第10話 ダイキライ



 ——おれの給料では、マンションなんて買えるわけないよ。


 吉田の実家は市内にある。

 姉が結婚し、実家に住んでいるため、彼は一人アパートに出たのだった。

 姉には「一緒に住めばいいじゃない」と言われているが、姉の配偶者や、姉の子供たちもいて、なにかと気を遣うのだ。

 だったら一人がいいとばかりに、職場の近くに一人暮らしをしている最中なのだが——。

 家賃や光熱費を考えると、それもギリギリの話だった。

 そんな吉田の現状から考えると、神野じんのや安齋の生活は、なんだか別世界のような気がしたのだった。


「わあ、眺めがいいんですね」


 神野の住まいは、駅近くのマンションの十五階だ。

 梅沢市では目立つ高層マンションである。


「夜景がきれいだとさ。女の子を誘いやすいんだよね」


 神野はキッチンに立ちながら笑う。


「神野さん、モテそうですもんね」


「特定の彼女は作らないんだ。だって束縛されるのは好きじゃないし。いろいろな子と楽しみたいじゃん」


「一人もいないおれからしたら、わからない発想です」


 吉田の素直な感想に、神野は笑みを見せた。


「よっしーって、本当に素直で可愛いよね。彼女いないなんて信じられない。女子が放っておかないよ。母性本能くすぐられるタイプでしょう?」


星音堂せいおんどうにいたら、男しかいないんですよ。出会いなんてないんです」


 吉田はソファの横に荷物を置き、それから腕まくりをしてキッチンに向かう。

 対面式のキッチンは広々していて、モデルハウスみたいだった。


「友達に紹介されないの? 役所職員って、安定しているから人気高いんだよ」


「友達とも、最近は会わなくなりました」


「え~。意外。よっしーって友達とワイワイしてそうなのにね」


 ——それは昔の話だ。


 安齋と出会ってから、安齋と歪んだ関係性になってから。

 吉田は人とこうして気軽に話ができなくなったのだから——。

 神野に指示されて、レタスをちぎりながら、ぼんやりとしていると、ふと神野が「安齋」と彼の名を呼んだ。

 条件反射で躰が強張った。


「そんなに、怖い? 安齋って」


 神野はそっと吉田の肩に手をかける。

 それは、安齋のあの冷たさとは違い、温かい手のひらだった。


「こ、怖いです。安齋さんって」


「あ~あ。こんなに怯えちゃって。可哀そうに……。本当に安齋は変わらないんだね」


「変わらない——ですか?」


「ああ、変わらないね。あいつ。大学時代、たまたまサークルで一緒になってね。別に友達になるつもりなんてなかったんだけど。横で見ていると胸クソ悪くなる奴だったんだよね~。おれ、あいつが大嫌い。よっしーもそうなんでしょう?」


 ——ダイキライ?


 そう、嫌いなのだ……、と吉田は思った。


「涼しい顔して。おれよりも成績優秀。教授にも気に入られて。嫌になる」


 ——それって、ヒガミなんじゃあ……。


 吉田はそんなことを思いながら、レタスを水で洗った。


「どれ、盛り付けたら食べようか」


「は、はい」


 安齋の昔の話を聞くと、少し胸が熱くなるのはどういうことなのだろうか。

 今と変わりがない人なのだな——。

 しかし、そこではっとした。


 ——安齋さんには恋人がいるんだった。


「あ、あの。おかさんって、きれいな人——なんですか?」


 吉田は、言いよどみながら神野に尋ねた。

 ワインを準備しながら、神野は「あはは」と笑った。


「気になるの? 嫌いなんじゃないの」


「べ、別に……。嫌いですし。気になんかならないですけど」


「じゃあ、教えない」


 神野は意地悪そうに笑みを見せる。


「なーんてね。岡はねえ——」


 吉田は息を飲んで、次の言葉を待った。



***



 安齋の背中が見えた。

 たくましい背中だ。

 彼のその背筋に触れると、心がざわつくのだ。

 あの温もりは自分にだけ向かっていたと思っていたのに——。

 それは幻想だったのだ。


 ——結局は、おれはお遊びだ。


 仕事もできる。

 周囲からの信頼も厚い。

 そんな男が、自分に心を寄せるなんてことはあり得ない。

 ただの戯れだ。

 そんなこと、わかっていたはずなのに。


『岡はね。よくできた子だったよ。周囲にも気配りができるし、静かで控えめ。出過ぎたことはまずしない。いつも安齋の横に寄り添って、笑顔を見せていたっけ。岡といる間、あの野獣の安齋が、穏やかな表情を見せるんだ。岡は、安齋のことを愛していた。あいつもまんざらじゃなかったみたいだ』


 ——自分とは正反対じゃない。


 ドジでおっちょこちょい。

 いつだなし安齋の手を煩わせている。

 何一つ、自分で成し遂げることもできない甘えん坊だ。

 

 ——就職も蹴って、自分についてきた岡さんって人のことを、安齋さんは、どう思っているんだろう……。きっと大事に決まってる。


「よっしー、大丈夫? なんかストレスでも溜まってるんじゃないの。それとも疲れているんじゃない? 酒弱いね」 


「弱いわけじゃないんですが……あれ? おかしいなあ」


 視界が歪んで見えた。


「よっしーにストレスを与えているのは安齋だよねえ。ねえ、よっしーは安齋が好きなんじゃないかな?」


「な、なにを——?」


 歪んでいた視界が霧がかかっているように霞んできた。

 目の前にいる神野の口元が歪んで見えた。

 思わずテーブルに手をつく。

 そうでもしないと、姿勢を保つことができないのだ。

 躰が鉛のように重かった。


 ——あれ? おかしいな? なに。これ……。




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