第12話 内示
翌朝の目覚めは最悪だった。
見慣れた安齋の寝室を見渡してから、躰を起こすと、吐き気を催した。
「うう」
吉田は慌てて、脱ぎ捨てられているワイシャツを羽織ると、トイレに駆け込んだ。
「なんだよ。これ……」
昨日は監査委員会事務局の
そこで変な薬を盛られた。
神野という人間は決して、いい人間ではなかったのだ。
——安齋さんに助けてもらわなかったら、おれ……。
しかしその後の情事は、いつになく激しいものだった。
昨晩のことを思い出すと、顔から火が出るほど熱くなった。
「うう。穴があったら入りたい……」
吉田は口元を抑えながら、恐る恐るリビングに顔を出した。
安齋は昨晩のことなど、何事もなかったかのように新聞を眺めながらコーヒーを飲んでいた。
「寝坊だぞ。お前」
「す、すみません」
声を上げると、吐き気がこみあげた。
「クスリの副作用だろう。仕事出られるか」
「どうでしょうか……」
「お前は休め。神野が来るだろう? 顔を合わせないほうがいいだろう」
「でも」
「お前の仕事はおれがしておく。神野への嫌がらせにもなるだろう? あいつ。仕事しにくいだろうな。さてどうしてやろうか? ああ、今から楽しみで仕方がないな」
安齋はくつくつと意地悪な笑みを見せた。
——本当に性格が悪いんだから……!
吉田は、そばの扉に掴まったままため息を吐いた。
「まあしかし。元を正せば、お前のその醜態は、おれのせいでもあるからな。仕事くらいは代わってやろう」
「安齋さん……」
急に優しい彼に、少々不安ん覚えるが、なんだか嬉しい気持ちが湧いた。
吉田は自然と口元が緩んだ。
しかし安齋は、マグカップをテーブルに置くと「ただし」と言った。
「今一度やらせろ」
「へ?」
——な、なにを?
「お、おれは気分が悪くて。気持ち悪いんですよ?」
「だからなんだ。お前の仕事、おれがやってやるといっているのだぞ? 対価を寄越せ」
「吐きますよ? 途中で絶対に吐きますよ」
「かまわない」
「お、鬼! 悪魔」
「なんとでも言うがいい」
安齋は、席を立ったかと思うと、吉田を抱え上げた。
せっかく起き出してきたというのに。
あっという間に寝室に連れ戻された。
吉田は後悔した。
この男といたらきっと、自分は精魂尽きて死んでしまうかも知れない。
そう思ったのだ。
***
「今日はね。みなさんに重大発表があります」
水野谷が切り出したのは、年度末も押し迫った三月の中旬だった。
その日、雪が降り積もっていて、朝から雪かき作業をしていた職員たちは、疲労の色が濃かった。
まどろんでいるような時間に、水野谷の声は一際大きく響いた。
いつもは平穏無事なこのホールに「重大発表」などという言葉は初めてかも知れない。
吉田はドキドキしながら水野谷の言葉を待った。
「安齋が異動となることが決まった。本日、人事課からの内示が出たのだ。安齋は本庁異動だ。市制100周年記念事業を手掛ける新しい部署への配属だ」
事務室内は一瞬の静寂。
それから尾形が手を叩いた。
「まじっすか! すごくないですか。このホールから本庁への異動だなんて!」
いつも意地悪をされている尾形だが、それは安齋がいなくなる安堵感とは違い、心から喜んでいるような表情だった。
「本当だぜ。安齋。やったな」
星野も嬉しそうに安齋を見た。
しかし安齋は、じっと黙り込んでその場に立ち尽くすだけだった。
「課長、どういうことなのでしょうか」
先日やってきた神野は、安齋の素行を調査しに来たと言っていた。
その結果がこれなのだ。
と、言うことは神野は安齋のことを悪く報告することがなかったということなのだが——。
安齋は腑に落ちない様子だった。
いくら弱みを握られたからといって、あの神野が安齋をいいように報告するものだろうかと思っているということは、吉田にも理解できた。
「そんな顔しないで。安齋。先日きた神野くんは、実はお前の調査目的もあったんだよ。神野くんは、人事にキミは的確者であると報告したようだ。やはり僕の目に間違いはないね」
安齋を抜擢したのは水野谷だ——。
吉田はそう理解した。
「安齋さあ、お前、素直に喜べよ。本当にかわいくねえ奴だな」
星野はそう言ったかと思うと、安齋の首に腕を回して、中学生のようにはしゃいだ。
「やめてくださいよ。星野さんっ」
安齋は珍しく目元を赤らめて嫌そうな顔をした。
「お前さあ。本庁に行ったら、その本性丸だしはやめておけよ。みんなと仲良くなれないぞ」
——ああ、そっか。星野さんは、安齋さんの本性を見抜いていたんだ。
「そうだぞ。そうだぞ。お前は野獣だからな。殺気は隠せ。冗談はよし子ちゃんだぞ」
「小動物虐めはやめておけよ」
氏家や高田も言った。
安齋の本質を知らずにいたのは、吉田だけだったということが理解できた。
——そうだよね。みんな、鋭いもん。みんな安齋さんの本質なんて、とっくにお見通しだよね。
みんなに囲まれて揉みくちゃにされている安齋を、吉田は少し離れたところから見つめた。
「安齋さん……」
彼がここから居なくなるなんて。
吉田には到底受け入れ難い現実だった。
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