第9話 ため息



 定時になる頃、水野谷が顔を出した。


「どうですか。神野じんのくん」


「あ、水野谷課長。今日はそろそろ終わりにいたします。時間外までいたのでは、ご迷惑ですからね。——吉田くんをつけてもらったので、大変スムーズでありがたいです」


 水野谷は神野の隣にいる吉田を見て、「うんうん」と嬉しそうに笑みを見せた。


「吉田はうちの期待の新人なんですよ。かわいいでしょう? 僕、大好きです」


「課長、そういう発言はセクハラになりますよ。まあ、わからなくもないですけれど」


 神野は、顔を熱くしている吉田をちらりと見て寄越した。


「みんなに愛される新人君ですもんね。いいことです」


「あ、吉田のこと、あまりよく報告しないでくださいよ。本庁に引き抜かれたら困っちゃう」


 水野谷の言葉に、吉田はどっきりとした。


 ——この人。本当に侮れないんだよな……。


 水野谷は飄々ひょうひょうとしている、昼行燈ひるあんどんみたいな男だ。

 丸眼鏡。

 白髪交じりの短髪。

 ベストを着用していて、上品そうな出で立ちをしていた。

 星野の話だと、学習院を出ているらしい。

 今時、庶民でも入れる学校だろうが、それでも、やはり。

 いいところのおぼっちゃまという風体だ。

 そのくせ、仕事に関しては鋭い感性を持ち合わせ、どんな難局でも、軽々と解決して見せるのだからすごい。

 吉田は水野谷が大好きだった。

 いつかこんな管理職になりたい。

 そう、憧れの上司なのだ。


「承知しております。——さて。書類は一旦、片付けましょうか」


「いいえ。このまま施錠してしまうので、大丈夫です。今日はお疲れ様でした」


「こちらこそ、ありがとうございました」


 神野と水野谷はお互いに頭を下げ、会議室を消灯する。

 吉田は会議室の鍵をかけてから、後から事務室に戻った。

 中は帰宅ムードだ。

 監査委員事務局が来たというのは、少なからず他の職員たちも疲れさせた様子だった。

 遅番である星野と安齋以外は、みな帰り支度である。


「いやあ、神野くんより先にドロンなんて、まずいところ見られちゃったな~」


「氏家さん。親父ギャグ、引っ込めて」


 いつも親父ギャグが口癖の氏家は、高田に咎められて、舌をペロリと見せた。


「ドロンは知っていますよ。大丈夫ですよ」


 神野は苦笑すると、「それでは」と声を上げた。


「一日目、ありがとうございました。また、明日ですね。どうぞよろしくお願いいたします」


「こちらこそ」


「お疲れ様でした」


 口々に言葉を交わし、神野は頭を下げる。

 それからちらりと吉田を見た。


 ——外で待っているね。


 そういう合図だろう。

 吉田は軽くうなずいてから、自分もデスクに戻って帰り支度をした。

 隣の席の星野がニヤニヤとしながら吉田に声をかけた。


「お前も疲れただろう。さっさと帰って明日に備えろよ。明日も忙しい」


「わかりました」


「お前が監査担当なんてなってるからよお。今日は安齋と遅番になっちまったじゃないか~。な~、安齋」


 星野の言葉に、安齋は「そうですね」とだけ返した。

 珍しいことだ。

 安齋という男は、基本的に事務所の同僚にも愛想を使う。

 今日は素の自分を隠しきれていない様子だった。


「な、なんだよ~。素気ないねえ。お前」


「いえ。すみません。ぼーっとしていたようです」


「お前がぼんやりするなんてよ。余程、あの神野ってやつが気になるのか?」


「そんなんじゃないです。……けど」


 いつもとは違い、歯切れの悪い返しに、吉田は首を傾げたが、そんなことはどうでもいいと思った。


 ——安齋さんには恋人がいるんだ。おれなんて、きっとどうでもいいに決まってるもん。


 本来、本日の遅番担当は吉田であった。

 しかし神野の面倒を見るには、明日も朝からの勤務が必要だ。

 今日の遅番を安齋に変更してもらい、吉田は二日間とも日勤扱いになっていたのだった。

 荷物を乱暴に持ち上げてから、吉田は「お疲れ様でした」と頭を下げてから廊下に出た。


 ——なに、これ。別にいいし。なにイライラしてんだよ。おれ……。


 なんだか妙に胸がざわつくのだ。

 安齋に恋人がいると聞いてからだった。

 関係ないのに。

 どうでもいいのに——。

 心がざわざわと波打って、落ち着かないのだった。

 事務室から、職員玄関へと足を向けた瞬間。

 ふと後ろから伸びてきた腕に掴まれた。

 はったとして顔を上げると、そこには安齋がいた。


「な、なんなんですか」


「お前——。神野に誘われたのか」


「え? ——安齋さんには関係がないじゃないですか。だって……彼女が」


 吉田の言葉に、彼は怪訝そうに眉間にシワを寄せた。


「なんの話をしている? 神野になんと言われた」


「べ、別に。安齋さんには関係がないことですよ」


「関係ない、だと?」


 神野とのことで、気持ちが高ぶっているのだろうか。

 いつもとは違い、強気で安齋を押し返す。


「もう放っておいてくださいよ。どうせ、彼女いるくせに。あ、あんなことや……こ、こんなこと。おれにしなくてもいいじゃないですか。恋人にでもしてくださいよ」


「お前——」


 ——怒られる? またお仕置き?


 そう思って目を瞑るが、今日は安齋のため息しか聞こえなかった。


 ——え?


「わかった。もういい」


「え?」


「神野がいいなら、そうしておけ。だが、あいつは——。いや、いい。好きにしろ」


 ——なにその顔。


 彼の顔は、落胆の色が強い。

 なんだか自分が悪いことをしているみたいで、胸が締め付けられた。


 ——そんなの勝手じゃない。いつも、人にひどいことをするのに。なにそれ。おれが神野さんとごはん食べるのが、そんなに傷つくの? そんなの勝手だ。


 吉田はなんだか妙に胸が締め付けられた。

 そして、それと同時に苛立ちを覚えた。


「い、いいですよ。好きにさせてもらいます」


「そうしておけ」


 ——なんだよ。引き留めないの? 知らないんだから!


 自分のモヤモヤとする気持ちがなんなのか、吉田にはわからない。

 だけど、とっても面白くないという気持ちになった。

 吉田は荷物を抱え直し、踵を返して職員玄関から外に出た。


 ——遅番まで代わってもらったくせに。なにやってんだ……おれ。


 安齋から離れていくと、後悔ばかりが気持ちを支配する。

 だが後戻りはできないのだ。


 玄関から出て、左手に折れる。

 自転車置き場の前を通過して、歩道に出ると、赤い外車がハザードランプを点滅させて停まっていた。


「よっしー、こっち、こっち」


 ——本庁の職員は外車にも乗れるの? すごい!


 安齋との邂逅が、心のどこかに引っ掛かっているものの、神野の姿を見たら、心が変わった。

 吉田は彼の車の助手席に躰を押し込んだ。





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