1-5
村の夜は早い。日が沈み、夕餉を終えると人々はすぐ布団に入る。とりわけ今日は日没と共に大雨が降っているのだから外で何かをする事が難しい。篝火などすぐに消えてしまうだろうし、だれも好き好んで濡れ鼠になろうだなんて思わない。
ユーリーもまた女官の雑居部屋の隅で瞼を閉じようと努力していた。同室の女たちは糸の切れた人形のように、僅かばかりの寝息を立てるだけで微動だにしない。その様子を見て「もしかしたら死んでいるんじゃ……」と、隣の女官を揺り起こそうとした古い記憶がよみがえる。
女官が特別そうなのでは無く、村人の多くが死んだようにぐっすりと寝ているだけだった。部屋を抜け出し、神殿、村と夜の散歩する中で得た知識だ。この時間でも起きているのは神殿では神の文字の習熟に努めるスイセンと、竜の解体作業に追われる戦士達くらい。肉は鮮度が命らしく、血抜きなどの下処理で保存の具合が変わるとか。
村の夜は火が無くともそこまで暗いものでは無い。見上げるとそこには満天の星空があり、それは野良仕事に向くほどの明度は与えてくれないものの、村の輪郭を照らしてくれる。
村の人々は星にあまり興味が無いらしい。日が沈めば寝る物でそもそも星を見ないし、「それが何の役に立つのか?」と見向きもしない。
だからなのか、ユーリーは星を見上げることが好きだった。周囲に誰もおらず、視界いっぱいに広がる絶景を思いっきり見上げることが出来る。日頃うつむいていて凝った首をほぐせる事もあって、床につく前の至福のひと時なのだったが――
「……はぁ……」
耳に入るのは大粒の雨音ばかり。お告げにあった大雨は予想以上の豪雨らしくこれだけの雨量は彼女も村にやってきて初めての経験だった。
狭い雑居房であるから冷える事は無いが、木造の建物が雨をしみこませるたびに猛烈な湿気が屋内を襲う。掛け布団がじめじめしだして来た所で彼女はそれをはねのけ、さらなる湿度から逃れるために床に直に身を横たえる。
よくもまあこんな寝苦しい環境でぐっすりと……大粒の汗をかきながら、それでも微動だにしない女官たちを羨ましく思いつつ、彼女は部屋の外へと抜け出した。
とにかくジメジメから逃れたい。どうせ誰も見ていないし、朝は散歩に出かけるし、縁側で寝ていても咎められる事は無いだろう。湿る足元を不快に思いながらもユーリーは風通しのいい場所を目指して進む。
「…………――⁉」
雨音に……僅かばかり悲鳴が混じったような――尋常ならざる事態に彼女は身構える。自分以外に誰かが起きている、それだけで普通じゃないのにましてや今は豪雨まで。いや、普通じゃないからこそ事を起こせるのだろうか。村の長い歴史の中でめったには起こらないが、神殿に盗みが入る事例がある。
万が一の事態に備えてユーリーは拳を握った。身体能力で村人に敵うとは思えないが、自分も祭祀階級の端くれ、事件ならばそれに対応する義務がある。
「………………」
音のする方向へ一歩、また一歩近づいてゆく。どうやら悲鳴は建物の内側では無く外から聞こえるようだ。奇しくも自身が目指していた縁側へ、べたつく足を引きずりながら意を決して外へ――
「……⁉ これって――」
「助けてくれ‼」
ユーリーを認めると、雨音をかき消すように村人の一人が叫び出した。そしてそれに続くように老若男女の悲鳴が上がる。
「神樹の加護を!」
「畑が……水田が……」
「どうか子供だけでも、子供たちだけでも――」
神殿の前に並ぶのは一人や二人では無い。村の農業階級の人々は全ているのではないか。全員着の身着のまま、衣服がはだけた者や、転んでついた泥をそのままにしている者もいる。子供たちは寝ぼけ眼をこすり、何が起きたのか分からない様子で大人たちの狼狽を見て怯えきっている。
「ちょっと……一体どういうことなんですか⁉」
ユーリーが驚く間にも詰め寄る村人の数は続々と増えてゆく。敷地が悲鳴で埋め尽くされる頃には、さすがに神官たちも何事かと目を覚まし、彼女の前へと割って入っていく。
「この場所は神樹の御前、夜中にそんな格好で押しかけるなんて無礼ではないか!」
「俺達がやって来るまでスヤスヤしていたくせにデカい顔をするな! 危険を知らせに来たことに感謝しろ!」
「明日もお勤めで早いのになんなのですか⁉」
「畑の方はもう安全じゃないんです! ここも時期に襲われます!」
「ねえおかあちゃん……ここどこ……?」
「大丈夫よ坊や……神樹に魔人様が守って下さるから……だから……」
疲労と、怒りと……何より恐怖の感情が人間の体面を崩し、それは波となって吹き荒れる。この場に居合わせた誰ひとり理性的に状況を説明できるとは思えない。
「……あれ?」
ユーリーはこの場に最も感情をさらけ出すことが得意な人々がいない事に気が付いた。
「戦士たちは……皆さんを守るはずの戦士たちはいないんですか⁉」
「……」「……」「……」
彼女の言葉に喧騒が少しだけ収まる。二の句を継ごうとするも、誰もが奥歯に何か挟まったかように言葉を探している。
「……戦士たちは……駄目かもしれない」
口を開いたのはサザンカだった。
ユーリーはこの場にサザンカがいる事を意外に思った。普段の彼であれば災害が発生しても田畑の事を心配して現場に向かうはずだった。しかしながら、彼の両脇には妻と子供たちがしっかりと抱え込まれており、その瞳に仕事は映っていない。そこにあるのはこの場の全員が持つ恐怖と、家族の安全を願う親心――
「……村に、竜の群れが現れた――」
「殺せーーーーーー!!!」
「一匹たりとも入れさせるな!」
「戦士の誇りを見せろ‼」
村境で戦士達が咆える。鉄器に石器、それぞれが得意とする得物を手に迫る脅威を眼前に士気を高めている。その
「グルルルルル……」
彼らの眼前に現れたのは一頭の……巨大な竜――
今日は殺しすぎたか……。アキレアは状況のマズさに舌打ちをするもマイナス思考を切り捨て再びウォークライを続ける。
「グルルルルル……」
地鳴りを思わせる唸りを上げると竜は戦士達一人一人を見下ろして舌なめずりをする。
現れたのは一〇メートルを優に超える超大型の竜だった。尾を含めればその全長は二〇メートルはあるだろう。未知の脅威を目の前に、それでも戦士たちは怯える事をしないのだが、対する竜は「コバエがはしゃいでいるわ」と余裕気に睨む。
竜は湿気を好む。これは竜を狩る戦士の常識で、普段彼らは竜を挑発しては水源から乾いた陸地へ誘導し、弱った所で襲い掛かるという生態を利用した狩りを行っていた。
ところが現状はこの豪雨、陸地全体が豊富な水源であると言っていい。竜の鱗は大粒の雨を吸収しては毒々しい紫色を深く染めている。
加えてこの体格である。長さが二倍であれば、全身の肉は五メートル級の四倍以上はある。その肉密度から放たれる運動エネルギーもまた何倍になるだろうか。
それは仲間の血の匂いを嗅いで村まで引き寄せられたのだろうか。村が始まって以来観測された竜のサイズ、その最大は五メートル級であり、それを狩った者こそ「真の戦士」として認められるのが慣例だった。もっとも、一メートル級だろうが竜が危険なことに変わりなく、どんな狩も集団で確実に行うことが現代の戦士、アキレア達の戦略だったのだが――
これは全員で襲い掛かっても厳しいぞ――この場にいる三〇人の戦士総出で飛びかかれば、少なくとも外見上相手を覆うことはできるかもしれない。しかし、いくら戦士が村の精鋭と言えど実力差が分からない程愚かでは無い。
「「「オアアアアアアアアアアアアアア!!!」」」
「グルァアアアアアアアアアアアアアア!!!」
だからと言って逃げる訳にはいかない。数十年来ご無沙汰だった対人を想定しての村境防衛のお役目、その相手が竜に変わっただけで自分達がやることは変わらない。むしろ竜退治であれば自分達がもう何年もやって来た事だ。
口にするのは恐怖の代わりに己を鼓舞する
「殺せーーーーーー!!!――」
サザンカと畑に出ていた数人の農夫たちは、伝令役の戦士からの窮状と巨大竜の唸り声を聞いたことでようやく逃げる決心が出来た。
最も、神殿が安全だという保障も無い。伝令役の彼は農業階級の人々の殿を務め、見送りが終わると自身も村境へ応援に出かけてしまった。この場に戦士階級の人間もいるが、退役して土いじりに精を出す者に女子供しかいない。神殿には真に戦える能力を磨いてきた人間が一人もいないのだ。
その事を自覚しているからこそ人々は恐怖し、焦る。あんな化け物相手に勝てるわけが無い。負の感情は冷静である事を常とする神官たちにも浸透しはじめ今やだれもがパニックに支配されようとしている。
「騒がしい! 何事か!」
雨と人間が生み出す湿気の中、神殿の奥より巫女服から乾いた音をなびかせてツゲと孫娘のスイセンが現れる。
「皆さん、お静かに。大巫女の御前です。頭を下げなさい」
「……っ」
スイセンが静かに口を開くと、祖母譲りの睨みに呑まれたのか人々はゆっくりと並んで跪き始める。伝統がなせる技。ユーリーもスイセンに圧倒されて二人に向けて頭を下げる。
「ゴホン……話は大体聞き取れた。それで、村の危機が迫っているということじゃったな」
「ははぁ……。そうなのです。つきましてはお告げの力で村を助けていただきたく……」
農夫、戦士、神官、女たちに子供……全員の視線がツゲへと注がれる。大巫女であれば、神の言葉さえあればすべてが解決する。人々の目にはそのような期待で溢れていた。
「そうか……」
「……」「……」「……」
人々は黙って続く言葉を待った。豪雨がもたらす重苦しい闇、体をいやおうなしに冷やす雨粒の塊、地鳴りのように響き続ける雨音。それらが意識から消え、悟りが開けるのではと感じ始めた頃――
「あの……大巫女様、それで『そうか……』とは一体……?」
「……ん? 言葉のままの意味じゃが……」
雨は不愉快にも降り続けている。ツゲのそっけない言葉から一つの考えに思い当たり、人々の頭が冷え切ると――
「まさか……」
「儂は今までお前たちに語って来たはずじゃ。神樹が生み出して来たこの世の始まりと終わり。全ての物が不変に存在し続けることなどありえない数々の物語を」
「……!」
「……!」
「……!」
「「「――――――――‼」」」
爆発寸前だった恐怖は、期待を裏切られたことで怒りに変換され、あらゆる怒声が大巫女へとぶつけられる。
ツゲの言うことも分からないでもない。死とはこの世で絶対の法則であり、これを覆す事は出来ない。かつて神樹の周辺にはメイズ以外にも村があったが、時代の移り変わりと共に今では二、三残すばかり。物事に始まりがあれば終わりもある。当たり前の事実だ。
だがしかし、この窮状で必要なのはこの世の真理に理解を示す事などでは無く、生き延びるための方策である。
「皆さん、お静かに‼ 落ち着いて――」
巫女見習いのプライドがそうさせるのか、スイセンはその場を収めようと気丈にも声を張る。しかし人々の怒号が止む事は無い。神官たちですらスイセンを助けずに失望のまなざしを老婆に向けた。神に仕える人間に対してふさわしくない言葉が投げつけられても、それは自分達には関係ないと言わんばかりの傍観。神殿が機能を失った瞬間である。
何のために俺たちは頭でっかちなお前たちを養って来たと思っているんだ! うるさい! 手を動かすことしか知らない人間に細やかな気遣いが必要な交渉が出来るか! 俺があと一〇年は若ければ……。怖いよ……怖いよ……。大丈夫、坊やだけは私が……――
「おばあさま、お願いします! 何かこの場を鎮めるお言葉を――」
雷鳴も混ざり、ありとあらゆる種類の音が弾ける中、それでもスイセンは祖母であれば事態を収められるのではと己を奮い立たせる。
「……」
だがどれだけ願おうとツゲは無言だった。むしろこの場の誰よりも穏やかな表情を浮かべていると言ってもいい。全てを受け入れる悟りの境地。どのような状況においても冷静さを保てるからこそ、七〇を超えるはずの老婆が村を治めることが出来たと言うべきか。
「お願いします……畑も、いや妻と子供だけでも……何とか」
「俺はまだ……死にたくない……」
「どうか子供だけでも……」
ツゲの態度に感化され、怒りは哀願へとトーンを落としてゆく。破滅を回避できないとしても、それでも生きたいのが人間の本能だった。
「……――」
誰もが黙って彼女の視線を追う。ツゲは一つ頷くと――視線をユーリーへと向けた。
「……え」
それはユーリー自身の言葉であり、ツゲを除く全員の総意でもある。村の危機になぜ
「え……待って……」
「……」「……」「……」
無言の視線が彼女へと突き刺さる。顔、顔、顔……村人そこには「失望」が浮かんでいる。
村人にとってユーリーはお告げの翻訳者であり、それ以上の価値は無い。神の言葉の習熟度はツゲ並みで、それは評価に値する点だが――大巫女だって習熟を繰り返すことでその境地に達したのだから、時間さえあればスイセンとてそれなりの翻訳者に成れる。訓練が必要な特殊な技能と言えど、大巫女とは今となっては極端な話替えの利く存在だった。
「……」「……」「……」
「……っ」
「……」「……」「……」
「…………っ――」
己を貫く絶望の視線に耐え切れず、ユーリーはその場を逃げ出した。後から感情の爆発が聴こえだすもそれを振り切るようにぬかるんだ道のりを必死で駆けだす。
大巫女様は私に一体何を期待しているんだろう。私はただの余所者なのに――
ユーリーは首元に掲げられた鏡を掴み、お告げを受け取れないか祈った。しかし、鏡は光らず文字も映さない。お告げは村人の生活サイクルと連動しており、分鏡がもたらすものは朝と夜の間に限られている。神器は彼女の温もりを奪い、しずくに濡れそぼるばかりだ。
丈が合わないとはいえ巫女服は袖の幅が広い。余った布が張り付き、跳ねた泥を吸い、彼女の思考同様にグチャグチャに染まって行く。
「私に……私に……っ、何が出来るの!――」
巫女としての能力があるにも関わらず、ユーリーがツゲ程でないにしろ状況をどこか引いて見ることが出来るのは良くも悪くも余所者意識のおかげである。
竜の異様は余所者だからこそより恐怖を感じられる。伝聞だろうとそれだけの大きさの物が迫ってくれば結論は大巫女が下した通りになると想像に難くない。
ユーリーとて死ぬのは怖い。村に馴染めず、たった独りで、自分が何者か分からないまま人生を終える。とりわけ後者は彼女にとって耐えがたい苦痛だ。記憶の無い彼女だからこそ過去、もしくは未来における自身をそうたらしめる何かを必要としている。
ただ生きるよりも、何か意味のある死が欲しい――
「はぁ……はぁ……はぁ……」
夜間の散歩の経験から夜目にはそれなりに慣れている。ユーリーは神樹のふもと、魔人像の前にたどり着くとその足元に倒れ込んだ。
彼女がそこを選んだ事に特別な意味は無い。ただ自身を埋めるのであれば村で最も親しみを覚える存在の側がいいというありふれた感傷だ。
「……んっ」
濡れそぼった体を引きずりながら、ユーリーは魔人像へとさらに寄り、その身に触れる。
脇に追いやられた存在と言えど、それはご神体であり、丁重に扱うべき存在。神職という身分であれば尚更、泥まみれの手で触れていいはずの物では無い。
けれどそんな事今のユーリーには関係が無かった。泥程度どうせ雨が洗い落としてくれるだろうし、ひょっとしたら魔人像を登りきれば竜の脅威から逃れられるかもしれない。
「……んんっ」
木肌は雨によって滑りやすくなっているものの、掴めなくは無い。村人程の運動能力が無いことを恨めしく思いながら彼女は懸命に登って行く。
雷鳴で一瞬空が白む。自分を見下ろす魔人の御尊顔、彼女の脳裏に神殿での親子の姿が思い浮かんだ。
「大丈夫よ坊や……神樹に魔人様が守って下さるから……だから……」
「はぁ……はぁ……――なら……」
再びの雷鳴。神樹の側面に落ちたのか光は魔人と彼女の両者をくっきりと浮かび上がらせる。
「魔人様……なら……――」
両者の視線が交差する。魔人の温かなまなざし、それを睨みつけるようにユーリーの瞳が見開かれる。
「私を……人間を救ってみせなさいよ――――――!!!」
一つ、また一つと手を伸ばす。魔人像を這いあがり、互いの顔がぶつかり合おうとしたその瞬間――
「‼――」
特大の稲光が天を焼く。神樹を直撃したのか幹は魔人像ごとその身を震わせる。
「あ――」
ユーリーを振り落とすのに大きな力は要らなかったのかもしれない。意地だけでたどり着いた旅路の果て、豪雨とぬかるみとクライミングで彼女の体力は限界だった。
指先が滑ると共に集中が切れる。後はただ燃え尽きるように落下するだけ。
この終わりに不満は無い。竜に生きたまま食われるよりも、一瞬で楽になれるなら……。再びの閃光。ユーリーが最期に見たのは雨に濡れる魔人の頬だった――
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