ようこそ黒猫様
神庭
第1話 にぎやかな大家さん
……ああ。日付が変わっちまう。
狭い賃貸のボロアパートの一室で、今日も
“角部屋で日当たり良好”、“開放感抜群”、“癒しの眺望”。
かつてはそんな文言に浮かれていたこともあった。殊に、この部屋に引っ越してきた当初は、学生時代の友人を招いて自慢したものだ。
いい部屋見つけたじゃないかと口を揃えて褒めてくれる彼らに、狭いけどな、と苦笑しながら付け加えるのが、また楽しかった。
しかし今となっては、それらが本宮の生活に彩りをもたらすことはない。
ずいぶんと齢をとった。自分も、この建物も。
先日、箒で表を履いていた大家に訊ねたところ、今年で築三十五年になるという。
なるほど。本宮は納得した。三十年も経てば、人も土地も建物も様変わりする。
しかし、一番変わってしまったのは、本宮自身であろう。
先日、所属している部署の主任になった。
これといった功績はないものの、長く勤めてさえいれば、それなりの役職が回ってくる。
ただし、それは上司としての素質などまったく必要とされないポスト。刺激もやりがいもない。
我慢強く居座っていたらお鉢が回ってきた、というだけの話だ。
給料は若干上がったものの、その分ついて回る責任と忙しさはヒラ社員をやっていた頃とは比べ物にならない。
おかげで毎日この部屋に帰るのは、すっかり日が沈んでからだ。
日当たりが良かろうが、他の部屋より一枚多い窓から景色が眺望できようが、関係ない。
屋根があって、布団が敷けて、寝られればいいわけだ。
まだここまで忙しくない時に引っ越しを検討したこともあるが、なにが理由だったか、実現しなかった。結婚の話でもあればまた違ったかもしれないが、ここ二十年以上恋人すらいない。そんな元気もない。
毎晩風呂上がりに一杯やるのが、本宮の生活の唯一の楽しみだった。
必ず缶ビールを買う。発泡酒は買わない。メーカーの涙ぐましい努力でどれだけ味が良くなろうと、そこだけは譲れない。他に金の使いどころもない。
毛の生えた節くれだった指が、銀のプルトップを持ち上げる。
突然、天井の蛍光灯が明滅を始めた。
チラチラと耳障りな音がして、本宮は舌打ちした。
大小ふたつの輪があるうちの、大きいほうだった。
先月小さいほうが切れた時に一緒に買っておけば良かった。
めんどくせえ。
本宮はもう一度舌打ちする。
明滅音はやまない。
薄暗くなったせいか、部屋の空気が変わった。
淀んでいるように感じるのだ。
心なしか、湿度も高い。
じめじめして嫌な空気だった。陰湿という言葉がしっくりくる。
本宮は足元のカーペットに視線を落とした。
もう何年も敷きっぱなしで、ひどく汚れていた。
暗い照明のおかげで、より不潔に見える。
何かをこぼしたのだったか、それとも、生活しているうちに汗や脂がしみ込んだのか、広範囲にわたって黄ばみが発生していた。
本宮はカーペットの洗い方なんて知らない。汚れがひどくなったら捨てようと思っていて、そのまま忘れていた。
しかし、気になったのはカーペットの汚れではなかった。
ビールの缶を片手に持ったまま屈み、腰を曲げて顔を近付ける。
臭いは嗅がない方がいいだろう。
カーペットに向けて目を凝らすと、もとは白かった短毛の生地に、黒い毛が大量に絡みついていた。毛質と長さからして、髪の毛だろう。
空いている左手の指先で、引っ掻くようにして摘まみ上げる。
そこで本宮は、独り言を漏らした。
「長過ぎねえか?」
答える者はいない。
だが間違いなかった。
これは自分のものではない。おそらくは女の髪。太く硬質で、やや脂ぎった女の長い髪。
黄ばんだ分厚い爪の先で強く押すと、いとも簡単に折りぐせがついた。
女っぽくない、と本宮は思った。
ごわごわしている。
どうせ触れるなら、もっと繊細で柔らかい毛のほうが好みだ。
しかし、本宮には妻も娘も恋人もいない。この毛の持ち主など見当もつかない。
太い指に長い毛をくるくると巻き、力を込める。
しばしの抵抗のあと、ブチッという残酷な音がして、髪は千切れた。
ふと背後に視線を感じた。
振り返る。
誰もいない。
当然だ。本宮はこの部屋で、もう三十年もひとり暮らしをしている。
おまけに大の動物嫌い。猫一匹いるはずがなかった。
視線を前方に戻す。
今となっては珍しいブラウン管のテレビが一台置いてある。
画面はついていない。ずっとここに置いてあるだけで、飾りに等しい。
もうしばらく、ニュース番組すら見ていなかった。
湾曲した濃灰色の画面に、白いタンクトップを着た自分の姿と、その背後にある押入れの襖が映っている。
何の気なしに見つめながら、指に絡まる髪の毛を床の上に落とす。
また視線を感じた。
テレビ越しに見える押入れの引き戸が、少しだけ開いているのが気になった。
本宮はもう一度振り返った。
……なにかがおかしい。
押入れの前に立つ。
気持ちが悪かった。なにかが、戸の隙間から覗いているような気がした。
息をのみ、しばし迷ったあと、本宮は勢いよく押入れの戸を開け放った。
レール部分が劣化しているせいで、二度ほど引っ掛かりはしたが、押入れはなんとかその大きな口を開けた。
変わったものはとくにない。
すっかり変色した果物の段ボール、不用品ばかりを詰め込んだプラケース、使うあてもない来客用の布団などが、乱雑に詰め込まれているだけだ。
小さく息をつき、本宮は腫れぼったく充血した小さな目を細めた。
押入れの戸を閉める。
念のため、今度は隙間のないよう完全に閉めた。
途中、紐で束ねた雑誌が引っ掛かったが、蹴飛ばすようにして押し込んだ。
短く息をつく。
視線はまだ消えない。
「あンだよ、うるせェな!」
毒づいた彼の剥き出しの肩を、なにかが擦る。
軽い感触だった。
まるで尖った昆虫の足にでも触られたみたいな。
上から下へ。緩やかに、音もなく。
そして、それは床に落ちた。
本宮は再びカーペットに目をやった。
電球が切れかけているせいで、チカチカする。
長い髪が落ちていた。
ついさっき拾い上げて弄んでいたものではない。
新しく抜け落ちたばかりの、まっすぐな、黒くてやや脂ぎった髪の毛。
これが、彼の二の腕を掠めてカーペットの上に落ちたものの正体だ。
頭上を意識すると、生温かく湿った空気がゆっくり流れているのを感じた。
頭皮が僅かに濡れたような気がして、頭のてっぺんを拭う。
その手が何かに触れ、ぺちょ、という粘着性のある水音が響く。
誘われるようにして本宮は顔を上げた。そして絶句した。
息が掛かるほど近い場所に、逆さまの女の顔があった。
若いのか、老いているのか、わからない。
ただ女だとわかるだけの能面のような白い顔が、長い黒髪のカーテン包まれ、ぶら下がっていた。
虚ろに濁った闇色の目が、本宮を捉える。
そして……。
***
「あ゛ああああああああああああああああッ!!」
空気どころか、壁や家具や窓ガラスまでも震わせる、甲高い悲鳴が響き渡った。
しかも長い。
肺の中の空気をすべて吐き切るような勢いで続く絶叫。すごい肺活量だ。
皮膚に振動が伝わってくる。耳が痛い。
百デシベルくらいありそう。
ああもう、うるさい!
思いきって一喝したい。足音も荒く声の主に駆け寄って、口を塞ぎたい。
そんな思いは山々だったけれど、俺は唇をきつく引き結んで耐えた。
これ以上少しでも余計な音を立てようものなら、このボロアパートの飴細工並みに繊細な窓を崩壊させかねない。……冗談抜きで。
俺はひどい猫背のまま、作業用のローテーブルから身を引いた。
四つん這いになり、少し離れた場所に置かれたリモコンを目指す。
古ぼけた黄色い畳で、手のひらがちくちくした。
途中、絶叫の第二波。
思わず顔をしかめる。
そんな叫ぶところだった? 今の。
画面をチラ見しながら――やっぱりよくわからない――俺は長い腕を伸ばし、シリコーンゴムの赤いキーを力いっぱい押し込んだ。
ほぼ同時に、狭い部屋の中が静まり返る。
忘れた頃に鳴り出す、強力な目覚まし時計。
あれを、大至急部屋に駆け戻って止めた時みたいな安心感だった。ため息がこぼれる。
「あーっ、勝手に消すなよ!」
すぐ近く、前方で抗議の声が上がる。
顔を上げると、赤い座布団の上に三角座りをした青年が、床に片手をついてこちらを振り返っていた。
角ばったアンダーリムフレームの向こう、黒い大粒の瞳が恨めしそうに俺を睨んでいる。
いやいや。
「あんたね、ここが賃貸だってこと忘れてません?」
「はあ? 忘れるもんかよ。俺を誰だと思ってんの? ここの大家さんだぞ」
青年こと大家さんは、大きく胸を張って親指で自らを指し示す。
俺は宥めるように二度頷いた。
「じゃあ、もうちょっと静かにしましょう。ほら、彼もびっくりして隠れちゃいましたよ」
唇に人差し指を当てながら、液晶テレビの真後ろにある押入れに視線を流す。
大家さんはあっと大きく口を開けると、立ち上がってそちらに駆け寄った。
押入れのふすまには、人間の大人の頭が通れる程度の隙間がある。
彼はそこに頭を突っ込んで、中を覗き込んだ。
「ああ~、ごめん。びっくりしたな、殿」
殿、というのは、俺が飼っている黒猫の名前だ。
殿様の、殿。フルネームは、
さっきまで、俺が懸命にキーボードを叩く食事兼作業用テーブルの上で、俺にお尻を向けて大家さんと一緒に映画を観賞していた。
しかし大家さんが突然大声を出したので、驚いて押入れの中に入ってしまったのである。
「殿ー。おーい、殿」
「出て来ませんか」
「来ません」
「じゃあ諦めてください。猫は大声を出す人が嫌いなんですよ」
肩まで突っ込んで殿を呼んでいた大家さんが、不服そうにこちらを振り返る。
日焼けしていない真っ白な頬が風船のように膨らんで、今にも破裂しそうだ。
この人、いったいいくつなんだろう。
未成年ではないはずだが、やや小柄で細身の体型であること、中性的な童顔であることに加えて、この子供っぽい振る舞いを見ていると、十代だと言っても十分に通用するように思う。
「っていうか、なんでわざわざ俺の部屋に来て、変な映画観てるんです?」
「なんでって、あんなモンひとりで観たら夜眠れないだろ」
信じられない、という顔をして俺の顔を見上げてくる。
その非難めいた眼差しが、俺が遊びの最中に猫じゃらしを放棄した時の殿に似ているものだから、なんだか憎めない。
だからって、毎日部屋に入り浸るのは――どうなんだろう。
特段困ることはないけれど、貸主と借主の関係としては、ちょっとおかしいような気がする。
「じゃあ観なきゃいいでしょ。怖がりなんだから」
昨日なんて、どこから仕入れてきたのか、発禁モノのサイコホラーを見てビビりまくっていた。
挙動不審の態度が殿の逆鱗に触れ、顔面を引っ掻かれて流血。
少し長めの前髪で隠れた額には、今も鮮やかな赤の一閃が刻まれているだろう。
「けちけちすんなよ。つーか石上、おまえ。いくらこの部屋がボロ屋つったってさあ、敷金はゼロ、礼金もゼロ、光熱費に加えてインターネット代込み、殿も一緒に住めて初期費用もサービス。さらに楽しいオトモダチまでついてきて、家賃がなんと月一万五千円。とんでもない破格だと思うんだけど?」
なにも言い返せない。
俺には今、お金の余裕がない。
理由はシンプル。
会社員じゃなくなったから。
今から約三年前のことである。
俺は勤めていたブラック企業を辞めて、実家に帰った。
次の展望があったわけではない。ただ、身も心もボロボロだった。
既に“ちょっとひと休み”という段階ではなく、限界だった。
丸一年の寝た切り生活とヒキコモリ期を経て、俺はなんとか家事やちょっとしたパソコン作業が出来るまでには回復した。
そこから半年、実家で家事をしながら、パソコンを使ってチマチマとアルバイト。
ニートなのかフリーターなのかわからない生活を送っていた。
両親は俺を追い出そうとはしなかったが、いたたまれない気持ちはやはりあった。
そんな状態で、今度は年の離れた妹までもが帰ってきた。
男絡みでかなり悲惨な目に遭ったらしく、俺と同等かそれ以上に精神を蝕まれていた。
俺は家全体に広がる病みオーラと、肩身の狭さに耐え切れず、金もないのに無理矢理家を飛び出した。
殿のことは、実家に置いてくるしかないと思っていた。
でも、初めて大家さんに連絡を取った時、それじゃダメだと言われた。
絶対に連れて来い。
命じられるがまま、俺は殿と一緒にこの部屋に引っ越して来た。
毎月カツカツではあるけれど、殿と一緒に暮らせることは、今の俺の生きる希望であり喜びだ。
しかも大家さんは、時折差し入れを持ってきてくれたり、殿の世話を手伝ってくれたりする。
正直なところ、かなり助かっているのは間違いない。
「大家さんには、いつも本当に感謝しております……」
「いいっていいって。俺も殿に会いたいし。またいつでも来てやるぜ」
「……え?」
いったい何に感謝していると思われているのか。
些細な疑問が生じたものの、俺は大人しく従うことにして、微笑んだ。
「ところで、なんなんですか、その映画。……コメディ?」
「はあ? だれがどう見たってホラーだろ。あのきったねえ部屋とか、モノが引っ掛かって閉まらない押入れとか、リアルじゃない?」
「確かに、まるでこのアパートみたいな部屋でしたけど」
ちなみに俺の部屋はあんなに汚くない。
殿がいるので猫毛は常に舞っているけれど、こまめに掃除機をかけているし、週三回は拭き掃除もするし、毎朝窓を開けて換気だって忘れない。
なお、畳がボロくて汚いのは、金銭的な都合で入居前に張り替えることが出来なかったためだ。
目に見えない虫が潜んでいるような気がして、ちょっと怖い。
「失礼だな。うちはまだ築三十二年だ。あんなボロ屋と一緒にしないでもらいたい」
そう言って、大家さんは小鼻を膨らます。
ボロ屋はボロ屋、どんぐりの背比べにしか見えないけれど、もはや突っ込む気も起きなかった。
俺はリモコンを手に持ったまま、のそのそとテーブルの前に帰る。
早く続きを書かなければいけない。気を取られている場合ではない。
パソコンのモニタに視線を戻す。
……なんだこれ。ひどい文章だな。
ため息をつきながら、汗をかいたグラスに手を伸ばした。
麦茶はすっかり温くなっていて、表面に殿の毛が浮いている。
「……」
だめだ。
集中力が旅に出た。
大家さんの絶叫で切れたという話ではなく、単に俺にやる気がない。
初夏の暑さのせいか、ぼんやりする。
大家さんがうるさいのは、たぶんそのせい。
彼は一見、空気が読める人には見えない。
でも不思議なことに、本気の仕事モードを邪魔されたことは一度もない。
うるさいのは大抵、俺が作業を中断する口実を求めているとき。
疲れた。限界。もう一文字も浮かばない。邪魔されたことにして、一息つきたい。
そんなあさましい欲望が、彼にはありありと伝わっている――というのは、俺の考え過ぎだろうか?
どうであれ、せっかくお邪魔虫の体でいてくれている。
ちょっとだけ、八つ当たりをさせてもらおう。
「それはいいですけど、主人公の頭がツルツルなのに、絨毯に無数の髪の毛って……やっぱり皮肉の利いたギャグとしか……」
観ていた映画をディスることが八つ当たりに該当するのかは謎だが、
「だからホラーだって!」
しっかりと怒っているので、よしとしよう。
押入れから殿を出すことを諦めた大家さんは、ふすまに寄り掛かってこちらを見る。
正確にいうと、俺の目の前にあるノートパソコンの背、もっというと、このパソコンに入っているデータそのものに視線を注いでいるようだ。
「石上は作家志望なんだろ。ちょっとはネタになるんじゃないの」
「そうですけど……ひょっとして、俺のために?」
「ううん。俺が観たいだけ」
他人の優しさというものにちょっと期待しかけた俺の心は、バッサリと切り捨てられた。
たぶん微妙な表情を浮かべている俺の脇を通り抜け、
「そろそろ帰るわ」
居間の出口で大家さんが手を上げた。
目をしょぼつかせている。眠いのだろう。
「え。ああ、はい……ありがとうございました」
「なにが?」
大家さんが笑う。
自分でもさっぱりわからない。
会社勤めの頃のくせ、だとしか言えない。
俺も笑顔を返した。
いつものことだった。
大家さんは俺から視線をはずした。
俺が答えを用意できないことに気付き、このやりとりにすっかり興味を失ったようだ。
一度玄関の方を向き、それから、
「あ」
なにか思い出したように、俺のほうへ身体を向けた。
ボキボキと腰の骨が鳴る。
いてて、と呟く声がおっさんくさい。
「なんですか?」
「殿の健康にだけは、くれぐれも気を付けろよ」
「はい。了解です」
俺の健康はどうでもいいのかと思いつつ、俺は立ち上がって笑顔で彼を見送った。
相変わらず下僕根性が板についている。
強気に出られると、つい従ってしまう。
上司、同僚、家族、友人。
だれにでも同じだ。ちょっと情けない。
作業用の定位置に戻って、静かにため息をついた。
嫌な気持ちではなかった。
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