第2話 殿様と俺


 石上いしがみ尚央なお、三十二歳独身。


 職業、フリーライター。


 インターネットを介してクライアントから依頼を受け、ネット上に掲載される記事を執筆している。


 その傍らで、作家志望として創作活動に勤しむ日々を送っている。


 作業場所はほぼほぼ、自宅である賃貸アパート“ウィステリアハイツ”の二〇四号室。


 カフェで作業? とんでもない。

 俺なんかが、たった一杯のコーヒーで長時間店に居座るなんて、想像しただけで周囲の視線が痛いです。

 それに、そのために支払う千円すらも、今の俺の財布には大打撃だ。


 食材や日用品の買い出し以外は、いつもだいたい家にいる。


 ヒキコモリと言われても否定できない。


 趣味も、屋内でできることばかりだ。


 まずは、本を読むこと。

 どんなジャンルも読むけど、マイブームはホラーとSF。


 次に、料理をすること。

 実家で料理を始めて以来、その楽しさに目覚めた。

 でも我が家のミニ冷蔵庫には、いつもろくな食材が無い。


 それから、掃除をすること。

 理由なんてひとつ。きれいにすると気持ちがいい。

 とくに、新品のメラミンスポンジは大好きだ。


 そんな俺のライターとしての稼ぎは、正直よくない。全然よくない。

 始めた頃よりは断然マシだけど、暮らしは常にギリギリだ。


 外に出て働けば、もう少しましな生活が送れるかもしれない。


 そう思って、色々とアルバイトを試したけれど、どれも長くは続かなかった。


 俺は前職で精神を消耗しきっていた。


 ブラック企業で虐げられ続けた後遺症で、他人に恐怖を抱くようになっていた。


 バイト先の人たちは、みんなごく普通の人たちだった。

 どちらかというと、いい人ばかりだったように思う。

 少なくとも、俺の元上司たちよりは。

 いじめや嫌がらせを受けることも見ることもなかったし、互いに適度な距離感と気遣いがあった。


 それにも関わらず、俺は彼らが怖くてたまらなかった。


 目が合う。

 挨拶をする。

 協力して業務を遂行する。

 お礼を言う、言われる。

 仕事を頼む、頼まれる。


 そんな社会人として当たり前のやりとりや、ときに他人の優しさに触れることさえも、俺にとっては強い苦痛になっていた。


 すぐに心身に不調をきたし、俺は外でのバイトを諦めた。

 そして、人に会わずにできる今の仕事を、当分の生業にすると決めた。


 楽な道ではなかったけれど、幸い作家志望ということもあって、文章を書くのは好きだった。

 クライアントとのやりとりは、ほとんど文面なので、そう苦痛でもない。


 今日も俺は黙々と手を動かす。

 今書いているこの記事も、文字単価はちょっと安い。

 リサーチ、構成、執筆。

 けっこうな時間がかかるのに、そこに賃金は発生しないのだ。

 時給換算すると死にたくなるから、絶対に計算してはいけない。

 これがマイルール。


 ……俺って、なんのために生きているんだろう?


 最近、よく考える。


 作家になるのは俺の生涯の目標だ。

 ブラック企業で社畜と化し、一度は完全に見失った。

 でも、あの場所から逃げ出したおかげで、忘れかけていたものが胸の内によみがえった。

 つまらない人生を送ってきた俺の、唯一、諦め切れない夢だった。


 でも、もし叶わなかったら?

 だれにも認めてもらえなかったら?

 俺はずっとこのまま?


 後ろ向きな考えがよぎる。

 自分を信じられない人間に、夢なんか掴めない。

 そんなことは、俺にだってわかる。

 わかっているのに、考えることをやめられない。


 俺は、なんのために生きているのだろう。

 このさき生きていたとして、なんの意味があるのか。

 そもそも、どうして俺なんか生まれてきてしまったんだ。


 この三つが、延々とループする。


 むなしくなる。

 消えたくなる。

 死んでしまいたくなる。

 考えるのが嫌になって、スーツを着たボロ雑巾だった頃の俺に、戻りたくなったりもする。


 そんなときに思い出すのは、一緒に住む黒猫“殿との”の存在だ。


 思い出すというよりは、


「ニャァアアア」


 このように、ご本猫ほんにゃんさまが強制的に意識のド真ん中に頭をねじ込んでくる。


 殿と出逢う前、俺は猫に対して“大人しい生き物”というイメージを抱いていた。


 でも殿は完全にその真逆。


 鳴く。とにかく鳴く。


 俺が仕事をしていても、賞に応募するための小説を書いていても、疲れ果てて寝ていても、トイレで己と戦っていようとも関係ない。


「ンアォ……ンアォ……ンア゛アアアアアォ」


 遊べ! かまえ! おれを見ろ!

 とばかりに鳴きまくる。


 残虐非道な仕打ちでも受けているのかと思われるような、悲痛な鳴き声を出す。

 集中力など直ちに吹き飛ぶし、眠れるわけがない。出るはずのものも引っ込んでしまう。

 ワンルームだから、別室に隔離も不可能。


 困り果てた俺は、バスルームにこもって仕事をしようと試みた。


 最初のほうはいい感じだった。


 でもある日突然、隣の部屋の住人がわざわざ訪ねてきて、『あなた、猫をいじめてるんじゃないでしょうね。あんなにかわいい子を!』とめちゃくちゃ怒られた。


 ……なんで俺の猫がかわいいって知ってるの?


 たまに電話を掛けてくる友人の村田にも一度、神妙な声音で虐待を疑われた。


 濡れ衣もいいところだ。


 でもそうだよね。ひとりはさみしいよね。


 ごめんね、殿!


 俺は殿を満足させるため、日夜猫じゃらしを振り続けた。

 忙しい時は、片手でキーボードを叩きながら。


 これにはコツがある。


 まずは殿がテーブルや棚など、物陰に潜むのを待つ。

 醸し出す雰囲気で準備オーケーのサインを察したのち、絶妙な距離感・速度・タイミングでおもちゃを動かす。

 この三拍子が揃わなかった場合は、無視か不完全燃焼で、リテイクとなる。


 それに飽きて、こちらに尻を向けてくれば、尻尾の付け根をトントンする時間だ。


 これにもコツがあり、リズムや力加減が気に食わないと不機嫌になる。


 ゴロゴロ言い始めたら、背中から腰に掛けてナデナデだ。


 コツはないが、とにかく長い。


 途中でやめると、非難の視線を浴びる。

 いつまでも終わらない。まったく仕事にならない時もある。

 

 でも仕方ない。猫さまとはそういうもの。


 無償の愛と、献身、自己犠牲の精神、そして絶対服従の覚悟が必要なのだ。


 俺が育て方をミスっただけかもしれない。

 というか、甘やかしてしまった自覚はある。


 おかげでこの御殿さまは、『自分がちょっと鳴けば、人間どもはなんでも言うことをきく』と思い込んでいる。

 そしてそれは、おおむねその通り。間違っていない。


 うるさいなー困ったなーと思ったところで、むちゃくちゃかわいいので、逆らうことができない。


 仕事をしなくちゃいけない。

 死ぬほど眠い。

 トイレ行きたい。

 風呂入りたい。

 でも、かわいい……。


 この無限ループ。

 俺は頭を抱えた。


 このままでは、生活が立ちゆかなくなってしまう。


 運動不足に不摂生とあって、体力もすっかり落ちている。

 下手をすると倒れるかもしれない。

 立って殿の世話すら出来ない俺に、存在意義はない。

 あの会社で散々言われてきたように、きっとゴミと一緒だろう。


 そんなある日、救世主が現れた。


 大家さんである。


 この部屋に住み始めて二ヶ月ほど経過してからだろうか。


 大家さんは、なにかしら理由をつけたりつけなかったりして、頻繁に訪ねてくるようになった。


 俺は他人が怖かったし、最初はすごく戸惑ったけれど、不思議とすぐに慣れてしまった。


 彼が来ると、殿は静かになった。

 大家さんは猫が大好きなのだが、猫にまったく好かれない人。

 猫が子供を嫌う、あれと同じ原理だと思う。


 殿も御多分に漏れず、会うたび大喜びで構ってくる大家さんがウザいらしい。


 抱っこされて、前足で突っ張ったり、顔を足蹴にしたり。

 殿のあんな迷惑そうな顔を、俺は今まで見たことがなかった。


 ここまで聞くと、ただ殿が可哀想なだけなのではないかと思うだろう。


 しかし、遊び相手としては合格のようで、大家さんが殿のお気に入りの猫じゃらしを手にすると、素早く駆け寄っていく。


 澄まし顔をして、『仕方ないから相手になってやる』というスタンスを保ちつつも、わくわくして嬉しい気持ちがしっぽに出てしまっている。


 大家さんは、現金なやつだと笑いながら、殿が飽きるまで相手をしてくれる。


 その間、俺は自分の時間を過ごすことができた。


 殿が退屈したり寂しい思いをする心配はなくなるし、遊んでいる殿をいつもとは違う視点で眺めるのも、新鮮で楽しい。


 自分の猫の相手をさせてしまって申し訳ない。

 初めはそう思ったものだけれど、やがてその必要はなくなった。


 大家さんは、八割くらい殿目当てで俺の部屋に来ている、ということがわかったからだ。


 殿はウザがりながらも遊んでもらえて満足しているし、大家さんは可愛い猫と遊べて嬉しそう。俺は仕事や創作活動に没頭できる。仮眠をとらせてもらうこともある。


 まさに、WinWinWinの関係ではなかろうか。


 ホラー映画を観て絶叫するのは、どうにか控えていただきたいところだけれど。


「ナァーン」


「はいはい。今日もそろそろ、大家さんが来るからね」


 約束しているわけではない。事前に連絡があるわけでもない。


 ほぼ毎日、適当に理由を付けて訪ねて来るので、どうせ今日も来るのだろう。


 そう思っていた。

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