第13話 放置プレイ宣言


 その日の遅番は、吉田と安齋だった。

 いつもは残業をしている星野も、さすがに雪の日だからと、定時で帰っていった。

 静まり返っている事務室は、初めてキスをされた夜みたいだった。

 目の前で安齋が、無言でキーボードを叩く彼の音だけが耳をつく。

 吉田は仕事が手に付かなかった。


「あ、あの」


「なんだ」


 吉田の言葉に、安齋は手を止めて視線を向けてきた。


「あの。本当に良かったですね」


 本当はそんなこと、ちっとも思っていないくせに——。


 安齋が本庁に異動になるということは、四月から、彼はここからいなくなるということだ。

 こうして向かい合って遅番をすることもない。

 彼に監視されたり、怒られたりするこもない。

 そう、いつも一緒にはいられないということなのだ。


 あの神野じんのの一件以来。

 安齋への気持ちを自覚した自分は、すっかり彼に夢中だった。

 安齋が自分をどう思ってくれているのかは、わからない。

 自分の気持ちを口にする男ではないからだ。

 しかし少なくとも、彼の恋人という席に、自分は座っているつもりでいたのだ。


 ——離れてしまったら、もう終わってしまうのだろうか。安齋さんにとったら、こんなことはお遊びみたいなものに違いないのだから。


 うつむき加減で、ぼそぼそと小さい声で呟いたのは、気持ちが塞ぎ込んでいるからなのかも知れない。


『そうだな。お前とはこれで終わりだな』


 そういう言葉を予測して、目をぎゅっとつむった。

 しかし安齋は不機嫌そうに声を上げた。


「お前、それ、本気で言っているのか?」


「だ、だって。喜ばしいことじゃないですか。星音堂せいおんどうから本庁に異動する人なんて、今までいなかったって、星野さんが」


「——だから本気でそう言っているのかと尋ねているのだ」


 ——そんな怒らなくても。


 吉田は思わず首を竦めた。


「ご、ごめんなさい」


 安齋は「とりあえず謝っておけ」という態度が、一番嫌いであると知りながらも、そうしてしまう自分に嫌気がさした。

 もっと頭の回転の速い、しっかりした人間だったらよかったに違いない。

 いつも安齋を苛立たせているのは自分だ。

 吉田は泣きたい気持ちになった。


「本当にバカで、どんくさくて、クズで。お前はどうしようもないな」


「すみません——」


「お前は安直すぎる」


「すみません」


 安齋は腰を上げると、そのまま吉田の隣、尾形の席に座った。


「市制100周年は、まだ二年後だ。それに向けての準備を、市役所から集められたメンバーで担うそうだ。その数たったの四名で、だ」


「そんなに大変なんですね」


「当たり前だ。百年に一度の特別な祭だぞ」


 吉田には到底理解できないスケールの話だった。

 その特別な祭の年は一体、市役所はどうなってしまうのだろうか——。

 それを安齋が中核として担うのだ。

 これは市役所職員として、とても名誉なことであるということは理解した。


「その部署は、特殊な指示系統を持つようで、副市長の直轄らしい。副市長と言えば、仕事では融通の利かない、いけ好かない奴だと水野谷課長が言っていた。あの温和な課長がそこまで言うのだ。本当だろうな」


「怖そうですね」


「本庁は外部機関とは違って戦場だ。お前も知っているだろう? 本庁にはよく行くんだ」


「確かに。みんな忙しそうです。たまにくる本庁の振興係の人たちも、仕事ができそうに見えます」


 素直に認めた吉田を見て、安齋は「ふふ」と笑みを見せた。

 彼の笑みは、吉田にしか向けられないものだと気が付いていた。

 あの営業スマイルとも違う。

 残忍で無機質な笑みとも違う。

 肉食獣の時折見せる優しい瞳の色。


「本庁に行けば、こことは勤務体系も異なる。もしかしたら、週末も休みなしかも知れない」


「じゃあ、安齋さんと会う時間なんてなさそうですね……」


 吉田の声は消え入りそうだった。

 安齋が能力を買われて抜擢されることは嬉しい限りだが、自分主語で言えば、有難迷惑でもある。


 ——もう、会えない?


 すがるように視線を向けると、安齋は腕組みをした。


「え?」


「待っていろ」


「待つってどういうこと、なんですか?」


 おずおずと尋ねてみると、安齋はイラついたような視線を寄越す。


「本当に、お前には一から説明しないといけないから面倒だ! ——おれの仕事が落ち着くまでは放置する」


「放置? それに落ち着くまでって、いつまでなんでしょうか」


「さあな。もしかしたら、事業すべてが終わるまで。三年だな」


「さ、三年!?」


 ——ひ、ひどい!


 吉田は目を瞬かせた。


「文句でもあるのか」


「ありますよ。そんなのひどくないですか?」


「お前には人権はない」


「そんな! 本庁に行ったら、その、あの……おかさんって人だっているんですよね?」


「そうだな」


 吉田は言いかけたが、不意に安齋の手がデスクを叩いた音で、言葉を切った。

 安齋は心底、怒っているような瞳の色だった。


「しかし、なめてもらっては困るな」


「だって……」


「おれはお前のほうが心配だ。神野のような輩にすぐに騙される。おれが抜けた後、どんなやつがくるか知らんが、またすぐにほだされるのではないかと疑っているのだ」


「お、おれは! 安齋さんが好きなんです。安齋さん以外の人間とお付き合いするなんて、絶対にないんですから!」


 そう言い切ってしまってから、はったとした。

 両手で口元を抑えても遅い。


「なるほど。お前はおれがそんなに好きか」


 安齋はニヤニヤと口元を上げる。

 顔が熱くなるばかりだ。

 きっと真っ赤になっているに違いない。


「言いつけを守れよ。浮気なんかしてみろ。監禁して、死ぬまで飼ってやる」


 安齋の腕が伸びてきて、吉田の首筋に触れた。

 自然と近づく距離。

 吉田は安齋のキスを待ち焦がれるかのように、目と瞑った。

 しかし——。


「あ~あ、悪い、悪い。お取込み中だけどよ。忘れものだぜ」


 静かな事務室に星野の声が響く。

 吉田はたじたじだが、安齋はゆっくりとした動作で星野をにらんだ。


「邪魔しないでくださいよ」


「二人切りも、もう少しだからな。おれだって気を利かせてやってんだぜ? 今日、残業しなかったんだから」


「でも結局は、こうして邪魔しているじゃないですか」


 ——な、なに? どういうこと?


 吉田は意味がわからない。

 なぜ星野が安齋とそういう会話をするのか——。


「狐につままれたみたいな顔するんじゃないよ。吉田~。お前、おれが気が付かないとでも思ってたわけ? も~、本当に頭のネジ、一個足んねーんじゃねーの」


 吉田は狼狽えて安齋を見上げた。


「星野さんはおれたちの関係性に、ずいぶん前から気が付いていたんだそうだ。先日の神野の時も、『おれが遅番やってやるから、お前は吉田のところに行ってやれ』って言ってくれて。それで、駆け付けることができたんだ」


「え、えええ! そ、そんな。じゃあ。おれ。——安齋さんとの関係性を暴露されたくないって必死で」


「あ~、そんなの無駄な努力ってやつ? もうバレバレだろう? お前全部顔に書いてあるからな」


 星野は愉快そうに爆笑した。


 ——ひ、ひどい!


 ひた隠しにするために、安齋との逢瀬に応じていた自分は、バカみたいだ。


「そう心配するなって。安齋。吉田には変な虫がつかないように、おれが見張っておいてやるって」


「すみません。星野さん」


「一番、怪しいのが課長だろう? も~、あの人、飄々としながらも、周りのことを惹きつけちゃうんだから。吉田。課長に惚れるなよ」


「ほ、惚れてなんていません! 憧れていますけど」


「ほれみろ」


 星野の言葉に、安齋の冷たい視線が痛い。


「ち、違うんですよ。本当に。おれは安齋さんだけで」


「吉田。いい度胸だな。仕置きが必要だ」


 ——ひいい、怖い!


 おののいている吉田を横目に安齋と星野は意気投合した。


「こんな調子です。星野さん。新しく入ってくる職員がどんな奴になるのかわかりませんが」


「おれに任せろって。だからよ。お前は本庁で暴れ来いよ。野獣なんだからよ」


「はい」


 こんな時間はもうなくなるのだろうか。

 星野と。

 安齋と。

 そして自分と。

 こうして残業する時間が好きだったのだ——。



 それから安齋はあっけなく、本庁へ異動していったのだった。

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