Finale



 吉田は、おろしたての雑巾でデスクを拭いていた。

 そこには、最愛の人を思わせるものはなに一つなかった。

 がらんとしたデスク。

 きれいに拭きとられているパソコン。

 引き出しの中には、職場から支給される文房具が少しだけ入っている。


「おうおう。精が出るねえ」


 星野の言葉に、吉田は頬を膨らませて見せる。


「一応、先輩ですから」


「先輩だってよ。吉田くんが? ねえ」


 高田にからかわれて、少々面白くないと思った瞬間、時計の針を気にしていた尾形が、立ち上がった。


「尾形さん?」


「そろそろ来る時間でしょう?」


 彼はそう言ったかと思うと、事務室を出て行った。

 肥満体型の割に、機敏に動く尾形は、高田から「機敏なデブ」とこっそり呼ばれているのだった。


「なんだか転校生が来る前の小学校みたいだね」


 氏家は得意の親父ギャグがさく裂しない。

 彼もまた、緊張しているのかも知れないと思った。

 吉田は窓の外に視線を向けた。

 桜が咲いている。

 今日から四月だ。

 昨日までここにいた安齋は、もういない。


 ——待てるか。


 彼の声が脳裏に響く。


「待っていますよ。おれ。待っています」


 そう呟いてから、視線を戻すと、尾形が転がり込んできた。


「やべ、見つかった」


「やばいと思うんだったら、止めればいいんじゃないですか——」


 吉田の言葉が終わらないうちに、水野谷が顔を出した。


「おい。誰だ。覗いていた奴は。結構ぽっちゃり体型だったな。シルエットが」


「ちぇ、見られていましたか」


「お前さ。吉田の時もそうだったけど、一番隠しきれていないんだから、やるなよ」


「はーい」


 水野谷が尾形に説教をしている最中だというのに、緊張していたのだろうか。

 水野谷の後ろからついてきた新人職員は、唐突に頭を下げた。


「熊谷あおです!」


 一同はきょとんとして、一瞬静まり返る。


「おいおい、僕が紹介してからだ。蒼」


 吉田は新しい職員を見た。

 小柄で、色白。

 真っ黒な髪に、同じ色の瞳をしていた。

 水野谷が氏家から順に職員の紹介している間、彼は落ち着かない様子で、周囲に視線を配っている。


「——そして最後。尾形の隣に座っていて、お前の目の前に座るのが吉田。お前と一番年の近い先輩だ。お前の教育係をする。わからないことは、ともかく吉田に尋ねるように。いいね?」


 水野谷の紹介を受けて、新人職員が吉田を見た。

 彼は強張っている表情のまま、頭を下げた。


「よろしくお願いします」


「よろしく」


 吉田は笑って見せた。


 ——安齋さん。おれ、頑張るね。ここであなたのことを待っています。


「えっと……蒼」


 吉田が彼の名を呼ぶと、蒼は、はにかんだ笑みを見せた。


 ——この子が、おれの後輩。


 配属初日から、我が物顔で本庁を歩いているであろう安齋に、思いを馳せながら、吉田は新しい生活の一歩を踏み出す。

 取り残された寂しさで泣きそうになるけれど、自分のやるべきことが目の前にあるのだ。

 吉田は目の前の蒼をまっすぐに見つめる。

 今までの自分とは違うのだ。

 胸を張って、また安齋と出会えるように。


 恋とは突然に罹患する病であり、あっという間に重症化するものである。

 さらにこれは死ぬまで治らない。

 吉田はチリチリと燻る恋情をぐっと堪えながら仕事に意識を向けた。




—了—



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る