2章4話 黒いモミの木

「あれが黒いファーよ」


ジェシカが岩壁の上にそびえ立つ黒い針葉樹を指差す。

デイジーたちはドムに店番を任せ、ルーセントの絵筆を作るために『黒いファー』と呼ばれるモミの木を探しに来ていた。


その木があるという針葉樹の森は、暗緑色の葉がこんもりと繁っていて、昼間でも薄暗かった。その木立の中をしばらく進むと、やがて崖に突きあたった。


鉱山の一部である崖は、垂直に地面を分断していた。崖のところどころに岩棚ができている。その岩棚の一つに探しているモミの木が生えていた。


デイジーは目を細めて、ジェシカの指差した崖の上を見上げる。


目指す岩棚までの高さは大人5、6人分くらいだろうか。すごく高いわけはないが、岸壁を登るのはさすがのデイジーにも難しい。

黒いモミの木は、まるで他の木々からはぐれてしまったかのように、岩棚に一本だけで生えていた。細長い幹は少し頼りなく感じる太さで、樹齢はそれほど古くはなさそうだ。


厳しい冬の時期には、寒風の吹きさらしになるだろう場所に、たった一本で静かに佇む黒い木。デイジーにはその光景が、不思議とルーセント持つ雰囲気と重なって見えた。


「言われたとおり件の場所へ連れてきてあげたわ。一応、道具も持ってきたけど……。デイジー、本気で採りに行くつもり?」


ジェシカが半信半疑という様子でデイジーに聞く。

それに頷いて、デイジーは崖の真下へと視線を移した。垂直な岩壁に沿うようにして、何本か針葉樹が生えている。そのうちの一本はかなり大きく、崖の途中にある岩棚を越える高さまで伸びていた。


「うん。ジェシカが言ったように、あの大きな木なら岩棚のところまで行けそうだよ。木登りは結構得意なの。やってみる!」


ルーセントが眉間にシワを作りながら、楽観的なデイジーに釘を指す。


「くれぐれも無理はするなよ。危険だと思ったらすぐ引き返しなさい」


「うん。心配ありがとう。ルーセントたちは、ここで待ってて」


デイジーは、軽く肩をぐるぐる回して準備運動をすると、崖に沿って生えている樹木に手をかけた。枝やコブを手がかりにして、すいすいと樹木の上へと登っていく。


登りながらデイシーは頭の片隅で孤児院時代のことを思い出していた――



孤児院でのデイシーは、常に居場所がないと感じていた。

そんな施設から抜け出すために、たびたび木を登っては施設の塀を越えていた。

当時のデイシーはまだ幼く、セントラルでたった一人で生きていく術がわからなかった。どこかへ行方をくらましたいと思っていても、そんな勇気は出ないままだった。そうして日が暮れだすと、デイシーは自ら孤児院に帰っていった。


「わたしの脱走に気づいても、誰も探しに来なかった」



嫌なことを思い出してしまった。慌てて頭を振り気持ちを切り替える。


ヒルベリーに来てからあまり体を動かす機会がないが、木のどこに手をのばして足をかけるべきか、動きが体に染み付いている。

デイジーがいとも簡単に木を登っていくと、下からジェシカの感心している声が聞こえた。口元が思わず緩む。


木から岩棚へと難なく飛び移ったデイジーは、黒いモミの木の根本を確認した。


「たしかに。落ちている枝は少ないな……」


地面に落ちているのは細すぎる小枝ばかりで、絵筆の素材になるような太さのものはない。

デイジーは仕方なく、今度は黒いモミの木へよじ登ることにした。

ジェシカの助言を思い出しながら、いくつか枝分けてもらうことを木に詫びて、状態の良さそうな枝をいくつか切り取った。

それらを紐でくくって束にし、ロープを垂らしてゆっくりと崖下に下ろす。

束を受け取ったジェシカが、大きく手を振る。


「本当にやり遂げるなんて……驚いた。受け取ったわよデイジー!これで十分。気をつけて降りてきて!」


「わかった!……?」


背後で何か小さな音がしたので、デイシーは慌てて振り返る。

どうやら岩棚の上に続く崖から小石が転げ落ちてきたようだ。野生動物じゃなくてよかったと、デイシーはほっとした。


「はぁ、びっくりした。思ってるよりも、わたし緊張してたのかも」


気を取り直して、デイシーは黒いモミの木の根本にロープを巻きつける。

ロープの状態をしっかり確認してから、それをたどって崖を下りていった。

下をちらりと見ると、枝を抱えたジェシカと渋い顔のルーセントが、心配そうにこちらを見守っている。


「大丈夫、慎重に降りるから!」


油断さえしなければ、まっすぐ崖を下るだけの楽な帰り道だ。

デイシーは足を滑らせないように気をつけながら、岩壁を順調に下りていく。


「ん?何か聞こえる……」


デイシーがちょうど崖の中腹まで降りた時だった。

崖の向こう側から、かすかに低い音が聞こえてきた。地鳴りだと思ったのと同時に、ロープを通して岩肌に振動を感じた。


「大変。一昨日強い雨が降ったから、どこかの古い坑道が崩れたんだ。デイジー落石に気をつけて!」


「わかった。すぐに下りるから二人ももっと離れて」


デイジーは慌てて下りる速度を速めた。

幸い坑道の出口はこちら側にはないが、崖からこぼれ落ちた砂や小石が、樹木の葉にぶつかってぱらぱらと音を立てる。


頭上の状況を確認するために、デイシーが顔を上げた瞬間だった。

運悪く、落ちてきたアーモンド大の小さな石が、デイシーの顔にぶつかった。

不意を突かれて、デイジーはロープをつかむ力が緩んでしまう。


「あ、やばい」


「! デイジー!!」


二人の呼ぶ声が聞こえる。体勢を立て直す間もないまま、デイジーは真っ逆さまに落ちていった。

まだ少し地面が遠い。頭から落ちるのはまずいと、咄嗟に受け身を取りつつ、デイジーは思わず目をつぶった。


硬い地面にぶつかるのを覚悟したが、思いの外衝撃は少ない。


「?……あれ」


「っ、そこそこ重いな。……この馬鹿助手め。肝が冷えたぞ」


聞き馴染みのある嫌味が自分の下から聞こえて、デイシーは恐る恐る目を開いた。


どうやら駆けつけたルーセントが、間一髪でデイジーを受け止めてくれたらしい。きっちり整えた髪を乱しながら、渋い表情で地面に尻餅をついている。


「ごめんなさい……。あの、ありがとう」


「まったく。あれほど気をつけろと言っただろう。……怪我は?」


「だ、大丈夫」


「それなら、早くどいてくれ」


非常に迷惑そうな顔でルーセントが言う。

これ以上彼を不機嫌にしてはいけないと、デイジーは慌てて起き上がろうとした。

しかし、なぜかうまく体に力が入らない。


「あれ、どうしたんだろ。立てない……」


焦っているうちにぐらぐらと地面が波打ちだした。

デイシーが混乱しつつ激しいめまいに耐えていると、視界が急激に暗くなった。肩をつかむルーセントの手のひらの感触と、声が徐々に遠ざかっていく。


「ごめん。ルーセント、ちょっと……休ませて」


朦朧としながらそう言ったあと、デイジーの意識はぷつりと途切れた。




「おい、デイジー」


ぱたりと倒れてしまったデイジーを揺すっても、反応はなかった。


「デイシー?!ねぇ、一体どうしたの?頭は打っていないのに」


「私にもわからない……」


ルーセントは気絶したデイジーを抱え起こす。ジェシカも不安げな顔ですぐ側に駆け寄ってきた。

ルーセントは、ふとデイジーが手に何か持っていることに気がついた。


さっき落下した時に偶然手にしたのだろうか。デイジーの手には幾何学的な形をした黒灰色の石が握られている。


「これ、煙水晶ね。長い間シナンを含む水にさらされていた石は、内部に魔力を溜め込むの。きっとデイシーは石の魔力にあてられたのね」


ほっとするジェシカを見上げながら、ルーセントは問いかけた。


「……大丈夫なのか?」


「ええ。彼女はたぶん、今夢を見てる。もう少ししたら目が覚めるはずよ」

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