を訴えていた。




 慣れない環境に置かれ、多感な時期にストレスを感じないはずがない、今日もそれに悩まされているんだろう。




 生まれてから女手一つで育ってきたつばさは、父親がいない暮らしが当たり前のことだった。


彼はその事をどんな風に感じているんだろう。


今が幸せなら、それでも良い。


しかし過度なストレスを感じることが、本当に幸せなのか疑問にも思う。




 ―――この事はキチンと報告しないとな。




 香織は、何のために頑張っているのか。


親子の時間を削ってまで、仕事に向き合わきゃいけないのか?


幸せの価値観は人それぞれなのは、良く分ってる。


俺だって、女装してる時が幸せに思えた時期もある。


彼女も、今は仕事が順調だからこそ、つばさを長く見てもらえる環境が欲しいのだ。


ただその選択が、この子の腹部を襲う痛みに、大きく起因してるのであれば俺は胸が痛む。


その苦しみを近くで見ているのも、辛い。




 とにかく、香織に伝える内容を頭に書き出し整理した。


伝えるときは筆記で、喋るといつ地声が出るか分かったものじゃない。


当然と言わんばかりのリスク回避の思考。意外と俺って器用なんじゃ?




 ジャーっとトイレを流す音が聞こえた。ガチャッと扉が開きつばさがスッキリとした表情で出てきた。きわめて明るい表情で。




 ―――とりあえず一安心。




 俺はホッと溜息をついた。




「みなみさん、男なの?」


「んんん?! ど、どうしたの急に」




 つばさはトイレを出るや、不意の一言を俺に放った。


なぜその疑問が浮かんだのか、理由が分からない。


今の俺はイヌ同様に、外見だけでオスメスの判断が付かないはずだった。


なのに何故、つばさは俺を男だと思ったのか。用足ししている所でも見られたか!?


とにかく俺は、動揺を隠せなかった。




 なにか答えなきゃならないと焦り、顔の表情が固まらずあたふたしてるうちに、つばさの更なる追及が始まった。




「みなみさん、さっきおトイレいったでしょ?」


「う、うん。行ったよ。な、なにか変だったかな?」




 そう、トイレに行くのは男も女も同じはずだ、違いなんてないよな?




「おトイレで何してたの?」


「つ、つばさくん、女の子にそんなこと聞いたら、き、嫌われちゃうよー? それに、おトイレは何のためにあるのか、分ってるでしょ?」




 いやいやいや、トイレ行ったらする事は決まってるだろ!


大か小のどっちか、もしくは飲み過ぎた代償を吐き出すくらいだ。


確かにさっき、用を足したが、なんでそんな事を聞くんだよ…。




「うん。オシッコかウンチでしょ? どっちだったの?」


「えっ? えぇ!? それ聞くの!?」


「うん。どっち?」




 ―――なんでそこまでして聞きたがる……。俺が男だって確証を得るための質問だよな? そんなことで、どっちかなんて分るのか?




「オ、オシッコ……」




 今しがた、人生最大の恥辱にまみれているこの状況。


考えてみろ。女装をした男に、無垢な少年がトイレでナニしていたのか問いただしてくるんだぞ?


成人が相手より数倍ヤバい。恥ずかし過ぎて足が震えてきた。胃が痙攣して、笑いすら込みあげてくる。




 そして俺が男だということも、何故だかバレそうでヤバい。


色々とヤバい状況の中でつばさの一言が、その核心に迫った。




「みなみさん、お股ちゃんとふいた?」


「えっ?」


「お股ふいてないでしょ?」


「ふ、拭いたし! なに変なこと言ってるの?! やめてよぉつばさくん!」




 ―――いや、たしかに拭いてないよ? だって男は拭く必要ないだろ。でもなんでそんな事が分かったんだ?




「トイレットペーパー、僕が入った時のままだったよ」


「え? トイレットペーパー?」


「うん。みなみさんがおトイレ入ったなら、もっとキレイに紙が切れるでしょ? 最初に入った時はキレイだったよ」




 なるほど。確かに俺はペーパーを使わずにトイレを出た。


だが、ここで食い下がる訳にもいかない。初日で詰みだなんて酷すぎる。


とにかく、言い逃れするしかない。所詮、相手は子供だ。なんとかなる。




「みなみさんも紙を切るの下手なんだよ? たまたま、つばさくんが切ったみたいになっちゃった」


「でも、みなみさんの家のおトイレに無いものがあるよ。僕のお家にはあるんだけど。さっきトイレの中を探しても見つからなかったよ」




 なになに! 今後はいったい何が見つからなかったって言うんだ!


俺の家に無くて、つばさの家にはあるもの? 


消臭剤とか、別に一人暮らしだし置かなくても良いよな。




「それは、色んなお家があるから。つばさくんの家にはあって、みなみさんの家にはなかっただけだよー!」




 ―――必ずなきゃいけない物なんて、あるわけねーだろっ。頼むから納得してくれ。




「女の人は『ナプキン』って使うんじゃないの? ママはおトイレに必ず置いてたよ。ここのおトイレには無かったよ。なんで?」


「えっ」


「ナプキン、ママが使ってる。みなみさん、使わないの?」


「えぇっ」


「みなみさん、おヒゲ生えてるよね? なんで?」




 開いた口が塞がらないとはこの事だろう。


小さい割に勘が鋭いつばさを、なんとか口止めできないか必死で頭を働かせていたが、多分もう無理だ。


じゃあなんで髭が生えているのを知った時、つばさは言わなかったのだろう?


確信がなかったのか? 『汚いね』って、本当に俺の髭の事だったのかもしれない。




「あのさ、つばさくん……。みなみさんが、本当に男だったらどうする?」


「うーん……? 面白い、かな!」つばさは云うなり、眼を輝かせた。


「おもしろ、い?」 


「みなみさんみたいな人、知らないもん! 楽しそう!」




 自分がピエロだったら、どれほど良かったことか。


楽しんで頂けるのは結構だが、俺は保育士だ。


俺はつばさの扱いに困り果てた。このまま香織にバレたら、この話は無かったことになる。


さらに警察に通報されることもあり得る。今できることはつばさを味方に付ける事だと、俺は考えた。




 ―――作戦変更、だ!




「ごめん、つばさくん! みなみさん、つばさ君の言うとおり本当は男だったんだ」




 俺はこれ以上女装を続けるのは不可能だと思い、つばさに事実を伝えた。


地声で話しかけたせいか、つばさが一瞬、身を引いてたじろいだ。


目が泳いでる、俺の顔をまんべんなく眺めて、男としての特徴を探しだそうと必死だ。




「びっくり……したよね?」


「ホントに、みなみさんは、男の人だったんだね。女の人にしか見えないのに。どうして女の人のフリするの?」




 それはつばさの興味本位なのか事情聴取なのか、俺には見当もつかない。


無用な嘘は逆効果だ、正直に話そう。ただそれを話しても、つばさが理解できるか疑問は残る。




「俺はさ、男の人達に混ざると背が小さくて身体も小さい。小学校までならまだ良かったけど、中学、高校からそれを茶化されるようになったんだ。お前は小さくて女っぽい、ってね。でも顔は不細工じゃないからな」




 いったん話を区切りつばさの様子を窺うと、なんとなくだが話は呑み込めるようだった。




「俺はそんな奴らを見返したかった。とにかく男らしく見えそうな部活に入ったんだ。サッカー部。サッカーをやる男子は格好いいだろ?」




 つばさはうんうんと頷きながらも、チラチラと俺の後ろで黄色いスポンジがテレビの中で動き回る姿を気にしていた。


これじゃ香織にポロッとつばさが漏らすのも時間の問題だ。


俺は、今後の身の振り方を考える必要があるかもしれない。


保育士なんてもう、もう辞めよう。俺には向かない。


子供と触れ合うのは好きだ。ただ、保護者や保育園のスタッフとの付き合い方に悩むくらいなら、全く違う道に進んだ方がいい。




 ほんの数時間前に生まれ変われたと思ったのに。新しい人生がスタートしたはずなのに。


直ぐに諦めてしまう自分に、嫌気がさす。


何もかも上手くいかない、生きている価値が俺にはあるんだろうか。




「みなみさん、どうしたの?お腹、痛いの?」




 どうやら酷く落ち込んだ表情の俺を心配したのか、つばさが声を掛けてきた。




「お腹痛いなら、おトイレ行ったほうが良いよ。テレビが見えないから、ちょっとどいてほしいな」


「俺の心配してくれてたんじゃないのかよ!」


「みなみさんって、ホントのお名前?」


「え? 本当の名前は健太だ」


「ケンタさん? じゃあみなみさんって誰のお名前?」


「健太さんが初めて好きになった人」


「じゃあ、みなみさんは誰がすきなの?」




 ―――そんなの知らないよ! みなみちゃん、今頃なにしてんのかな。結婚してるのかな。




「つばさくんはさ、好きな子とかいないの?」




 未だに俺よりもスポンジを気にしている少年に訊ねた。




「僕は好きな人よりも、おトモダチが欲しいな」


「そっか、お友達か……。俺も、友達が居ないから欲しいかも」


「おトモダチ居なくて、さびしくない?」




 ―――なんでそんな心配されなきゃいけなんだ。てか、上から目線ってのが腹立つ。だんだん悲しくなってきた。




「つばさ君だって寂しくないの?遊ぶ相手が居ないんだろ?」


「いいの、あれ見てる方が楽しい」と、俺の後ろを指さしながら、楽しそうにつばさはニヤついていた。




「じゃあさ、いくらでも見せてあげるから俺が男だって事は、ママには内緒にしててくれる?」


「どうして?」


「ママ怒ってつばさ君のこと、連れて帰っちゃうから」


「あれ見れなくなる?」


「絶対に見れなくなる」


「じゃあ言わない!」


「ホントか! 約束してくれるよね!」


「みなみさんの変装を辞めてくれたら、いいよ」




 確かに、既に男であることをカミングアウトした手前、つばさの前でみなみさんを演じることは無意味に近い。


ただ、いつかボロを出すんじゃないかと不安だけが先立つ。いやもう先だっていとも簡単にバレたんだ。もうどうにでもなれ。




「分った。そのかわり約束だ。みなみさんの時に、健太さんとは絶対に呼んだらダメだぞ? いいな」


「うん、わかった! 早くケンタさんになって!」




 ―――俺はいつだって健太なんだけど。いや、健太から逃げてるのかな俺は。




 つばさは目をキラキラさせて俺を見つめていた。


ウィッグを取る。つばさがキャハハと笑いだす。


薄化粧ながらファンデと目元に引いたアイラインをメイク落としのシートで拭き取る。つばさが俺の手を掴み、シートに付いた汚れと、俺の顔とを不思議そうに視線を巡らせる。


最後に、シートを折りたたみ、唇のグロスを拭いた。つばさはポカーンと口を開き魅入っていた。




 毎朝、香織の化粧を見ていたつばさには、男が化粧をする事が新鮮で仕方ないだろう。


その逆もまた、刺激的でもある。


みなみから健太へ、その変化をこと細かく観察したい。


そんな印象だったんだ。




「すごいすごい!」




 興奮のあまりにつばさがジャンプを始めた。


いったい何が凄いんだか分らないが、今まで子供のこんな無邪気な笑顔を、俺は見たことがあっただろうか。


その笑顔に癒されたい。やっぱりこれが俺の天職なんだろうか。




「ドンドンしたら、下の人に怒られるから辞めてくれ!」


「うん!」




 一向に辞める気配はなかった。俺の言うことはちゃんと聞いて頂けるんだろうか……。


この主従関係がもたらす俺の未来が、不幸でないことを願うばかりだ。

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