第8話 野獣の過去を知る男



 翌日の昼過ぎ。

 モヤモヤとした気持ちのまま、椅子に座っていると、「こんにちは~」と陽気な声が響いた。

 男は長身。

 鳶色とびいろに染めた明るい髪に、派手な茜色のネクタイ。

 とても公務員とは思えない出で立ちの男が、カウンターのところに立っていた。


「監査委員事務局の神野じんの涼太りょうたです。今日の午後と、明日午前中、お世話になりまーす」


 軽い感じの神野に、緊張していた事務室内は、一気に空気が緩んだ。


「悪いねえ。神野くん」


 水野谷が腰を上げる。


「いいえ。むしろ、お忙しい時期にすみませんでした。他部署の監査日程もあって、どうしてもこの時期しかなくて。ちゃんと謝ってこいよって局長に言われてきました」


「いやいや。いいんですよ。とりあえず、今日と明日。うちの若手を付けるから。よろしくね」


 水野谷が吉田に視線を向けてきたのを合図に、吉田は駆け寄った。


「吉田です。どうぞよろしくお願いいたします」


「あ、いいんですか。すみません~。別に放っておかれてもいいんですけど。誰かついてくれるなら、助かります。その方が効率がいいし」


 神野は吉田に笑顔を見せた。


「よろしく。吉田くん。えっと、よしだ、だからよっしーでいいか」


「え」


「はは。神野くんは、人と仲良くなるのが得意ですね」


 水野谷は笑うが、正直、「よっしー」なんて呼ばれて嬉しいわけがない。

 しかも、背後からは相変わらずの冷たい視線が……。


「あれ、安齋じゃないの~。おお、おお~。久しぶり~。入庁してから一緒の部署にならないな~って思ったら。こんな辺鄙へんぴなところに流されていたんだっけ」


 神野はへらへらと笑っているが、その内容は不躾だ。

 吉田は嫌な気持ちになったが、言われている安齋は、そう気にも留めないように神野に一瞥をくれただけだ。


「なんだよ~。無視かよ」


「おい、安齋」


 ふと星野がたしなめるように声を上げた。

 それを受けて、彼は渋々と神野に向き合った。


「お前が来るのは昨日聞いた。おれのせいで査定を厳しくするなよ」


「はいはい。そんなことするわけないっしょ。お仲間なんだからさ~。内部監査なんて、名ばかりじゃん」


「お前な」


 安齋がむっとした顔を見せたのを見て、水野谷が口を挟んだ。


「二人は同期でしたね」


「そうなんっす。実は大学も一緒で。本当に不愛想でしょう? こいつ。仕事になるんですか? 星音堂せいおんどうって接客もするんですよね? お前に務まるのかよ」


 黙り込む安齋に、水野谷が代わりに答えた。


「安齋は優秀ですよ。うちの部署では欠かせない存在だ。神野くん」


「へ~。どれどれ。じゃあ、お前の能力も見させてもらおうじゃないか。どれ、よっしー。仕事はじめよっか」


「は、はい」


 吉田は神野から手渡された書類を元に、資料を集めるように指示された。

 監査が始まるのだ。

 不機嫌そうな安齋の横顔が気になる。

 昨日は、監査の対応を降りろと言われたが、なんとなくその意味がわかったような、わからないような。

 吉田は資料をかき集めてから首を横に振った。


「おれだって、できるし。安齋さんを見返してやるんだから」



***



 ——安齋さんの視線から逃れると、こんなにもせいせいとするんだ。


 彼と過ごす時間は多い。

 職務中はもちろんのこと、ここのところ仕事以外でもそうだ。


 「嫌だ」という割には、安齋に誘われると、そのまま、なさがれるがまま、彼のマンションに足を運んでいる自分に嫌気がさす。


 最初の頃は、星野たちにバラすと言われて、半分は脅迫まがいだったはずだ。

 それなのに、今はすっかり自分から足を運んでいるのだ。


 ——おれは安齋さんのこと、どう思っているんだろう。


 ぼんやりとそんなことを考えていると、神野が「安齋」と彼の名を呼んだ。

 吉田は、はったとして顔を上げる。

 安齋が入ってきたのではないかと思い、どっきりとしたからだ。

 しかしそこにいるのは、自分と神野の二人だけだった。


「なんです。突然」


「いやいや。この字さあ。安齋のでしょう? この刺々しい突き刺さりそうな独特の字。懐かしいね」


 ——神野さんは、安齋さんと大学が一緒だと言っていたっけ。


「あ、あの。神野さんと安齋さんは仲がいいんですか?」


「仲がいいように見えるわけ? あんなの」


 彼は「ふふ」と笑った。


「もうねえ。大学時代からいけ好かない奴だよ。おれと、安齋と、もう一人ね。大学時代の同級生なんだけど。三人共、市役所に就職したんだよー。笑えるでしょ?」


「三人、ですか」


「別に仲がいいわけじゃなかったんだけどさ。最初に安齋が市役所受けるって話になって……。もう一人のおかは、安齋にぞっこんでさ。民間企業の内定蹴ってまで市役所職員になるって言いだすんだ。驚きだろー? で、おれもなんだかおもしろそーだなって思って、受けたんだけど」


「そういうノリで市役所職員になっちゃうんですか」


「おれの人生はそんなもんだからね~」


 神野はおかしそうにげらげらと笑った。

 しかし、本当に気になるところはそこではない。


 ——岡さんって人。安齋さんを追っかけて市役所に入ったって……。恋人なのかな。え、じゃあ、それって……。


 吉田は心がざわついた。

 恋人がいるというのに、自分にちょっかいをかけているということなのだろうか。

 信じられないと思った。


 ——おれなんて男だし。きっと遊びなんだとは思っていたけど……。


 恋人がいるとわかって、なんだかがっかりしているのは気のせいではない。

 吉田は俯いた。


「あらあら。どうした? よっしー。仕事、疲れているんじゃないの? ねえねえ。今晩さ、飲みにでも行こっか」


「の、飲みですか。でも。おれ。そんなにお酒は強くなくて……」


「いいじゃん。別に。大丈夫だって。おれの家に来なよ。寝ちゃっても平気っしょ? どうせ、明日は一緒に出勤してもいいんだし」


「い、いや。あの。そんな。初対面の人にお世話になる、だなんて」


「大丈夫。おれ男だし。問題なし! よっしーがかわいゆい女の子だったら、もう彼女にしちゃうのにな」


 神野の言葉はなんだか笑えない冗談に聞こえた。


 ——いやいや。これが普通だもん。だって、普通は、男同士でキスしたり、エッチなことしたりしないもの……。


「よっしーは、本庁に異動したいって思ったりしないの?」


「え、ありますよ。おれだって、本庁で働いてみたいです」


「でしょう? 本庁のことも教えてあげられるし。おれ、ほら。監査しつつ、職員のこともついでに報告ができちゃうわけ。人事に上がれば、よっしーも本庁に異動できるかもよ?」


「え! 本当ですか……?」


「嘘じゃないよ。本当のことしか言わないもん」


 神野はにこっと笑みを見せた。

 安齋と同期とはとても思えない。

 彼には愛嬌があり、親近感を抱きやすい。

 安齋とは正反対だ。

 彼は鼻歌を歌いながら、書類の精査をこなす。

 見た目は軽いが、その手早さを見ていると、仕事はできる男らしかった。


 吉田はふと、手を止めてから神野の言葉を思い出していた。

 安齋には恋人がいたのだ。

 もう関係ない。

 そう自分に言い聞かせて、吉田は首を縦にふった。


「わかりました。おれ、日勤なんで大丈夫です」


「よかった~。あ、安齋は誘わなくていいでしょう?」


「安齋さんは、今日も遅番なんです。大丈夫です」


「あいついると、しらけるしな。よかった~。じゃあ、ちゃちゃっと見ちゃいましょうか」


「はい!」


 久しぶりの安寧であった。

 安齋と一緒にいると、緊迫感で支配されている。

 いつも、粗相をしないか、彼の怒りに触れないかと、萎縮しているのだ。

 心が軽いのを自覚して、吉田は嬉しい気持ちになった。



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