第4話 殿キレる。そして邂逅?

 大家さんのおっしゃるとおりでした。


 二〇四号室に帰ってみると、殿がすごい勢いで玄関に駆け寄ってきた。


 普段買い出し以外ではあまり外に出ない俺が、半日以上も家を空けたことで、放置されたと思ったみたいだ。


 そんなつもりは断じてない。信じてほしい。

 でもほったらかしにしてしまったのは事実だ。言い訳はできない。


「ノワァ……ノワァ……ナァアアン!」


 猛烈にわめきながら足に擦り寄ってくる。

 後ろ足で伸び上がり、手に取り付いてくる。


 あまりの必死さに、申し訳ないと思いつつも、俺は感動する。


「そんなに俺に会いたかったのか。ごめんね」


 鼻の下が伸びているのを自覚する。

 そういえば、テレビ電話していた友人の村田に、『黙っていればそこそこなのに、そうしてると本気で気持ち悪いな』と言われたことがある。


 余計なお世話だ。


 猫様を前にして、この顔にならない方がおかしい。

 たとえ俺が、人並み以上に上背のある、オッサンに片足を突っ込んだ年齢の成人男性だったとしてもだ。


 殿を抱き上げると、黒い毛並みがひんやりとしていた。

 ずっと押入れの中にいたのかもしれない。


 殿はしばらく、赤ん坊のように抱かれていた。

 やがて、腹部を撫でる俺の手に組み付いてじゃれ始めた。


 殿は後ろ脚の筋肉がかなり発達しており、素晴らしい脚力で繰り返し蹴られると、定期的に爪を切っていてもダメージを喰らう。小さな手――足だが――の指がいっぱいに開いているのが、とてもかわいい。


 小さな口で噛みついてくるのも、けっこう痛い。今日は寂しい思いをさせてしまったせいか、咬合力が三割増しになっている。興奮して変な声が出ているのがまたかわいい。


「よしよし、ごめんね。悪かったよ。大家さんがホントにどうしようもなくてさ。今日は仕事がないから、いっぱい遊んであげるからね」


 俺がいない間に床の上で小突き回されていたらしい、キジの羽つきの猫じゃらしを取ると、殿は喜んで襲い掛かってきた。


 左右に頭を振り、後ろ足で立ち上がって連続パンチ。


 狭い部屋で走り回るのは難しいが、玄関から居間の端までの距離をめいっぱい活用して、追い掛けっこをする。


 殿が興奮して押入れに飛び込んでしまえば、もう猫じゃらしは必要ない。


 細く開けたままのふすまに左腕を突っ込み、取っ組み合いをしたり、指を使ってじゃらしたりする。もちろん、多少の生傷は覚悟の上だ。暗闇の中で野生を開放した殿は、ハンターなのだ。


「いいぞ、殿。ワイルド。最高。カッコいいぞ」


 俺は愛猫をはやし立てる。

 たいへん痛々しい光景なのはわかっているけれど、つい話し掛けてしまう。


 ……みんなやってるよね?


 夢中になって遊んでいるうちに、たまに俺の手が届かなくなることがある。

 そんな時は、普段は閉めっぱなしの反対側のふすまを少し開け、手を入れる。


 パワハラ上司にウドの大木と言われた長身が、俺の生活の中で唯一活きる瞬間である。

 暗闇に潜んで俺の手に狙いを定めていた殿が、背後を取られてちょっぴり驚くその様子は、何度見てもかわいいのだ。


「あれ?」


 限界まで伸ばした俺の右手に、モフッとしたものが触れる。


 押入れで遊んでいる最中に、こんなところまで下がってくるのは珍しい。

 途中で飽きて寝てしまうつもりだったのか?


 突っ込んだままだった左腕を動かして、殿を誘う。

 機会を伺っていた殿が、跳躍し、すぐに飛びついてきた。


 ふすまの隙間から、大きな瞳を爛々とさせて俺の腕に喰らいついているのが見える。痛い。けっこう痛い。


「あはは。元気だな、殿」


 笑いながら、俺は首を傾げる。


 左手に、殿の猛攻。しかし、俺の右手には、まだモフっとしたものが触れていた。

 ほんのり温かくて、やや湿っている。

 てっきり殿のおしりかと思ったけれど、違う。


 確かに猫というのは伸びたり縮んだりする。

 でも、それにしては長過ぎる。

 測ったことはないけれど、俺の伸ばした両腕と比較する限り、この部屋の押入れの間口は百七十センチを超えているはずだ。

 いくらなんでも、そこまで伸びないだろう。


 では、この毛の正体はなにか。


 今朝畳んで仕舞った敷布団、敷マット、夏用の薄い羽毛布団とタオルケットが左側。

 右にあるのは、冬用の厚めの羽毛布団、毛布、あとは枕に、貰いものの座布団が数枚。


 収納しているものを順に思い出すけれど、それらしきものはない。毛布は、すのこの上で一番下になっているはずだ。


 しばし考えて、俺は手を引っ込めると、


「あの……殿? 俺、ちょっと疲れてるみたいなんですけど……」


 恭しく揉み手をしながら、猫様に休憩のお伺いを立てることにした。


 ***


 悪夢を見て、目を覚ました。


 時計を見ると午前四時過ぎ。まるで年寄りの朝じゃないか。

 昨夜は、殿の海よりも深い慈悲の御心で、早く寝ることを許されたというのに。


 これでは休んだ気がしない。

 布団が汗でじっとりと湿っていた。布団だけではない。空気も。


 そろそろ夏が本番を迎える。


 でも、なんだかそれだけではないような、妙な気持ち悪さがあった。

 夢のせいかもしれない。


 夢の中で、俺は薄暗い部屋にいた。

 まだ涼しいはずの時間帯だろうに、室内は暑くて、むわっとしている。



 髪の長い女性が、大の字に天井に張り付いて、俺を見下ろしている。



 俺は布団に仰向けになったまま動けない。

 金縛りというやつだろう。会社員時代にも、たまにあった。


 天井の女性と目が合っている。

 真っ黒で、光のない虚ろな目をしていた。

 俺は目を瞑ってしまいたかったが、出来ない。彼女をじっと見返すしかない。


 落ち着け。これは夢だ。


 俺にはわかっていた。

 夢でなければ、天井に見知らぬ女性がくっついているはずがない。物理的に不可能だ。


 今からその証拠を探す。

 金縛りにあったときは、周囲を観察すればいい。


 家具の配置やカーテンの模様、小物などが、現実にあるものとは微妙に違う。

 見慣れた自分の部屋であれば、見分けることは容易なはずだ。


 俺はそっと、眼球を動かす。

 そこで疑問が生じた。


 ……いいのか?


 目を逸らすということは、目の前の女性から注意を逸らすということだ。本当に大丈夫か。

 天井から、木材が軋むような音が聞こえた。

 慌てて女性に視線を戻す。


 浮いていた。


 天井から剥がれて、先ほどよりも近い位置で、俺を見下ろしている。

 しかも、空中で這うような動きをして、もっと近づこうとしてくる。


 彼女の頭が揺れるたび、俺の顔の上になにかがパラパラと降ってくる。

 見上げているだけの俺には、それがなんなのか見えなかった。唇の端をもぞりとくすぐる感触で、その正体に気付いた。


 髪の毛だ。


 女性の長い髪が、抜け落ちて降っている。

 ご婦人に対してこんなことを言うのは、本当に申し訳ない。


 でも、気持ち悪い!


 声を出そうと口を開けた。だめだ、出ない。

 口の中に毛が入る。毛質は太くて硬い。吐き出したい。


 必死に舌を動かすが、髪の毛は次々に降ってきて、俺の舌に絡みつく。

 息が苦しくなる。

 ただでさえ生ぬるい熱帯夜のような空気が、他人の毛髪によって遮断されていく。


 そうだ、殿。


 殿はどこ?


 助けてくれ。


 落ちてくる髪で視界が狭まっていく。

 女性がどんどんと高度を下げて近付いてくる。


 その蒼白い顔が、俺の鼻先から十センチほどの距離に迫ったとき。


 突如、女性が口を大きく開いた。


 不健康な紫っぽい口腔から、生温かい息が吐き出される。

 幸い鼻呼吸を止めていたので、においを感じることはなかった。


 でも、まずい。これって、食われるのでは?


 再び、彼女と目が合う。


「アアーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ」


「ヤアーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ」


 アイコンタクトが引き金になったのだろうか。

 女性は、いきなり奇声を上げ始めた。

 どこか悲鳴じみている。


 叫びたいのは俺の方だ。


 もうパニックだ。

 よくも今まで耐えていたと思う。


 俺は裂けてしまいそうなほど大きく目を見開いて、初めて大声を出した。

 絶叫だった。

 大きく開けたままの口から、新鮮な空気が流れ込んできて、声が出た。

 女性もずっと叫んでいる。


「ニャア―――――――――――――――」


 変な声だった。


 ふたりの声が重なって、悲惨な二重奏を奏でる。


 ***


 そこで俺は目を覚ました。


 布団の上で大口を開け、万歳の格好をしていた。

 どこかで殿が鳴いている。

 今朝はやけにロングピッチだ。


 先ほどまで俺の眼前で叫んでいた女性の声の正体に気付き、ため息をつく。


 もちろん、見上げた天井に彼女はいない。

 キノコのかさみたいな半球の照明カバーがあるだけ。


 先日ほぼ強制的に観賞する羽目になった、あの映画を思い出す。

 シチュエーションも出てきた女性の姿も、そっくりだった。


「ニャア―――――」


 加えて、この鳴き声。


 室内をウロウロしている殿をつかまえ、小さな頭蓋の上に顎をのせた。


「お前と大家さんの合わせ技かよ……」


 心の中で、密かにナイトメアコンビと名付けた。


 なお、我ながらあまりにもくだらないので、本人に言う予定はない。


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