2章5話 煙水晶

 水の中で泳いだあとのように体に力が入らない。

 重いまぶたをなんとか押し上げると、見慣れない天井が視界に広がった。


 ここはどこだろう。デイジーはぼんやりした頭で周囲を見回す。


 すぐに、ベッド脇の椅子に腰掛けて眉間にシワを寄せているルーセントが目に入った。すっかり見慣れた彼の渋い表情を見て、デイジーは妙にほっとした気分になる。


「……ここは?えっと、崖からうっかり落ちたところまでは覚えているんだけど」


「ここはせーブルの家だ。きみは偶然手にした鉱石の魔力にあてられたんだ。石を握ったまま眠ってしまって、いつ目覚めるかわからないからここまで連れ帰ってきた」


 どうやらデイジーはあの後ルーセントに担がれてこの家まで戻ってきたらしい。どのくらい眠っていたのだろう。窓の外はすでに夕闇が迫ってきていた。


「ジェシカも心配していたから後でデイジーから連絡してあげなさい」


「うん。わかった……」


「どうした。どこか痛むのか?」


「あっ、ううん。それは大丈夫。さっき眠っているときにね、夢を見たんだ。たぶん小さい頃の夢。だけど、うまく思い出せなかったから……ちょっと気になっただけ」


「……そうか、ならいいが」


 デイジーが何でもないと顔を左右に振ると、ルーセントは小さく肩をすくめて水差しの水をグラスに注ぎ、それをデイジーに差し出した。

 眠っていたせいで喉がカラカラだ。

 ありがたくグラスを受け取り、こぼさないよう慎重に飲んでいると、その様子を見守りながらルーセントがぽつりとつぶやいた。


「結局無茶をさせてしまったな。すまなかった」


 思わぬ謝罪にデイジーは慌ててグラスから顔を上げる。


「ううん。わたしが進んでやったことだから。気絶したのはちょっとびっくりしたけど、あれも偶然なわけで……」


 グラスをサイドボードに置いて、デイジーは正面からルーセントを見た。


「わたしはルーセントの作る絵の具がきれいで好きだから、絵筆が必要なら力になりたかった。絵の具作りは全然だけど……運動は得意だし」


 デイジーの俊敏さはセントラルで鍛えられたものだ。こそ泥のようなことをして大人たちから逃げ回ったり、孤児院を抜け出したり、そういうことに必要なだったから自然と身についた。


「わたしの持っているものは、ずっと自分が生き延びるためだけに使ってきた。だけどここでは大切な人たちのために役立てられるでしょ。だからそれが嬉しいの」


 デイジーのまっすぐな言葉を聞いたルーセントは、目を瞬いたあと、うっすらと口元に笑みを浮かべた。

 何か言おうとして口を開きかけた時、窓ガラスがコツコツと小さな音を立てた。


 二人が音のした方に振り向くと、窓辺に一羽の蔓で出来た【鳥】が留まっていた。


 この伝令は本物の鳥ではないので昼夜問わず手紙を運んでくれる。森へと出かける際に筆工房に置いてきたので、ジェシカからの手紙かもしれない。


「やはり、ジェシカからだな。デイジー宛だ」


【鳥】を室内に回収し、左腕に留まらせたルーセントが言う。足首に巻きつけられていた手紙を外してデイジーに手渡してくれた。


「ありがとう。えっと、なになに……」


 デイジーはルーセントの言いかけた事が気になりつつも、ジェシカからの手紙を開いた。


 手紙の内容はデイジーを見舞う言葉に続いて、おかげで非常に質の高い枝を手に入れられたとお礼が書かれていた。

 絶対に良い絵筆に仕上げるから二人で楽しみに待っていてほしいと、芯の強いジェシカらしい少し角ばった筆跡で綴られている。


 手紙の最後にはデイジーが手にした鉱石について触れられていた。


 それは煙水晶という名前で、シェイプストーンに暮らす人々にとって馴染み深い石だという。

 古くから魔除けのお守りとして大切にされていて、デイジーはたまたま内部に溜まっていた魔力にあてられ倒れてしまったが、石自体は決して悪いものではないらしい。


「雨の国の鉱石にはこういう事があるんだね」


「私も話に聞いたことはあったが驚いた。もともと稀な出来事らしい。絵の具の材料に鉱石を使うこともあるが、市場に出回っているものは安全な状態に手が加えられているのだろう」


「煙水晶かぁ。どんな石かちょっと見てみたかったな」


「その石なら私が預かっている。ここにあるぞ」


 そう言いながら、ルーセントはサイドボードに小さな木箱を置いた。

 箱のふたをそっと持ち上げると、中には綿に包まれるようにして黒灰色の半透明の結晶体が収まっていた。


「もう余分な魔力は開放してしまったから、直接触っても倒れたりしないそうだ。この煙水晶はデイジーが手に入れたものだ。手元に残すなり、山に戻すなり好きにしていい」


 ルーセントの言葉に頷き、デイジーは力を使って手の中にある鉱石を見つめた。

 とても澄んだ色のシナンがキラキラと優しい光を放っている。


「……きれいな石だね」


 炭を水に溶かしたような灰色は、じっと見つめていると心を落ち着かせてくれる気がした。魔除けのお守りにされているのも、なんとなくわかる気がする。

 デイジーは石を受け取ることにして木箱のふたを静かに閉めた。 


『鳥』に魔力を含む水を飲ませ休ませている間に、デイジーはジェシカに手紙の返事をすばやく書いて『鳥』の足首に巻きつけた。

 再び木立の暗闇に消えていく『鳥』を見送って、デイジーはようやく一息つく。


「ごめんなさい。すっかり予定が狂っちゃったね」


「いや、気にするな。今夜は師匠の厚意でここに泊まってよいそうだ」


「え、ほんと?!」


 そういえば、さっきから煮込み料理のいい匂いが漂ってきている。

 体の調子ももとに戻ったので、デイジーはなにか手伝おうと勢いよく部屋のドアを開けた。

 すると、目の前にノックしかけた姿勢のままセーブルが立っていた。

 二人の話し声を聞いて、ちょうど声をかけようとしたところらしい。デイジーと目が合うと老人は白いひげを揺らして笑った。


「おや、もうすっかり元気みたいだね。二人とも夕食は食べられそうかな?」


「はい。ありがとうございます」


「ご心配おかけしました。わたし何か手伝うよ。お腹空いちゃった」


 デイジーはそう言うと、セーブルと共にキッチンへと向かった――。




 食卓には、馴染み深い家庭料理から北部地方特有のスープまで様々な料理が並ぶ。

 セーブルはもともと料理好きだっようで、あっという間にテーブルいっぱいの料理を作ってしまった。


「師匠、私はもう育ち盛りの少年ではないですよ」


 細身のルーセントは普段から食が細い方だ。テーブルを埋め尽くすような皿の数に苦笑いをする。


「今日は久しぶりに料理を食べてくれる人がいるから、ついつい張り切ってしまったよ」


 そう嬉しそうに微笑むセーブルを見て、デイジーはまたこの家へ遊びに来ようと思った。デイジーにおじいちゃんがいたら、こんな感じなのかなと心の中で想像する。


「わたしがルーセントの分まで食べるから平気。こんなごちそう、生まれて初めてだもの」


 デイジーはたくさんの料理を目の前にして、黄緑色の瞳をらんらんと輝かせた。

 孤児院と違ってここには食事を取り合うライバルの子供もいない。


 暖炉の火がぱちぱちと音を立て、スープが湯気を立てているのを見ているだけで体と心が温まる気がする。


「慌てて食べて喉をつまらせるなよ」


 すました顔でルーセントがちくりと忠告する。しかし、心なしかいつもよりもその表情が柔らかいように感じた。

 ルーセントもなんだかんだ言いながら普段よりたくさんの料理に手を付けている。セーブルの手料理を懐かしむようにゆっくりと味わっていた――。


 □□□


 ヒルベリーの近況やルフナやクロフト達の話題で会話は弾み、終始穏やかな雰囲気で夕食を終えた。外はすっかり夜が深まり、森のどこかでフクロウが鳴いている。


 デイジーは食後のお茶を3人分淹れて、各々の席の前にカップを配っていった。

 カップに口をつけたセーブルが、満足げにうなずく。


「うん、悪くないね。なかなかのものだ。小さい時のルーセントより覚えが早いんじゃないかな」


「よかったぁ。ルーセントにしごかれた甲斐があった……!」


「真っ先にお茶の淹れ方を覚えるのが工房の伝統だからな。それに、師匠の方が私より厳しいぞ」


 ルーセントが平坦な表情でお茶を飲むので、冗談なのか本当なのかわからない。


「ふふふ。それで、予想外のことは起きたけど絵筆は無事に完成しそうなのかい?」


「はい。紹介していただいた工房の職人が張り切ってくれています。3日後には受け取れるかと」


「それは良かった。デイジーが頑張ったおかげでもあるな」


「えへへ。これであの青い花の依頼も進められるね。ライラさんたち喜んでくれるといいなぁ」


 本当に良かったとデイジーが笑いかけると、ルーセントは小さく頷いて口にしていたカップをそっと置いた。

 静かな眼差しでセーブルとデイジーを交互に見つめる。


「師匠とデイジーにはとても感謝しています。今回の件で、時の流れには逆らえずとも巡る縁と言うものがあるのかもしれないと、そう思いました」


 普段のルーセントからは想像できない素直な言葉に、デイジーは目を丸くした。ルーセントはそのまま話を続ける。


「ここに来てからもずっと迷いましたが……。私が絵筆を失った理由について話しておこうと思います」


 ルーセントの改まった口調にデイジーは居住まいを正す。

 一方のセーブルは微笑みながら、ゆっくりとお茶を味わっていた。その穏やかな表情にはすべて受け止めてくれそうな安心感がある。


 長年ルーセントの師匠として側にいたセーブルとは違い、デイジーはついこの間まで赤の他人だった。この場に自分が居て良いのかわからず、もじもじとしてしまう。

 デイジーの気まずい気配を察したのかルーセントと目があった。


「デイジーも一緒に聞いてくれ」


「……わたしもいていいの?」


「きみは私の助手だろう」


「!……う、うん。わかった」


 ほんの数秒目を伏せたルーセントは、過去に起きた事件の経緯を静かに話し始めた――。

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絵の具をひとさじ ナヲザネ @nawozane

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