第3話 大家さんがこない①
「ニャァー。ニャァァ」
「そうだね、昨日も来なかったね」
ここ数日、大家さんが俺の部屋に姿を現さない。
「ンナァァ~……」
彼のおかげで日々の猫じゃらしタイムが長くなった殿は、ずっと不満そうだ。
大家は副業だと言っていたけれど、本業が忙しいのだろうか。
大学生、じゃないよな……。
俺だって、来ないのが一日二日程度ならそれほど不思議にも思わなかった。
でも、今日でもう四日目だ。
しかも毎月この日は、朝から大家さん自ら家賃を徴収しにくると決まっている。
もしかして、体調でも崩しているんじゃ……。
六月の末、かなり暑い時季だった。
心配になった俺は、今月分の家賃を入れた白い封筒を片手に、大家さんの住む一〇一号室へと向かった。
◆◆◆◆◆◆◆
なんとなく嫌な予感がしていた。
申し訳ないと思いつつ、彼の部屋に一歩足を踏み入れたとき、俺はその有様に絶句した。
鍵が開いていたことにも驚いたし、さらに驚くべきは、部屋の荒れよう。
玄関から入ってすぐの居間が、空き巣でも入ったのかと思うほどに、すさまじく散らかっていた。
散乱する衣服、たぶん全然履いていないモコモコのルームシューズ。
専門書、ジャンルがバラバラの文庫本、謎の書類、箱から引っ張り出したままのティッシュ、不揃いな紙屑。
主にチョコレート系に好みが偏った菓子箱、二百ミリリットルの赤い野菜ジュースのパック。
俺の部屋に持ち込んでいたホラー映画のDVDの数々、絡まったケーブル類、大手ショッピングサイトのロゴが入った空の段ボール箱、その他。
幸いなことに、生ゴミやカップ麺の容器などは散らばっていない。
それでも十分にヤバイ。
床が見えない。足の踏み場がない。
「つーか、さむっ」
羨ましいことに、部屋の空気はエアコンでキンキンに冷えていた。
熱中症で死んでいるということはないと思う。でも、ちょっと冷えすぎでは。
体感温度は二十度以下。たぶん。
「えーっと……ごめんなさい!」
一言詫びてから、靴を脱いで上がらせていただいた。
ものを踏まないようにすり足で進む。
時折、爪先に硬いものが当たった。痛い。
ふと、物で形成された海原の隅に、人が倒れているのをみとめた。
大家さんである。
濃いグレーのスーツを着ていた。
うつぶせの姿勢で、服の海に顔を埋めている。
「大家さん!」
すぐさま駆け寄ろうとしたが、足場が悪くて苦戦する。
物のないところ――はないので、せめて踏んでも差し障りのなさそうな地点を選び、ジャンプしながら近付いた。一歩ごとに覚悟が必要だった。
彼の元に辿り着いたときにはもう、俺の足はつりかけていた。
ぐったりする大家さんを抱き起こす。
……顔が真っ青だ。
力なく閉じられた目は、濃く深く隈どられており、よく『死人のようだ』と言われる俺よりも生気がない。
「しっかりしてください! 大家さん……藤村さん!!」
深い意味はない。
でも、こんな時でもないと呼ぶ機会はなかっただろう。
名前に反応したのか、大家さんはゆっくりと目を開ける。
そして俺に気付いた。
「よお、石上……」
死にそうな顔が、にやりとした。
白目が充血している。寝不足だろうか。
「よおじゃありませんよ、びっくりしたぁ……。いったいなにがあったんですか?」
軽く肩をゆすりながら訊ねると、大家さんは乾燥しきってガサガサになった唇を小さく動かした。
ぼそぼそとなにかを言っているようだけれど、俺には聞き取れない。
でも喋る余力はあるみたいで、ひとまず安心。
最初に見たときは死んでいるのかと思ったよ……。
俺は部屋の隅にあるベッドに、大家さんを寝かせることにした。
上にあったものは、悪いけれどすべて床に置かせてもらう。
本とか服とか、百歩譲って百円ショップに置いてありそうなヒマワリの造花はいいとして、どうしてベッドの上にパイナップルが丸ごとのっているんだ。
……めっちゃいい香り。
しかし、常温保存には向かない果物だ。俺の部屋と違ってエアコンが効いているとはいえ、傷むのは時間の問題だと思う。
大家さんはベッドの上に丸まると、膝を抱えてブツブツ言い始めた。
たまにヒヒッと、小物感溢れる卑屈な笑い声を漏らしている。
命に別状は無さそうなので、ベッドの脇に座って、耳をそばだてる。
「……もう何ヶ月も行かずに済んでたんだよぉ……」
ようやく彼は、俺にも理解できる日本語を話し始めた。
女の子っぽい童顔は、眼鏡を外すと更に子供じみている。
くしゃくしゃに歪んで、泣きそうな顔――というよりは、なにか猛烈にまずいものでも食べたみたいな……あ、わかった。
“今にも吐きそうな顔”だ。
「行くって、どこにですか?」
俺はベッドの脇に置かれた、筒状のゴミ箱を掴んで引き寄せながら尋ねる。
「会社だよ、会社」
「か、会社ですか!?」
「俺、普通にサラリーマンなんだよ。笑っちゃうだろ」
それは意外だった。
彼は俺の部屋にこそ来るものの、基本的には屋内にいる“遊びに来るタイプの引きこもり”という印象だった。
殿に一方的に話し掛けているシーンを除いては、俺以外の誰かと会話しているのを見たことがない。
それどころか、屋外で姿を見掛けることがほとんどない。
本業は、きっとなにか家でやる仕事なのだろうと思っていた。
イメージとしては、クリエイターの類か、プログラマー。FXトレーダーという線も捨てがたく、俺は密かにフリーランスの先輩として彼を目標にしていた。
俺みたいにカツカツの生活をしている様子もないし、お土産に高そうなお菓子を持ってきてくれることもある。
だから家に居ながら、少なくともそこそこ快適な生活を送れるくらいには、稼いでいるんじゃないか、と。
あくまで目標だ。尊敬じゃなくて。
俺も今の仕事で、そのくらいになれたら、と思っていた。
それがまさか、スーツを着て通勤するような人だったなんて。
この人にそんな働き方は無理だろうと考えていた。
自由奔放でいられなければ、死んでしまいそうだと。
実際、かなり無理をしているみたいだ。
「お前が越してくるちょっと前から、会社がテレワーク推進とか言い出してさ。やっと俺の時代が来た、と思ったんだよね」
それはむちゃくちゃ羨ましいです。
「俺、会社とか超嫌いだし。好きなヤツなんているのかしらねーけどな。
……クソ上司もアホ同僚も後輩も掃除のババアも全員うぜえし。
春は虫がうじゃうじゃ復活するし、夏は外出ただけで汗だくんなるし、秋はなんかこう……やる気が出ない。
冬なんか最悪だよ。寒いし、痛いし、雪で前見えねえし、進めねえし、下手すりゃ通勤するだけで死にそうになるしさ」
「あー、わかります」
……秋以外は。
「だろ? やったー、これであいつらの顔見なくて済む。さらば加齢臭、タバコ臭、化粧と香水の臭い、オッサンの
「あ、はい。思います」
とりあえず、合わせておいた。
大家さんは満足そうに、うんうんと頷く。
あれ。なんかちょっと元気……いや気のせいだな。
「で、……あのハゲ部長、なんて言ったと思う?」
大家さんはそこでたっぷりと溜めてから、俺の顔を見上げてきた。
可哀想に、目がイってしまっている。
まるで、地獄の亡者とか餓鬼みたいだ。
大声に備えて、俺はちょっと身構えた。
「別に理由はないんだけど、たまには直接顔を見といたほうがいいかな~なんて」
なんて。
俺の脳内で、大家さんの声にエコーが掛かった。
「キモいこと言ってんじゃねえよ、クソッ! ハゲ! なんでこの俺様が、テカッたオッサンのツラァ見にわざわざ車で三十分走らなきゃなんねーんだよ。有り得ねえ。んで、用が済んで帰ろうとしたら……」
突然、大家さんがにこっとする。
あまりの違和感に、俺はひょろりとした長身を強張らせた。
「メシでもどうだ? せっかくだからみんな誘って飲みに行こう! 藤村くんが顔を出すなんてレアだからね、オジサン奢っちゃうぞぉ~」
言いながら、大家さんの両手が、そこにはないなにかを揉むような動作をしている。
たぶん、その部長さんのモノマネだ。
話を聞く限り、ちょっとセクハラ気味なのは置いといて、コミュニケーション能力が著しく欠如した部下を気遣っているみたいだ。
だいぶ空回りしているような気もするけれど。
しかし、大家さんはこの性格だ。
大した理由もなく呼び出された時点で機嫌は最悪。
なんとなくや思い付きでものを言われると、イライラして堪らないのだろう。
「てめえが呼んだんだろーがッ!」
怒鳴り声とともに、なにかが飛んで行った。
俺が聞き取れたのはここまでだ。
身構えるのが少し早過ぎたために、大声で耳をやられた。
「……」
その後の飲み会でも色々あったらしく、大家さんは呻くような声で呪詛の言葉を呟いていた。
部長さんのボディタッチに鳥肌を立てながら、こわばった作り笑顔でビールを注ぐ彼が目に浮かぶ。
俺も強制参加の会食や飲み会で、散々嫌な思いはしてきた。
でも彼の場合は、集まるメンバーが誰であろうと、たぶん同じだ。
……彼は人間が嫌いなのだ。
ベッドの上で悶えている大家さんを放置して、俺は部屋の惨状をもう一度見回した。
生活能力のなさそうな人だと思っていたけれど、ここまでとは思わなかった。
「片付けますからね」
大家さんに背を向けたまま、宣言した。
返事はない。
聞こえているのかいないのか、相変わらずブツブツ言っている。
拒否はされなかったので、速やかに取り掛かることにする。
このままじゃ、俺がこの部屋から出られない。
弱り果てた大家さんのことも気になるけれど、先ほども言った通り、喋る元気があるので大丈夫だろう。人は三日食わなかっただけでは死なない。
こんな部屋では、食事もできない。
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