最終話 疑念
「おい。起きろ石上」
額に、コツンと冷たいものが乗っかった。
ゴ鬼ジェットの缶だった。
中身を使い切ってしまったのか、やけに軽い。
俺が慌てて飛び起きると、近くで俺の顔を覗き込んでいたらしい大家さんが、さっと身をかわす。
危うく頭突きをしてしまうところだった。
「あ、あの人は?」
「消えた」
「倒したんですか?」
「今日のところはゴ鬼ジェットの勝利だな」
新品でなければ危なかった、と彼は深いため息を漏らす。
少し得意げに見える小さな背中に、俺は微かな苦笑を投げかけた。
「殺虫剤が効くってわかったのは収穫でしたね」
明日になったらホームセンターに行こう。
けど、一日丸一本消費するのは財布に痛いな……。
健康にも良くないし。殿が舐めたらたいへんだ。
それに、押入れの壁にシミが出来たりしたら、ますますここから出て行きにくくなるのでは。
大家さん的には、万々歳だな。
「それなんだけどさ」
「はい?」
「こういうのって毎回使うと、そのうち平気になったりしそうじゃない? ……たしか、薬剤抵抗性発達とか」
それはハエとかゴキブリの話だろう。
でも一理あるような気がした。
俺は頷きながら、大家さんの手から空のスプレー缶を受け取る。
おでこを冷やしてくれるなら、せめて保冷材にしてほしかった。
あ。単に捨てとけってことか……。
「はあ。これからどうしようかな」
「どうって、普通に暮らせよ。別に同棲する彼女とかいないんだろ?」
当たり前のように言われて、さすがの俺もグサッときた。
誰のせいでこんなことになっているんだ、と文句を言いたくなる。
でもそれは同時に、“誰のおかげで屋根のついた場所で愛猫と暮らせているのか”という問いの答えとイコールになるわけで。
そもそも、この部屋に幽霊が現れること自体、この大家さんのせいではない……よなあ。
あの
「もう大家さんが彼女みたいなものでは……」
ほぼ毎日押し掛けてくる――殿と部屋の様子を見に来ていたことがわかったけれど――大家さんは、俺にとってもはや家族のような存在だ。
「えっ」
大家さんが化け物でも見たかのような顔で、俺を凝視した。
「お前……なんかたまにすごく気持ち悪いよな」
「酷いなあ」
俺はちょっとだけ笑った。
疲れていた。
「まあ、冗談は抜きにして、彼女なんて当分できませんよ」
「そーなの?」
「俺、こんなだし。いい歳して、将来性もなにもあったもんじゃないですからね」
自分と殿が食べていけるぶんを稼ぎながら、殿の将来の医療費を貯金する。
今の俺には、それが手一杯だ。
「ふうん。見た目は悪くないのにな」
大家さんから意外な言葉が出た。
彼はいつの間にか、勝手に冷蔵庫を開けて昨日のパインヨーグルトを咀嚼している。
「それ、村田も言ってたんですけど、からかってますよね」
「いや? 疲れてげっそりして幽鬼みたいだけど、元の顔立ちは整ってるし、背は高ェし」
「え?」
「清潔感あって、声も悪くねーし、そこそこ礼儀正しいし」
よくもまあ、恥ずかしげもなくこんなことを言えるものだ。
慰められているのかとも思ったけれど、彼はそんな心あるタイプではない。
本気で言っているのだろうとわかってちょっと嬉しかった。
大家さんの賞賛はまだ続いた。
あれこれ上げ連ねたあと、
「やっぱり料理の腕は特筆すべき長所だろうな」
まるで我がことのように、得意そうにうなずいた。
「お、大家さん……」
俺は、社会に出てからずっとボロ雑巾のように扱われてきた。
こんなふうに褒められるなんて、いつぶりだろう?
涙が出そうになった。
「お前は、優良物件だよ」
彼は笑って、この部屋みたいにな、と付け足した。
なにそれ、どういう意味なんだろう。
わからないまま笑った俺の肩に、殿が飛び乗ってくる。
滅多にない甘えた行動に、なんだか愛されている気がして、嬉しくなった。
***
それから、一ヶ月が経った。
女の人の幽霊とは、今のところ遭遇していない。
居なくなったわけではないと思う。
俺は大家さんの言う通り、早い時間帯から布団を敷いておくことで、夜に押入れを開けることを回避していた。
昼間のうちにしか押入れに入れなくなってしまったことで、殿はやや不満そうだ。
代わりに、明るいうちにたっぷりと押入れで遊んであげるようにしている。
それに味を占めたのか、殿は昼間のうちに押入れに入って、なかなか出て来なくなった。
肘まで突っ込んで殿の背中を撫でながら、俺は近付いてくる暗闇の気配に怯える。
殿は、そんな俺の都合なんて完全無視して、ギリギリのタイミングまでずっと押入れで遊んでいたりする。
暗くなってきたのでふすまを閉めると、悲痛な声で鳴きながらバリバリと壁を引っ掻く。
明るいうちに押入れに隠れ、暗くなってから、わざと押入れの中で大騒ぎしたりする。
そんな毎日を過ごしていて、最近、思うことがある。
「殿」
薄闇に潜む愛猫は、今も獲物が入ってくるのを待っている。
俺がそこにいるかもしれない“誰か”に怯えていたって、かまいやしない。
大好きなご主人……いや、気を許した
それどころか、喉を鳴らしながら、大好きな押入れを幽霊とシェアしちゃってる。
「もしかして俺、お前に嫌われてる?」
問いに答えるかのように、殿は甘えた声で俺を呼んだ。
どっちなんだ……。
薄情な猫と押入れの幽霊が、いつかタッグを組みだすのではないか。
俺は今そんな疑念を抱き、密かに怯えている。
世界でだれよりも大切な、この黒猫様に。
END
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