1-1
ユーリーが生活に覚える感情は「不安」が大半を占める。
「……ふぁー……」
気の抜けたあくびと共に目覚めるも、全身にはすでに緊張がみなぎっていた。
「……」
同室の同僚たちを起こさないように、できるだけ音を立てずに寝床を出る。早朝の人気の無い廊下は冷えており、木目の冷たさに顔を顰めつつもユーリーは脱衣所を目指す。
「………………はぁ」
袖が広い巫女装束。その造りに不満は無い。とりわけユーリーが普段目覚める時間は肌寒く、布の面積が大きいほどありがたい。しかしながら、その衣装はユーリーにとっては丈が一回り小さい。下にはく真っ赤な袴は尚更。他の巫女が足元を隠せるのに自分はくるぶしより上が出てしまう。
こんな所にも自分が「違う」ことが――
ユーリーは再びため息をつくと不承不承、寝間着からあてがわれた巫女装束に着替える。
別段この時間は彼女以外起きておらず、その気になれば寝間着で出かけてもいい。村人が着ているのも上下半袖のちょうど今脱ぎ捨てた寝間着のようなものだ。むしろこちらの方が丈的にも村人に混じれるのでは。
しかしユーリーはその考えを押しとどめ、袴の帯をしっかりと締めた。今の自分は村でも重要な「巫女見習い」という責任のある立場。
「一挙手一投足が自分自身だけでなく祭祀階級そのものを代表している」のだと日ごろスイセンから口を酸っぱく言われている。それに……どれだけ馴染もうとしても……。
「はぁ……」
彼女の口からため息が絶える事は無い。ユーリーは半端な袖に身を震わせながら外を目指す。
「………………!」
太陽が頭頂部を出した時刻。空を覆う夜の黒が徐々に青く澄んでゆく。それを見る度にユーリーは敬虔な気持ちになる。大地から伝わるひんやりした感触も今はその身を震わさない。広がってゆく朝焼けが澄んだ空気にまだわずかではあるものの温もりを与え、草木の青さを乗せてみずみずしい大気をうみだしてゆく。ユーリーは一日の始まりを告げるこのすがすがしい空気が好きだった。
「すぅ…………ん~~~! よし!」
肺の空気を全て交換し終えると彼女は真っ直ぐ前を向いて歩き出した。村人が起き出すのは太陽が空を紫色に染め上げる頃。それまでは死んだように眠っている。
今だけは私の時間。今だけ私は誰からも自由でいられる。
生活空間である神殿を抜け、村人が住居を構える区画に入ると土の感触が僅かに固くなる。大地を踏みしめると加速をかけ、ユーリーは一目散に駆けてゆく。
「はぁ……はぁ……!」
農業区画に入ると土に僅かな青さが。朝露に濡れた雑草を踏むと神殿の厳かな物とは異なる生命の力強い青さが空気に混ざる。
お告げのおかげか今年の作付はいいかもしれない。水田に広がるいっぱいの稲を横目に、彼女は自分がすっかり巫女見習いらしい思考になった事に苦笑する。
「はぁ……はぁ……ふぅ――」
水田を駆け抜け、ユーリーは柵に手をかけた。彼女が厄介になっているメイズの村、その村境を示す柵を握りしめながら呼吸を整え、内側から向こうへと意識を伸ばしてゆく。
「……」
私は本当にあの大地の向こう側から来たのだろうか。この場所に立つとユーリーは決まってこの疑問について考える。
「……っ」
ユーリーには記憶が無い。いわゆる記憶喪失というものだ。後見人であるツゲ曰くいつの間にかこの村境で着の身着のまま行き倒れていたらしい。
周辺にはメイズ以外にも村はあるが、どの村も男の足で数日かかる。それなのに軽装で発見されるのはよほどの事情を抱えていたのかもしれない。例えば前に住んでいた場所で罪を犯し、刑から逃れるために脱走してきたとか……。
「……私は……何も知らない……」
何もわからない――ユーリー、その名前すらツゲが名付けたもので彼女は自分の本来の名前すら分からないでいる。自分の事すら分かっていないのだから、村人が私の事を信用しないのも分からなくもない。言葉が通じるだけでも奇跡だ。
「……」
握りしめた柵、一思いにここを飛び越えれば自分は自由になれる。それはまだ薄い青、誰も起きてない。この刹那だけ自分は自由……。
「……っ」
ユーリーはもう何度も向こう側に行く事を夢想した。しかし、どうしても実行に踏み切れないでいる。
一つは村から村までの距離が本当に遠い事。頑健な村人なら数日も、ひ弱なユーリーでは一週間以上かかる。それまで補給無しでの強行軍をする勇気は無い。道中の水と食料が何とかなっても竜が出たらと思うと――
もう一つ、ユーリーは他の村からやって来たという確信が無い。少なくとも、メイズ周辺の村でないことは確実に言える。
「だって……」
意を決し、彼女はその日初めて後ろを振り返った。
「………………」
神殿から村境まで走り抜けて三〇分。自分でもそれなりの距離を駆け抜けた。それは今いる地点が明らかにしている。しかし、それはユーリーのちっぽけな歩幅をあざ笑うかのように屹立している。
見上げれば首どころかのけぞらんばかりに全身を反らさなければならないほどに天高く伸びる幹。神話にある樹幹は遙向こうにあるのか、天と地を貫くそれは一本の柱の様にも見える。太さは外周を大人が走って一時間程かかるのだからその存在感は圧倒的だ。地平を同一にするのであればこれを見ないはずはない。
見る度に眩暈を感じるそれからユーリーは視線を逸らす。空の色は暗い青から紫へ、これが水色になる頃には村人が目覚めてしまう。彼女は息苦しさを感じる方へしぶしぶ駆け出した。
一年前、神殿で目覚めた彼女が初めて神樹・メイプルを見た時は腰を抜かしてしまった。記憶する限り、あれほどまでに巨大な物体は彼女の中に存在しない。ツゲに聞くところによると、神樹はこの村はもちろん他の集落、人間が集まる所であれば信仰しない所は無いらしい。なるほどこの世にはあれ以上に巨大な物は存在していない。水害対策のために村の建物は全て高床式になっているが、最も背が高い神殿の食糧庫にしても神樹と比べればつくしと変わらないだろう。
走れば走るほど、目の前の景色は神樹の温かみある茶色い木肌に覆われてゆく。しかしながらユーリーがそれを見て落ち着くことは無い。一年経っても神樹は依然として彼女の中で異物であり、その圧倒的な質量を受け入れるには不安定過ぎた。
「はぁ……はぁ……」
みずみずしく豊かな自然の中から人工的に整えられた神域に急いで戻り、井戸水を汲むと足元の泥を洗い流した。
〈オオオオオオォ――〉
「⁉」
日が空を照らすと同時に神樹は震える。鐘の音のような音を村中に広めると、それを合図ににわかに村から音が出る。
「……はぁ……」
村人は神樹と共に目覚める。それはユーリーにとって自由な時間の終わりであり、神樹を好きになれない理由の一つであった。
今日が始まってしまう。ユーリーはこれから何度もつくであろうため息をしながら重く濡れそぼった足取りで昇殿する。
〈オオオオオオォ――〉
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