2-4
「ああもう! アイツは一体何なのよ!」
細腕の拳が床を強かに打つ。見た目に反して一撃は重く、衝撃はミシミシと部屋中に広がった。
「ふーっ……ふーっ……」
ここ一年でもう何度叩いた事か、殴りつけた箇所は他に比べ明らかにへこんでいる。決して広くは無い個室、埋め尽くす資料の自重が加わるとこの点を中心に抜けてしまうかもしれない。
「はぁ――その時はあの魔人様が修繕してくれるのかしらね」
女の自分の力でそんな事出来るはずない幼稚な妄想だと切り捨てるとスイセンは頭を冷やすべく外の空気を吸いに縁側に立った。
「……」
日の光が没する
「……」
はずだったのだが、ここ数日スイセンの心は乱れていた。
ギリリ……と歯ぎしりが鳴る。神殿の誰にも見せられないはしたない彼女の癖。不満の感情が爆発する度に抑え込んでいたそれを解放できるのは、収めの作業で周囲に人気の無いこの時間帯のみ。
「あんなもの……」
スイセンは再び歯を鳴らすと、自身を怒らせる存在を見上げた。
兜をかぶった禰宜装束の巨体。無感動な表情で村を見下ろす魔人は西日を受けると満足げに頬を染めているように見える。その様子がユーリーと重なるとまた一段と強く歯が鳴った。
魔人は何故アイツを選んだのか。それが彼女を苛む疑問である。
確かにアイツ程魔人を信仰している存在はいない。アイツが落ち込むと決まって西に向かって祈っていたもの――スイセンにはユーリーの姿をありありと思い浮かべることが出来た。村で目覚めたときの子犬のように震える瞳。村に馴染めずに農夫や子供にまでおどおどと口ごもる様子。とりわけアキレア達を見るときは目を合わせまいと視線が泳ぎ、ガンを飛ばされた時の驚き様は最高だ。だけど――お告げを受ける時だけは神懸かりを起こしたように言葉を紡ぎ、正確無比に未来を予言する……。
「……」
魔人が跪き、胎内からユーリーが降り立つ。そこには普段他者からの影響で不安定に揺れる表情は無い。落陽の輝きを上書きするほどの内からの充実。彼女から満足げなため息が漏れ出ると――
「ギリリ……ッ――」
よく奥歯が欠けない。そう自嘲しながらスイセンは、自分がいつの間にかつてのユーリーのような不安を浮かべている事に腹が立つ。
彼女とてユーリーの能力を評価していないわけでは無い。人々が巫女に求めるのは情報の正確さであり、神樹の忠実なる端末である事。役立つ情報を与えてくれるのであれば極論巫女は誰でもいいのだ。大巫女の座が世襲制出ないのはそのため。ここ数代は世襲による文字教育が功を奏しているだけで、自分が追い付けなければユーリーが大巫女になるのは間違いない。それ自体は公平な事だとスイセンは割り切っている。
だからと言って納得できないのが人情である。魔人が自分を選ばなかった。それはいい。最悪それは認めよう。でも、だったらどうして大巫女を、おばあさまを選ばなかったのか⁉ 彼女の能力はユーリーと互角で、だったら今まで村に貢献してきた分あの人の方が優れている。
「それなのに……」
ツゲが魔人に乗り込み、無反応を示された時の表情は安堵に満ちたものだった。巨大竜の夜に村人に取り囲まれた時と同じ、諦めたような解放されたような悟り。「もう思い残すことは無い」と双眸は雄弁に物語っていた。
「それじゃあ私は何なのよ……」
生まれる前に父親を病で失い、母親は自分を生んだことが原因で亡くなった。そんなスイセンにとって祖母で大巫女のツゲは全てであり、彼女に追いつくためにここまで努力を重ねてきた。
そんな憧れてきた祖母の望みが「終焉」である事を知ると、スイセンは何もかもが急にバカバカしくなってきた。自分がして来た事は祖母の役目を奪って、引導を渡す事だったのだろうか。自分はただ、たった一人の家族を助けたい一心で頑張って来たのに……。
だったら、せめて始末くらいは自分の手で付けたかった。亡くなった母の分も自分が懸命に生きている姿を、大巫女になった姿をスイセンは心の底からツゲに見せたかった。
だがツゲがスイセンに向く事は無い。祖母の視線はユーリーを見つめ、彼女によってすべて壊される事を望んでいる……。
「ギリリッ――」
せめて魔人さえ、魔人さえ扱うことが出来れば……。ユーリーは魔人をもっぱら平和に扱っているようだが、スイセンはその本質が「圧倒的な力」であると考察していた。膂力に火炎はもちろん、大きいと言うだけで人はそれに圧倒される。ちょうど巨大竜の存在に怯えきった村人たちのようにだ。
終わりが欲しいなら……私が魔人で周辺の村もろとも何もかも焼き尽くしてやる――
「はぁ……くっだらない」
「お~辛気臭い顔してんじゃんよー」
嫌味に陽気な声にスイセンは向く。
「よ!」
そこにはアキレアの姿があった。彼は徳利の中身を飲みながらよろよろとスイセンの下へ近づいてゆく。
「……何よ」
スイセンは鼻をつまみながらシッシと手を払う。職業柄お神酒を扱う彼女はアルコールに慣れているつもりだが、戦士たちが好んで飲む竜の血を混ぜたそれは苦手だった。滋養があるらしいのだが、生臭いそれは清廉な雰囲気を誇る神殿を汚してしまうようで馴染めないのである。
「何って愛しの婚約者が暇しているかと思ってね。夜のお告げついでに喋りに来たのさ」
そう言うとアキレアは「土産だぜ」と大量の干し肉を彼女に渡した。
竜の干し肉は村でポピュラーな保存食だ。これだけ食べれば体は頑丈になり、病気もしなくなる。神に使える立場上、穢れを孕む食肉は厳禁なのだが……スイセンは母のようになるまいと隠れて肉を食べていた。病気がちだった彼女がここまで丈夫に育ったのは竜の肉のおかげであり、それを融通するアキレアのおかげである。
彼女がアキレアと出会ったのは四年前、一二歳の部族間交流会の時である。メイズの村では階級間の緊張を防ぐために、婚姻は異なる階級同士で行う習わしだった。スイセンは結婚するならパッとしない神職の子供に、イモ臭い農夫の子供に興味は無く、活発な戦士の子供が良いと思っていた。彼女の父も戦士階級であり、病さえなければ絶後の技を持っていたらしい。
そんなませた少女が見つけたのがアキレアだった。一二歳の成長期を迎え、当時から大人と見まがうほどの体格を誇っていた彼。スイセンの審美眼は正しく、アキレアは四年の間に技に磨きをかけ、今では歴戦の戦士も一目置く精鋭にまで成長した。
野心を抱えるもの同士が惹かれ合うのは自然なことであり、相性もよく、婚約者にまで関係が進むのは必然だったと言える。
「婚約者の顔を立てるならお告げ前に飲酒しないで。そんな臭いで神お告げの間に入るのは不敬じゃない?」
「別に誰もそんな事気にしないよ。大巫女は耄碌して村人を観てねえし、サザンカはお告げの内容にしか興味が無い。
そう言うとアキレアはいきなり徳利を傾け始めた。丸のみする勢いで中身を飲み干し「ぷはー」と酒気をまき散らす。スイセンはアキレアの野性的な所は好みだったが、飲酒で粗暴になる面はむしろ嫌いであり袖口で口元を覆っては顔を顰める。
「あまり神殿を冒涜するようだったら巫女見習いの権限で追い出してもいいのよ」
「まぁそう怒るなって。各階級間では不満があるなら行動を起こすのだって自由なはずだろう? とりわけ、あの余所者が顔をデカくしている状況とかな」
俺は階級を代表しているに過ぎないのさ――言い切るとアキレアは千鳥足を止めギロりと神樹を睨みつける。先ほどまでの酔った姿はポーズであり、酒気は殺気の前で霧散してしまった。戦士たちが竜退治で浮かべる睨み、混じりけの無い闘気を不意に浴びて足元がよろける。
「おっとあぶねえ」
すかさず彼の腕がスイセンの肩を抱き寄せる。
「……!」
神に仕える身としては、正式に婚姻を果たしていないのに異性の肉体に触れるのは外聞が悪い。人が見ていないからといって普段の生真面目な彼女であればすぐにでも腕の中から脱出していた。
私は……単純だ……――ストレスがそうさせるのか、弱ったスイセンは少しの間だけならアキレアのたくましい肉体に抱かれていてもいいのではと甘えていた。一見粗暴なようでいて、アキレアは驚くほど視野が広い。どんな物事も自分でぶつかって良し悪しを判断し、その解決も身一つで解決する。さっきだって真っ先に自分に手を伸ばしてくれた。自分はそんな彼の男らしさ・父性にも惹かれたのだろうと惚けていた。
「……魔人の件、何とかなるかもしれないぜ」
「……本当に?」
「今まで俺が嘘をついてきたか?」
「………………」
スイセンはアキレアとの日々を振り返る。先日の巨大竜の一件を除けば、少なくとも彼が戦士としての行動で約束を違えた事は無い。口先で偽りを操る事もある神職と異なり、戦士の潔い行動の方が信頼に足ると思ってしまうのは流石に肩入れし過ぎだろうか。
「……別にどうでもいいけど、やってみれば。その方が、少なくとも退屈しないわね」
「お前本当に素直じゃねえのな」
「うっさい!」
少女の手が抱かれた腕を叩く。男に痛みは無い。音こそ派手だが手つきが温もりを求めるようにそっと置かれるように変わると彼もまた彼女の温度を感じ始めたのだった。
「それで? 具体的にはどうするわけ? 巨大竜を倒せなかったアンタたちが魔人を相手に勝てるだなんて思えないんだけど」
「その辺は俺に考えがある。お前は俺からの吉報をここで待っていればいいのさ」
太陽が地平線に沈み切る前の一瞬の輝き。帳が閉じきる前に二人はくちづけを交わした。
村に再びの嵐が訪れる。それはたった二つの悪意から始まろうとしていた。
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