第6話 出ちゃった?

 朝陽が射すと同時に、覚悟を決めた。


 ふすまを勢いよく開け放つ。


 押入れの中では、羽毛布団と枕の間に器用に潜り込んだ殿が、ぷうぷう寝息を立てていた。

 申し訳ないけれど、手を突っ込んで引きずり出す。


 よし、救出成功。


 急いでふすまを閉めて、大家さんの住む一〇一号室へ走る。

 非常識な時間であることは重々承知しているけれど、緊急事態だ。


 まだ寝ているかと思われた大家さんは、すぐに出てきた。


 さすがに怒られるかと思ったのに、瞳を輝かせて大歓迎された。


 彼もまた、昨夜家に戻ってからずっと戦っていたらしい。


 殺虫剤が効かない、パピヨンマスクばりの巨大な蛾と。


 俺は玄関に立て掛けてあった箒で蛾を叩き落とし、速やかに屋外へと掃き出すと、すぐに本題に入らせてもらった。


 焦っていたので、猫の指しゃぶり写真とか余計なことまで話してしまった。


 あまりに支離滅裂で、信じてもらえる気がしない。


 ところが、大家さんのリアクションは意外なものだった。


「えっ、出た? 出ちゃった?」


 拍子抜けする。

 俺は耳を疑い、大家さんに詰め寄った。


「ちょっと待ってください。どういうことですか?」


「いや、オバケだろ? オバケが出たんだろ?」


「いや、あの、オバケって……」


「は? だって、押入れの布団の上に首だけって、こういうことだろ?」


 大家さんが、テーブルの上にあったノートを引き寄せ、素早くペンを走らせる。


 俺の部屋の押入れと、俺が見た女の人の特徴を図にしてくれたらしい。

 この四角いのが、押入れ左の空間だろう。上段と下段に分かれており、布団を積み重ねた上段には、更に天袋的な役割を果たすスペースが設けられている。

 上段の半分ほどの高さまで埋めるようにして書き込まれた布団の上に、髪の長い女の人の頭がのっていた。


 雑だし絵心の欠片もないけれど、おおむねそれの通りだった。


「布団に穴でも開いてない限り、人間には無理だろ。しかも朝になったら居なかったって? そんなのオバケに決まってるだろ」


「出るのが当たり前みたいな言い方ですけど、やっぱり事故物件だったんですか?」


 入居にあたり妙な条件が付いてはいたものの、明らかに不自然な好条件だった。


 いくら駅から遠いボロボロのワンルームとはいえ、初期費用サービス、敷金礼金ゼロ、更新料ゼロで、あの家賃は破格すぎる。


 退去時に清算するという、クリーニング費用が相場を超えていたのだけは気になったが。


 だから、過去になにかあったのかもしれないということを、覚悟はしていた。


 でもまさか、オバケ……幽霊が出るなんて、思いもしなかった。そもそも、そういった類のものを俺は信じていなかったし、それらしきものを見てしまった今でも信じきれない。


 調べたら、よくできた蝋人形の首が転がり出てくるんじゃないか。もしくは、暑さで俺の頭がおかしくなっただけじゃないか。そんな期待が、まだこの胸に残っている。


「いや、人は死んでない。このアパートが建って三十二年あまり……二〇四号室で人が死んだことは一度たりともない」


「含みのある言い方ですね」


「ないけど、心霊物件なんだ。よくわからんが、あの部屋だけな」


「なんで教えてくれないんですか!?」


「告知義務がない。それに、出ないはずだったんだよ。住んでいるのがお前たちなら」


「出たじゃないですか。出ない前提で黙っていたなら、きちんと説明して貰えますよね」


「もちろんだ。でも出て行かれるのは困るな」


「出て行けませんよ。今は……」


 そんなこと、この人だってわかり切っているに違いない。


「それは良かった」


 大家さんは、悪びれもせずに頷いた。

 俺は固唾を飲んで、彼が話すのを見守った。


 ***


 このボロアパートもといウィステリアハイツは、今から三十二年前に、ここの現大家である藤村さんのおじいさんによって建設された。


 信心深いおじいさんは、この土地の歴史を調べ、曰く付きではないことを確認したうえで購入。もちろん、地鎮祭もとりおこなった。


 しかし、アパートの運営を始めてすぐ、二〇四号室の住人からクレームが入る。


 押入れの中に、女の人の霊が現れたのだという。


 おじいさんはすぐに神主を呼んでお祓いをしてもらったが、失敗に終わる。


 霊がその場所に執着する力が強すぎて、祓うことが出来なかったそうだ。


 実害がないとはいえ、借主は気味悪がって引っ越してしまった。

 次の入居者はすぐに見つかった。しかし、またも女の人の霊に怯え退去してしまった。


 そんなことが、何回も続いた。


 霊媒師を呼んだり、お札や盛塩を試してみたものの、すべてが無駄に終わった。


 おじいさんは、二〇四号室を空室にすることに決めた。


 あるとき、二〇四号室の前に猫の親子が棲みつく。


 寒い冬の日だった。


 可哀想に思ったおじいさんは、どうせ空いているのだからと、猫たちを二〇四号室で飼うことにした。


 おじいさんは一日二~三回ほど、猫たちの世話をするために部屋に出入りしたが、心霊現象には遭わなかった。


 その話を、ある若者が聞きつけた。


 貧乏学生だが、猫が好きらしく、ペット可の安物件を探していた。

 家賃を安くしてくれるのであれば、心霊物件であってもかまわないという。


 利害が一致し、若者は二〇四号室に住み始めた。


 しかも、彼は猫の親子を引き取って面倒をみてくれた。


 若者から霊の目撃情報は報告されなかった。


 猫が魔除けになっているのかもしれないと、おじいさんは考えた。


 やがて、若者は生活が安定して、猫たちを連れてより環境のいいペット可のアパートに移り住んで行った。


 おじいさんは再び二〇四号室の入居者を探し始めた。


 猫を飼っている人限定で募集を掛けると、すぐに次の入居者が見つかった。


 その人はキジトラ猫を飼っていた。


 猫が居れば魔除けになる。おじいさんはとくに告知などせず、部屋を貸した。


 何事もなく三ヶ月が経ったある日、二〇四号室で再び霊の目撃情報が報告された。


 キジトラの飼い主はやはり幽霊を恐れて出て行ってしまい、その後、部屋の住人は何度も入れ替わった。


 出現するまでの期間にバラつきはあれど、やはりどの住人も幽霊を目撃し、出て行った。


 おじいさんは諦めて、二〇四号室を再び空き部屋にした。


 しかし三ヶ月ほど経ったころ、幽霊が別の部屋にも現れるようになった。

 出現する部屋はランダムだったそうだ。


 おじいさんの住む一〇一号室にも出た。初めて幽霊の存在を目の当たりにしたおじいさんは、ぎっくり腰になったそうだ。


 どうやら、あの部屋を空きにしておくのは良くないらしい。


 このままでは、気味悪がったアパート中の住人が出て行ってしまう。


 焦ったおじいさんは、ふとこの部屋に住み着いた猫の親子の姿を思い出す。


 いちかばちか、家賃を下げに下げた。


 そして、入居者の条件に“黒猫必須”と書き足した。


 今度こそ、おじいさんの読みは当たった。


 黒猫こそが、二〇四号室の魔除けだったのだ。


 おかげで、二〇四号室を含め、どの部屋にも霊は出なくなったそうだ。


 ***


「めちゃくちゃ曰く付きの物件だったんですね」


「ここをじいさんに押し付けられたとき、きつく言いつけられたことがある。ひとつは、二〇四号室を空きにするな。空室である期間は、長くても三ヶ月。どんなに安くしてもいいから、住人を絶やすなと。もうひとつは……」


「黒猫ですね」


 先回りした俺に、大家さんは頷いた。


 俺がこの部屋を借りるに至った経緯は、友人の村田による紹介だ。


 実家を出ようと決意したとき、物件探しに困った俺は、高校時代からの友人である村田に連絡を取った。


 すると、彼は知人がアパートを持っていて、それも今かなり格安の部屋が空いているとの情報をくれた。


 藁にも縋る思いでこちらの大家さんに連絡すると、まずは猫の写真を要求された。


 変わった人だなと思いつつ、俺は指定されたアドレスに、厳選した超かわいい殿の写真を五枚ほど送った。


 すぐに返信が来て、今度は面接だと言われた。


 それも、猫を連れての面接。まったく意味が分からなかった。


 殿を連れて、俺は初めて大家さんの住むこの部屋にやってきた。


 大家さんは、殿を見るなり瞳を輝かせた。


 よほど猫が好きなのだろうと思った。


 面接は、俺ではなく殿に対して行われた。

 彼は殿をひっくり返して、あちこち観察していた。


 十分ほどで大家さんからOKが出て、俺は即日入居することになった。


 詳しい話を詰めたいと言ったところ、今の有り得ないほど安い家賃を提示されて、押し切られた。


 大して物がなかったので、荷物の移動は車で一往復で済んだ。


 引っ越しは村田が手伝ってくれた。


「ギリギリだったんだ。前の入居者が、じいさんだったんだが、息子夫婦と同居するとか言い出してな。募集を掛けたが、なかなか条件が合わなかった」


「やっぱり、そうそう見つからないものですか?」


「ああ。募集要項にオス限定と追加したのが良くなかったらしい」


「性別関係あったんですか?」


 そういえば、面接時に大家さんが殿の尻尾を持ち上げて見ていた。


 殿がキレて、尻尾で大家さんの横っ面を張り倒したときは、ひやひやしたものだ。


 まあ、猫好きだけあって大喜びしていたけれど。


「大有りだ」


 大家さんは鋭い目付きで俺を見返した。



「どうしても、にゃんたまが拝みたかった」



「なに言ってるんですか、アンタ」


 俺は思わず大家さんの頭を引っ叩いた。


「そんな最低な理由で!? っていうか、殿は去勢済みですけど!」


「関係あるかっ! 俺は殿のアレをモフることだけを夢見て、毎日脂ぎった上司ジジイどもの言いなりになってんだ」


「モフらないでくださいね?」


「モフってねーよ! 殿にそんな無体なマネできるか。見てるだけだ!」


「どっちにしろ最低ですよ。まさか、おじいさんが守ってきたウィステリアハイツを、私利私欲のために危険にさらすなんて」


「見つかったんだからいいだろ! お前には感謝してるよ。……っていうか、石上。お前、マジで引っ越すなよ?」


「越せませんよ……。そんな余裕ありません」


 引っ越したいけれど、殿と一緒に住める格安アパートなんてここしかない。


 殿の将来の医療費のために貯金しなくちゃいけないし。


 退去時には高額なクリーニング代が掛かる。


 出ていくなってことか……。


 すべて大家さんの思惑通りだと思うと、本当に恐ろしい。

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