9話

 


 縮みあがるような寒さの中、セレティナは人目を忍びつつ足早に中庭を目指していた。


 白く煙る吐息を吐き、冷えた細指を擦り合わせながら、齧歯類の小動物を思わせる機敏な動きで屋敷を抜けていく。


 中庭が見えた頃、冬用の厚手のローブのポケットにねじ込んでいた銀の懐中時計を垣間見ると時刻は丁度六時を示していた。


 セレティナはきょろきょろと辺りを見回し、人の気配が無い事を確認すると中庭に躍り出た。


 兄はどこにいるのだろうか。


 ぐるりと見渡すと、すぐに見つかった。

 黄金の毬栗を連想するツンツンの髪のイェーニスが、花壇の傍に隠れて手招いていた。


「六時ジャストだな」


 駆け寄ると、イェーニスはにやりと笑った。


「お兄様、私今日何をするか全くわからないままここに来たのですが……。それになんですかその大仰な荷物は」


 セレティナは怪訝な眼差しでイェーニスの荷物を指差した。

 子供用に拵えられた小さな短弓が二張と矢筒が一本、それと何か色々と詰まっているのだろうパンパンに膨らんだ大きな皮袋が一つイェーニスに背負われている。


「説明は後だ。時間がない、行くぞ」


「わ」


 イェーニスに強引に手を引かれ、セレティナはわけも分からぬまま兄についていく。


 中庭を出て真っ直ぐに兄に連れられたのは屋敷の離れにある巨大な厩だった。こそりこそりと二人して中に入ると様々な馬車が止まっており、イェーニスは一つの幌馬車に当たりを付けるとその幌の中に飛び込んだ。


「手伝え」


 イェーニスはにべもなくそう言い放つと、幌馬車の積荷らしい一際大きな木箱を開封して中身を下ろし始めた。


 ……そういうことか。


 セレティナは得心すると、イェーニスを手伝った。木箱の中身は大量の布の生地だった。しかし非力なセレティナにはかなりの重労働だったらしく、中身を下ろし終える頃には汗に濡れていた。中身の布は辺りに積んであった適当な樽に詰めておいたので問題は無いだろう。


「入れ」


 イェーニスは木箱の中に入って、手招いた。

 セレティナも言われるがまま木箱の中に身を置いたが、思っていたよりも木箱は大きく、子供二人が入ってもいくらかの余裕があった。


 イェーニスが蓋を閉じると真っ暗な闇になる……と思っていたが、木箱の板の隙間からそこそこに光が漏れており、意外にも中は明るい。


「この幌馬車は朝に一度屋敷と街を行き来する。俺達はこれに乗ってこっそり街まで運んでもらうって寸法だ。名案だろ?」


 イェーニスは得意気に笑うと、大きな皮袋からパンと林檎とそれから水筒を二つずつ取り出して、その一つずつをセレティナに寄越した。


「何をしに街へ?」


「具体的には街に行くわけじゃない。街を経由して山に行く」


「山?」


「狩りをしに行くのさ。猪狩りだ」


 猪狩ししがり。

 貴族にとって狩りは嗜み、文化の一つとして根差しているが猪狩りは大人でも難しい部類に入る。猪の獰猛性・俊敏性を侮れば怪我は勿論、死ぬ危険だって十分にあるのだ。

 それにアルデライト領の猪は大きく肥えている事で有名であり、狩りは一際難しく、狩る事叶えば一つの象徴シンボルとして自慢話に語られる事が多い。

 余程自信と経験が無ければなし得る事では無いし、そも子供が手を出して良い領域では無い。


 セレティナは分かりやすく顔を顰めた。

 いくら生前が百戦錬磨の騎士だとて、今の彼は非力な女児なのだ。


「猪狩りは危険では?流石に大人の介無しに独断でやることでは……」


「確かにそうだ、危険だな。でも、猪でも狩ったとなりゃそりゃあ大手柄だぜ。それも子供二人で。なっ、驚かしてやろうぜ。これだけの武勲があれば父上も母上も、騎士だろうが菓子だろうがなんでも褒美をくださるに違いない」


 真剣に語るイェーニスに、されどセレティナは沈黙を示した。


 子供二人で猪狩りなど、明らかに無謀だ。

 絶対にやってはいけない事だ。

 そうセレティナの中では既に判断が下っている。


 イェーニスの提案は子供だからだ。純粋な子供だからこそ死のリスクを軽んじ、そのような軽率な計画を立てられる。セレティナに潜む大人オルトゥスは、やはり冷静だった。


 ……しかしどうだ。

 兄の言葉にセレティナは沈黙した。


 セレティナはこのまま何もしなければ、籠の中の哀れな鳥だ。騎士になる事は叶わないと、昨夜の出来事で直感している。


 確かに此度イェーニスが提案した猪狩りは、何もできずに俯いているよりは良くも悪くもいくらか現状の打破に繋がるのではないか……。


 セレティナは思案に暮れた。


 ……兄を巻き込んで良いのか?万が一があれば責任はどうとる。そもそも子供二人で猪など狩れるのか?罠は?矢の本数は?騎士になるのに、他に分かりやすく良い手はないか?


 考えこんでいるうちに、幌馬車が大きく揺れた。


 呆気に取られるセレティナを見て、イェーニスは悪戯っぽく笑みを浮かべた。


「出発したな。狩るぞイノシシ」


 林檎に齧り付くイェーニスを見ながら、セレティナは観念したように大きな溜息を一つ吐いた。



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