2話
「今日は一段と冷えますね」
鈴を転がしたような、心地良いソプラノの声。
何気ないひと言のはずなのに、セレティナがその形の良い唇で言葉を紡ぐとまるで天使が神託を告げているかのようにさえ思えてしまう。
エルイットは感激で身が震えているのを悟られぬ様に笑みを浮かべて頷くと、暖炉に薪を焼べた。
「お嬢様、ベッドから出ていてはお体に障りますよ。お加減はもう良いのですか?」
エルイットはそう言って火搔き棒で暖炉の具合を確かめた。
「お父様含め皆様は過保護が過ぎると思います。私は見ての通りほら、もうこんなに元気ですよ」
むんと白く滑らかな腕をあげ、セレティナは胸を張ってみせた。
……力こぶでも作ったつもりだろうか、エルイットはそんな様子を微笑ましく思わずにはいられなかった。
しかしセレティナは昨晩高熱を出したばかりなのだ。侍女としては安静にしていてもらわなくては困る。
「病は治りかけこそ用心しなくてはならないのです。それにお嬢様は人一倍……いえ、人二倍程にはお体が弱……繊細なのですから、寝ていてもらわなくては私達侍女隊が困っちゃいますよ」
エルイットの眉が下がる。
「…………」
セレティナはぷりぷりと頬を膨らませるも渋々得心したのか、窓の外を一瞥した後にベッドに潜り込んだ。
「私はこの病弱な体が嫌いです」
毛布の中からくぐもった声が弱々しく発せられる。
「私はお嬢様の美しく、そして繊細なお体はまさに深窓の令嬢と言ったようで好きですよ」
「ではエルイット。私の体と取り替えっこしませんか?」
「何を言ってるんですか」
そう言って窓の外を見るとセレティナの父のバルゲッドがセレティナの一つ上の兄、イェーニスに木剣で稽古をつけていた。なるほどセレティナはこの稽古を見ていたらしい。
元気に体を動かし、父に稽古をつけてもらえる兄を羨ましく思ったのかもしれない。
セレティナはいくら美しいとはいえ、まだ数え歳で今年ようやく十才になるまだまだ遊び盛りの子供なのだ。しかし弱い体を理由に彼女はベッドの上で過ごす事が多く、ああして兄や父と庭を駆け回る事はおろか、未だにこの屋敷の外に出た事すらない。
エルイットは、病弱なセレティナを気の毒に思い、胸に痛みを覚えた。
「お兄様ばかり、ああしてお父様に稽古つけてもらってずるいです。エルイットもそう思いませんか?」
「……お嬢様、遊びたいお気持ちは分かりますが皆お嬢様の身を案じているのです。今はお体を治されることを……」
「遊びではなく稽古を……。いえ、わかってます。今は大人しく寝ておきますから心配しないでください」
セレティナはそう言って毛布から顔を覗かせた。頬は未だ不満げにぷりぷりと膨らんだままだ。
「……この弱い体が治ればお父様は剣の稽古を私につけてくださるでしょうか」
「バルゲッド様がお嬢様に剣を……?ふふふ、それはどうでしょうね」
「あっ、もしかして小馬鹿にしてます?」
「いえいえ馬鹿になど。ですがメリア様がそれをお許しにはならないと思います」
メリア……母の名前を出すと、セレティナの表情は分かりやすく翳った。メリアはセレティナと同じ黄金の髪と群青色の瞳を持つ聡明で美しく、そして誰から見ても厳格な母だった。
貴族としての矜持を
メリアはセレティナに対して人一倍厳しく淑女としての教育を施している。
侍女達がセレティナの身を案じる程の強烈な教育を、だ。
セレティナには紅茶の注がれたティーカップ以上に重いものを持たせず、背筋が丸くなれば短鞭で机を叩き、少しでも言葉遣いが淑女のそれと
それ程厳格な母が、娘が剣を振り回したなどと知ればそれはもう想像の及ぶところではない。
セレティナは口の中で苦虫を噛み潰した。
エルイットはそんな彼女を見て困ったように笑う。
「さ、いつまでも起きていてはお体に障ります。もう一眠りしましょうね」
「……わかりました」
そう言ってセレティナは蝸牛の様に布団を被り丸まってしまった。
明らかに不貞腐れた様子の彼女にエルイットは僅かに微笑み、いつかこの病弱な天使を太陽の下で自由に駆け回らせてあげたいと願うのだった。
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