第3話 大家さんがこない②

 棚に戻せるものはすべて戻し、書類は集めてクリアケースへ。明らかな不用品をゴミ袋に詰める。少年誌、ファッション誌、ホビー誌……雑誌の類は分類して紐で縛った。


 玄関までの通路が拓けたところで一旦自宅に戻り、エプロンを装備。


 雑巾とバケツ、それからハタキを持ってきた。大家さんの家を探せば見つかったかもしれないけれど、手に馴染んだものを使いたい。


 たっぷりと時間をかけて、俺は大家さんの家を掃除した。


 床をはじめ、窓ガラスやキッチン、トイレまでピカピカだ。


 御札が並んだモダン神棚も、念のため大家さんに断ってから、軽く埃を落とさせていただいた。


 こうしてみると、俺の部屋と大して変わらないワンルームであることがわかる。

 ただし、キッチンもバスルームも今いるリビングも、すべてリフォームされている。


 エアコンを抜きにしても、俺の部屋よりはるかに快適そうだ。


「大家さん、終わりましたよ」


 声を掛けると、大家さんはベッドの上に胡坐をかいて、小難しそうな本を読んでいた。


 人に部屋の掃除をさせておいて、この人は……。


「おう。ご苦労さん」


「……」


 いや、勝手に掃除を始めたのは俺だし、趣味だからいいんだけど!


 さすがの俺もちょっとは頭に来たが、なんだか元気が戻ったみたいで安心する。


 軽く握り締めた拳をほどいて、ベッドに腰掛けた。

 ピカピカに磨き上げたフローリングには、ソファはおろか座布団すら置かれていない。


 完全なるお一人様仕様。


 彼の定位置は、おそらくベッドの上だろう。


「なんか食べます?」


「作ってくれんの? 俺もう、カ労リーメイト飽きた」


 彼の言葉で、この部屋から出てきた固形タイプの栄養調整食品の袋の山を思い出した。


 意外にも、それらはきちんとゴミ箱の中に捨てられていた。

 大家さんなのでルールを破るわけにもいかないのか、分別もできている。


 あとは時々床をゴミ箱の代わりにしなければ、まだましな状態が保てていただろう。


「いいですけど、ずっとソレばかり食べてたんですか?」


「まあね。弁当のカラとかカップ麺とか放っておくと、臭うし、虫が出る」


 大家さんが渋い顔をして、サイドテーブルに本を置いた。

 一度、痛い目を見たのかもしれない。


「だめなんですか、虫」


「だめだね」


 冷蔵室・冷凍室・野菜室がついた冷蔵庫の中には、けっこうな量の食材が入っていた。


 料理なんてまったくしないくせに、俺の家の冷蔵庫よりも充実している。


 よく俺の家に持ってきてくれる差し入れは、その日買ってきたものではなく、こうして冷蔵庫に備蓄されたものなのだろう。


 ベッドにあったパイナップルは野菜室に格納した。


 手伝おうかとは言われたものの、まったく役に立ちそうにない大家さんには、着替えるついでにシャワーを浴びてきてもらう。


 無精ひげが生えていないのでわからなかったけれど、四日間もあのままだったみたいだ。俺なら口の周りがボーボーになっている。


 まったく使用されていない様子の調理器具を軽く洗ってから、料理を始める。


 これも趣味ではあるのだけれど、ごくごく一般的な家庭料理に慣れ親しんだ俺に、あまり凝ったものは作れない。


 炊飯器があったのでお米を炊き、見るからにお子様舌っぽい大家さんが喜びそうなハンバーグと付け合わせを用意した。スープは、好きで常備しているらしい粉末のコンポタ。


 動き回ってお腹が減っていたので、自分のぶんも用意させてもらった。


 こういうところはちゃっかりしている、と大家さんにはよく言われる。


「あー、他人の作った料理最高~」


 頬袋をパンパンに膨らませ、大家さんは幸せそうな表情を浮かべている。


 先ほどの死人のような姿が嘘のようだ。蒼白だった顔に、ほのかに赤みが差している。


「あの皺だらけのスーツは、あとでクリーニングに出してきますからね」


「え? それは助かるけど。……なんだ、お前。俺の嫁かよ」


「口が減りませんね。ご自分で行っていただいてもいいんですよ」


「あー、ごめんごめん。お願いします。ちょっと待って、金渡すから」


「本当に外に出るのが嫌いなんですね」


 俺もそうだが、彼ほどではない。日用品の買い物くらい行ける。全然平気。


 先ほど風呂から上がってきた彼に、冷蔵庫の中の食材をどうやって仕入れているのか訊ねたら、当たり前のような顔で通販だと答えた。


 コンビニにすら行きたくないらしい。

 店員さんにはしやスプーンの要否を訊ねられただけで、意識が遠のくそうだ。


 あたためますか? という質問に対し、咄嗟にはいと答えてしまったせいで、レジ前に突っ立って待つ羽目になり、金を払ったにもかかわらず途中で逃げたことがあるという。


「どうして俺のことは平気なんですか?」


「お前だって俺のこと平気だろ」


 フォークでにんじんのグラッセを刺しながら、大家さんは目を伏せた。


 長い睫に縁取られた、こぼれそうなくらい大きな瞳の中に、深い孤独の闇が潜んでいる。


「……」


 彼と俺は少し似ている、と思う。


 理由や程度は違えど、世の中に生きにくさを感じ、諦めてしまった同士だ。


 外の世界でぎらぎらと眩しい不快な光を克服するよりも、薄闇の中で他人に背を向け、なるべく関わらないようにして生きて行こうとしている。


 最初は、人嫌いな猫に懐かれてるみたいだと思った。


 俺は大家さんがあまり人間っぽくないから平気だし、大家さんも似たような理由で俺と一緒にいるのだろうと。


 けれどそれは、少し違っていたのかもしれない。


 開いた世界に背を向け、孤独を抱えた者同士、引かれるものがあった。


 ……なんて、俺がいま勝手にそう感じているだけなんだけれど。


 食事を終えた大家さんは、ベッドに寄り掛かってしばらくじっと目を閉じていた。


 俺はキッチンで食器を洗う。背中越しにリラックスした雰囲気を感じた。


 このまま寝てしまうかもしれないな、と思った。


 しかし大家さんは、窓の外から差し込む夕日の中で、勢いよく上体を起こした。


 食器を洗い終えてリビングに戻ってきた俺は、びっくりしてちょっと後退る。


「どうしました?」


「石上。殿はどうしてる」


「家でずっと留守番してますけど」


 殿の食事は朝と晩の二回。朝のぶんはしっかりあげてきた。水もきれい。

 熱中症の心配もない。今日は暑いけれど、俺の部屋はそんなに日当たりがよくないし、殿には比較的涼しい押入れという避難場所がある。


 だから家に置いて来ても特に問題はないはずだ。


 そんな俺の説明に、大家さんは納得していない様子だった。


 冷蔵庫からあれこれ出してきて――その中にはあのパイナップルもあった、適当な袋に詰めて俺に手渡すと、慌てた様子で俺の背中をぐいぐいと押して玄関まで追いやった。


「今日はもう帰れ。殿が寂しがってるかもしれない」


 自分が死にかけていたというのに、俺の猫の心配をする。

 悪魔のような人だと思うことも度々あるけれど、案外優しい人なのかもしれない。


 大家さんの家から追い出された俺は、エプロン姿のまま、自宅への通路を歩いた。


 なお、今月分の家賃は渡し忘れた。

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