第5話 今度こそ邂逅
ナイトメアコンビの片割れがやってきたのは、その日の二十一時ごろだった。
お互い、既に夕食は済んでいる時間帯だ。
チャイムを鳴らそうにも両手が塞がっていたらしく、膝でドンドンとノックをされた。ちょっと行儀が悪い。
ドアを開けてみると、彼は珍しく大荷物。
片手に白いレジ袋、もう片方には昨日俺が持ち込んだ掃除用具が提げられている。
持ち帰るのをすっかり忘れていた。
「昨日は悪かったな。ありがとう」
大家さんは、爽やかな笑みを浮かべてお礼を言った。
すっかり元気そうで良かった。
でもどうして、俺の隣で足の裏を舐めてる殿に向かって言うのでしょうか。
俺は一人と一匹の間にすっと割り込み、バケツを受け取る。
「いえいえ、俺の方こそ。わざわざ届けてもらってすみません。上がっていきます?」
「おう。邪魔するぜ。はいこれ、殿にお土産な」
レジ袋を押し付けられる。
中には殿の大好物のお高い缶詰が詰まっていた。
これも、ネットショップでまとめ買いしたに違いない。
「ありがとうございます。ほら、殿もお礼」
ホッケーマスクのようなゴムサンダルを脱いで居間に上がろうとした大家さんが、しかし、ぴたりと止まった。
怪訝そうな表情を浮かべ、きょろきょろと室内を見回す。
「いやに湿度が高いな」
「ああ、俺の部屋エアコンついてないので」
そんなことは、大家である彼には言うまでもなくわかっていることだ。
部屋にエアコンを設置しても構わないが、壁に穴を開けることになるため、必ず事前報告をするようにと、入居時に説明されたからだ。
「それにしたって、外だってこんなに酷くないぞ」
「ですかね」
返事をしながら、扉の外に顔を出してみる。
たしかに気温は高いけれど、蒸し暑いという感じではなかった。
大家さんも涼しい顔をしていたし。
「布団にカビ生えるぞ。そうだ。俺の家に除湿剤が余ってるから分けてやるよ」
押入れ用だけどな。
そう付け加えて、大家さんは元来た道を戻っていった。
今でなくてもいい気がするのだが、思い付いたらすぐに動き出すのが彼らしい。
いつもいただいてばかりで申し訳ない……とは思いながら、今回もお言葉に甘えることにした。
押入れに除湿剤を入れておけば、殿も快適に過ごせるかもしれないし。
ささやかなお礼になればと、俺は頂き物のパイナップルでデザートを拵えて待つことにした。
それから三十分ほど過ぎた。
「……」
大家さんが戻って来ない。
あの感じだと、除湿剤を取ってすぐに戻ってくると思ったのに。
俺の勘違いだったのだろうか。
除湿剤、どこにしまったかわからなくなったとか?
冷蔵庫の中では、用意したパインヨーグルトが冷えている頃合いだ。
待っている間に、殿が鳴き始めた。
今日は一日、記事を書いて過ごしていたので、日中はあまり遊んであげられなかった。
比較的大人しくしていてくれて助かったけれど、不満が溜まっていたのだろう。
猫じゃらしを出すと、荒ぶる神の化身のように暴れ始めた。
「全然戻って来ないね」
殿と遊び始めて更に三十分ほど経過した。
殿の体力は底なしだ。
狭い部屋の中とはいえ、全力で駆けずりまわり、飛び跳ね、二足で直立しボクササイズ。
まったく疲れる様子がない。
さすが、若いオス猫は違う。
二年前に二十代最後の自分とお別れした俺は、早くも息切れしていた。
歳のせいだとは思いたくない。
俺はまだ人生を謳歌していない。オッサン呼ばわりされるのはもう少し先のはず。
羽根を振る手を休めて、肩で息をしていると、殿が押入れの上段に飛び込んで行った。
今度は、この中で遊べということらしい。
俺は猫じゃらしを床に置き、手の感触を頼りに殿を追い掛ける。
殿の顔に触れる。
指先に、乾いた鼻の感触。
すぐに殿の両脚が俺の腕を捉え、鼻先を擦りつけながら噛み付いてくる。
「あ、いてて」
小さな犬歯が手の柔らかい部分にめり込む。
俺は手首を曲げて、棒のような前足を順にほどきながら、覆いかぶさる波のような動きで殿の頭をつかまえようとした。
殿はひらりと逃げ、そのまま猫パンチ。痛い。完全に爪が出ている。そろそろ切ってあげないと。
見えない中、なんとか勘をはたらかせて避けようとするが、全然だめだ。
苦肉の策。
手の指をイソギンチャクのように動かして、殿に襲い掛かる。
気持ち悪い動きに引いたのか、殿は攻撃の手を緩めた。
しつこく手を動かし続けていると、指先が濡れた感触に包まれた。
温かくてざらりとしている。
あ、これ、殿の口の中だ。
硬い歯で何度か上下に軽く挟まれる。
指をしゃぶられているらしい。
殿の指しゃぶりなんて、見たことがない。あっても、噛み付こうとして指を縦に咥えてしまった、くらいのものだ。
情報収集に利用しているSNSで見掛けた、猫の写真を思い出した。
キジトラ模様の猫が、飼い主の人差し指を咥えているショットだった。
子猫が母猫の乳を吸う時のようなご満悦の表情がかわいらしくて、心が和んだのを覚えている。
よし、俺も殿の可愛い指しゃぶりを写真に撮ろう。
そして大家さんに自慢しよう。……あと村田にも。
ポケットからスマホを取り出し、素早くロックを解除。
ええと、暗いところで写真を撮影するには、まずISO感度を上げて……。
「よーし」
殿が逃げないように、そっとふすまの隙間を広げた。
スマホをかざしながら、上半身を滑り込ませる。
ところがそこに、俺の想像していたかわいい愛猫の姿はなかった。
代わりに女の人がいる。
メス猫って意味じゃない。
女の人。人間の女性。
驚いて軽く仰け反る。
目と目が合った。
真っ黒で、まるで木のうろのような、感情のない瞳。
寝惚けているみたいだった。
夢からぼんやりと目覚めて、うっすら笑うような。
控えめな鼻、その下には、俺の左手の人指し指が吸い込まれている。
第二関節に触れる歯が、やけに大きいとは思ったんだ。
俺、殿じゃなくて人間の女の人の口に指突っ込んでる……。
「うおわあああああああっ!? ごっ……ごめんなさい!?」
咄嗟というには、かなり遅かったかもしれない。
しかし異常事態を察知してすぐ、俺は悲鳴を上げながら手を引っ込めた。
大きな口が開き、俺の指に噛み付こうとする。
すごい乱食い歯だった。
危うくつかまりそうになったけれど、うまく歯の隙間をすり抜けて助かった。
慌ててふすまを閉め、反対側から開けられないように、足で突っ張る。
そして、すぐに激しい後悔に襲われた。
中にはまだ殿がいる。
でも恐くてすぐには開けられない。
押入れの中は静かだ。
中からあの女の人が体当たりなどしてくるのではないかと思ったけれど、とくに何もない。
それどころか、部屋じゅうが水を打ったみたいに静まり返っている。
「と、殿?」
おそるおそる呼び掛けると、中からゴロゴロと音がした。
殿がリラックスした時や、嬉しい時に喉を鳴らす音だ。
「だ、大丈夫なの……?」
勇気を出して、ふすまを細く開けてみた。
さっきとは反対の、右側。おそらく、殿がいると思われるほう。
猫が通れるけれど、人間の頭は絶対に通れないくらいの幅を、慎重に。
「殿……殿? 出てきてよ」
何度か呼び掛けるも、うっとりした鳴き声が聴こえるのみ。出てくる気配はまったくない。
なんか、くつろいでる……?
俺はそっとふすまを閉めた。
気持ち良さそうに喉を鳴らす音は止まない。
その音で殿の無事を確認しながら、俺はふすまを押さえ、殿が『出たい』の合図をくれるのを待った。
やがて、ゴロゴロはムウムウという変な寝息に変わる。
えっ、嘘でしょ……?
俺はひとり、濡れた子犬のように震えながら、朝までの地獄の数時間を待った。
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