第7話 対決

 その日は大家さんが俺の部屋に泊まりにきてくれた。


 一人で過ごすのが怖すぎて、今夜だけでいいから泊まってほしいと俺が頼んだ。

 嫌がるかと思ったのに、意外にも彼は二つ返事で了承。


 ホラー映画を観て気絶するような怖がりなのに、自分のアパートに出る幽霊は平気なのだろうか。


 訊いてみると、恐怖よりも営業妨害に対する怒りの方が強いそうだ。


「俺は、ヤツは人間に潰されたゴキブリの霊の集合体だと思うんだよ」


「この辺にゴキブリはいませんよ」


「そうだっけ? 面倒くせえから、もうゴキブリって呼ぼうぜ。しつけえんだよ。なんで殿がいるのに出てくんだよ」


 大家さんは、自分の家から持ってきた雑誌を丸めたもので素振りをおこなっている。


 出てきたら叩く気でいるらしい。


 その勇気を本物の虫に対しても発揮できたらどんなにいいだろう。


 たかだか蛾の一匹に怯えていた彼はなんだったのか。


 まだ陽のあるうちに、大家さんは押入れを開けて中を検めた。


 顔を突っ込んで覗き込むばかりか、縁に手を掛けて中に入り込んでしまった。

 持ってきた懐中電灯で中を照らしている。


「居ないわ」


「やっぱり夜限定なんですかね」


「過去の目撃証言はほとんど夜だな」


「記録が残ってるんですか?」


「うん。俺の鞄開けてみ」


 言われるがまま、大家さんが持ち込んだ黒いビジネスバッグを開けた。

 中から、彼の仕事用ノートパソコンといっしょに古びた手帳が出てくる。


 随分と年季が入っているようだ。


 ページがセピアに染まっており、ところどころ端が折れ曲がっている。

 中を見るように言われ、俺は破いてしまわないように慎重にページを捲った。


 そこには大家さんのおじいさんがつけた、二〇四号室の記録が残っていた。


 幽霊を目撃した日時と、どんな姿をしていたか、なにをしていたか、など。

 時間帯はほぼ二十時過ぎから三時にかけて。場所はもちろん押入れの中だ。


 ただ、現れたモノの姿はまちまちだった。

 女の人の顔を見たというのは同じなのだけれど、身体があったりなかったり。身体がある場合も、普通の女性の身体だったとか、男性の身体だったとか、子供だったとか。犬、蛇、魚、毛むくじゃらの生き物だったという報告もある。


 借主が押入れを覗き込んだときに現れて、舐めてきたり噛んできたりただじっと見つめてきたりする。


 実害はないため、俺同様、金銭的な都合で長い間住み続けた人もいるようだ。


「あれ。何か挟まってますよ」


 手帳の一番後ろに、ラミネート加工された表のようなものが挟まっていた。


 縦の項目は、たぶん猫の色柄。


 黒、白、茶トラ……かなり細かく分類されている。


 その横に、数字が記されている。黒の部分だけ空白だった。


「猫が入居してからゴキブリが出るまでの平均日数だ。その横は件数。じいさんの記録を遡って俺が作った」


「はあ。意外とマメなんですね」


 白猫が七日なのに対し、キジトラが八十日、灰色が九十五日。色が黒に近いほど日数が多いようだ。改めて、猫の性別は関係ないことを再度確認してみたけれど、無視された。


 ちなみに、俺はこの部屋に入居して約一年半になる。黒猫を飼っていて幽霊が現れた初めての例だそうだ。


 入居者が見つからないまま期限が近付いてきた場合、出来るだけ黒に近い色の猫を飼っている入居者を探すのだと、大家さんは言った。


 新しい猫が来ると警戒するのか、幽霊はしばらく出なくなる。


 白猫なら一週間後、茶トラなら一ヶ月ほどで効果が切れる、と大家さんが言った。


「なんだか、防虫剤みたいですね」


 おそるおそる押入れを覗こうと近付いた俺と入れ替わるようにして、大家さんがずるりと滑り出てきた。

 それから彼は、縄張りを侵されて不機嫌そうな殿をつかまえ、持ち上げる。


「あれ。殿、ちょっと茶色い?」


「ああ。殿は完全な黒猫じゃないんですよ」


 脚の部分に、うっすらと、本当にわかりにくいのだけれど、焦げ茶のトラ模様が入っている。

 前はなかったような気がするので、年齢とともに変化したのかな、と俺は思っていた。


「なるほどな。それでヤツが出やがったのか」


「でも、大家さん的には黒猫ってことでオッケーだったんですよね」


「俺がチェックした時はもっと黒かったぞ」


「変なところばっかり見てたんじゃないんですか」


「ちげーよ。まだ寒かったからな、冬毛だったんじゃねーの」


 俺をじろりと睨みながら、大家さんは殿のお腹に顔を埋めた。

 殿は鬱陶しそうに、されるがままになっていた。

 他人にモフられる殿、かわいいな。


「こうなるともう、出放題だぞ」


「どうにかならないんですか? 俺、噛まれそうになったんですよ」


「早めに布団敷いて、夜は押入れ閉めとけ」


 早い時間から布団が出ていると、仕事の妨げになりそうだ。

 だけど、背に腹は代えられない。


 ***


 左側のふすまを全開にしたまま、大家さんと部屋で過ごした。


 明るい時間帯には現れないことはわかっていたけれど、念のためだ。


 テーブルに、大家さんの武器である雑誌と対ゴキブリ用殺虫剤“ゴ鬼ジェット”、あと岩塩が置いてある。


 外がすっかり暗くなると、なんとなく落ち着かなくなってきた。


 大家さんがトイレに行こうとするのを引き留めてしまい、怒られた。

 心細くて泣きそうになっている俺を、大家さんは本当に気持ちの悪いものを見るような目で仰ぎ見た。ちょっと傷つく。


「小さい方だからすぐだって。つうか、殿がいるんだから大丈夫だろ」


「そうですけど……」


 殿にはあの女性の姿が見えないようなのだ。

 反応を見たわけじゃないから定かではないけれど、見えていたら威嚇なりなんなりするものだろう。もしくは怖がって隠れるか。


 でも殿はあの時、喉をゴロゴロ言わせて爆睡していた。


 俺は殿を膝に抱いて、大家さんの帰還を待った。

 別に、彼が幽霊をどうにかしてくれるわけじゃないんだけどね……。


「あ」


 突然、殿が腕の中から抜け出した。

 嫌な予感がする。


 押入れの前に行き、こちらを向いて、なあーん、とねだるように鳴く。

 さっきまで大家さんに散々遊んでもらっていたというのに、やっぱり押入れで遊びたいらしい。


「ええ……ちょっと、今は勘弁してよ」


 なんて許しを請うてみるけれど、聞き入れられるわけもなく。


 殿はひらりと押入れの上段に飛び乗った。


 ふすまが大きく開いているのが気に食わないらしく、定位置の左側ではなく右の奥の方へ引っ込んでしまう。


「なあん」


「あー、もう、だめだって。殿……殿~」


「おい」


「ぎゃあああああああああっ!?」


 いつの間にか、トイレから戻ってきた大家さんが背後に立っていた。手にはゴ鬼ジェット。


 ガチでビビる俺を見てドン引きしている。

 自分はあんな作り物のホラーで絶叫してたくせに。

 頼もしいと言えばそうなのだけれど、やはりなんとなく腑に落ちない。


「これからアレが出るかもしれないってのに、殿を中に入れてどうすんだよ」


「ですよね。でもああなると出てこないんですよ」


「これじゃゴ鬼ジェットが撃てん」


「思ったんですけど、そんなことして怒らせたら、俺……彼女の同居人として今後、気まずくありませんか?」


 大家さんが、大きな目をまんまるにして俺を見た。


「お前、本当に引っ越す気ないんだな」


「引っ越すなって言ったの大家さんでしょ」


「まあな」


 大家さんが、スプレー缶を丸めた雑誌に持ち替えた。


「俺の話きいてました?」


「叩くくらいなんだというんだ。俺のじいさんは三十年前にヤツが自分の部屋に現れたときテレビを投げたって言ってたぞ。おかげでぎっくり腰になったって。ワハハ」


 三十年前ということは、ブラウン管だ。

 俺は、箱型のテレビに比べればずっと軽くて投げ付けやすそうな、液晶テレビを横目に不安を覚えた。


 この人、やらないよな?


 幽霊は怖いけれど、さすがにテレビを壊されるのは困る。


「殿がめちゃくちゃ鳴いてるな」


「押入れで一緒に遊びたいんですよ」


 人間の都合なんかお構いなしです。


「さすがに今はちょっとそういう感じじゃねえわ。殿~、出てこい」


 殿がいるから大丈夫だと思っているのか、大家さんは押入れに上体を突っ込んだ。


 俺は焦って、彼の両肩を後ろから掴もうとした。

 大家さんは気にせず、押入れの上段に膝を乗り上げる。

 俺の手は空を切って、積んであった掛け布団の縁に触れた。


「お、大家さぁん?」


 俺は、おそるおそる中を覗き込んだ。

 見えるのは大家さんの背中と、ちょいちょいと彼にじゃれつく殿の前足。


「だ、大丈夫ですかね」


「今のところは。ほら、殿。出るよ」


 大家さんが、俺に話し掛けるときの十倍優しい声で殿を呼ぶ。

 でも殿が彼の言うことをきくなんてことは、もちろんなくて。


 痺れを切らした大家さんが、よいしょと殿を抱え上げた。

 押入れの中が狭いため、方向転換せずにそのまま後退ってくる。


 ようやく出てくる。


 ひと安心した俺は、ふと押入れの天井を見上げた。


「……で、でた」


 目が合い、女の人がにたりと笑う。

 唇から、乱食い歯が覗く。


「キャアアアアアアアアアアッ!!」


 俺は自分でも信じられないくらいかわいい悲鳴を上げて、押入れに腕を突っ込んだ。

 大家さんの襟首を掴み、勢いよく引き寄せる。


「ぐえっ」


 苦しげな声を出した大家さんが、押入れから落下する。殿も一緒だ。


 俺はふたりを抱え込むようにして後ろに倒れる。

 殿は少しのあいだ大家さんの腕の中で固まっていたけれど、やがて大家さんと俺を容赦なく踏み付けて、キッチンへと逃げていった。


 ちなみに、殿の肉球はしっとり系だ。


「おい、お前ふざけんなよ。殺す気か」


 軽く咳き込みながら、大家さんが腹に肘鉄を入れてくる。

 俺は完全にパニックに陥っていて、痛みを感じるどころではなかった。


「そ、それどころじゃないんです!」


「あ?」


 振り払うようにして俺の腕から抜け出した大家さんが、俺につられて上を見る。

 表情が変わった。


「出たな!」


 大家さんは雑誌を掴み、押入れの天井から生える女の人の顔目掛けて、下から持ち上げるようにして叩き付けた。まるで、テレビでよく見るパイ投げのようだった。


 雑誌は、まさかの直撃。

 低めの鼻からどろりとした血が垂れる。


 物理攻撃が効くとは思わなかった。


「てめー、そこで待ってろよ!!」


 大家さんは、そのままダッシュでゴ鬼ジェットを取りに行った。


「うわわわわっ」


 俺は仰向けの状態で口をパクパクさせていた。

 どうしよう。怒らせたんじゃないのか。


 はらはらしながら、彼女の様子をうかがう。


 怖い。

 本当は見たくない。

 でも、目を離せない。


 彼女は無表情だった。


 鼻血を垂らしたまま、木のうろのように真っ暗な瞳で、じっと俺を見下ろしている。

 なにか言いたそうな感じでもない。


 虚無。


 なんなの?

 ニタニタ笑ってたヤツが無表情になるって、どういう意味なの?


 やっぱ怒ってる!?


「石上、そこ邪魔!」


 もう大家さんが戻ってきた。

 わずか数歩の距離なのだから当たり前か。

 彼は俺の腹部を跨いで、押入れの前に立ちはだかる。


「居座るなら家賃を払え、ゴキブリ野郎ッ!」


 がめつい台詞とともに、殺虫剤が噴射された。


 え。

 長い。長いよ。


 ちょっと。


 いつまで噴射するんですか!?

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