2章3話 絵筆
絵の具を作る調色師や絵師は、特製の筆を一人一本持っているらしい。
魔力を使った絵の具を使う時に使用する魔道具だという。色や魔力を定着させやすく、魔力の効果もより強くなる。
しかし、どちらかというと絵筆は『証』のような意味合いが強いものらしい。調色師は一人前になった証に、その特製の筆を師範から贈られるのが習わしだという。
理由は言えないが、ルーセントは2年前に理を破ったという。
その時の反動で彼は自身の目の色覚を傷つけ、同時にセーブルから贈られた絵筆も失ってしまった。
自身の事情をルーセントが淡々とした口調で話すと、室内に沈黙が広がった。
「……本当におバカな弟子だ」
セーブルがぼそりと呟く。
「師匠にいただいた筆を壊してしまい、申し訳ありません。……この依頼があるまで、報告を先延ばしにしていたことは謝ります。しかし、理を破ったことは後悔していません」
セーブルはルーセントをじっと見つめてから、大きなため息をついた。椅子の背にもたれ、あごひげを指で撫で付ける。
「別に筆のことは気にしてないよ。ルーセント。今更言っても遅いけれど、少しは周りを頼って良いんだよ。たとえ問題の解決は出来なくても、何か力になれることはあったんじゃないかな」
「それは……」
「確か同じ様なこと、前にクロフトも言ってた」
デイジーの独り言にセーブルも大きく頷く。
「きみが他人をアテにしないのは昔からだけど、自分のことも大事にしなさい。もう十分、代償は払っただろうからお説教はこのくらいにしておくよ。……まったく、年寄りの心拍数をあんまり上げさせないでくれ」
そう言ってセーブルは改めて羊皮紙を差し出す。礼を言いつつ、ルーセントは神妙な顔つきでそれを受け取った。
「しかし、絵筆までも失うとはね。それで、わざわざ来たのは筆を借りに?」
「……はい。お話した通り、私の筆はもうありません。差し出がましいお願いなのは承知で、あの花を塗り直すために師匠の筆をお借りしたい」
柔和な笑顔に戻ったセーブルは、うんうんと頷きながらルーセントの説明を聞いている。
「うん、話はわかったよ」
「ありがとう、セーブルさ――」
「でもね、僕の筆は貸さない」
「えっ……」
思わず声を上げたデイジーに、セーブルは穏やかな表情で話を続ける。
「ちょうどね、この町にうちの絵筆を作ってもらった工房がある。腕の良い職人を紹介するから、新しいのを作ってもらいなさい。先代店主の僕が許可する」
セーブルの提案にルーセントはわずかに目を見開いた。
「もしかして、理を破った自分にはもう筆を持つ資格がないとか思っているのかな?報いはもう受けただろう。僕からしたらルーセントはまだ若造だ。やり直す時間はまだたくさんある。良い目を持った助手もいるんだ。もう一度自分の筆を持ったらどうだい?」
セーブルはデイジーに向かって片目をつぶる。口にはしないけれど、デイジーの目の能力に気づいているようだ。
「……」
「まぁ、強制はしない。どうしても抵抗があるのなら僕の筆を貸すよ。」
そうセーブルは静かに言った。
デイジーがそっと隣を見上げると、普段表情がわかりにくいルーセントにしては珍しく、真剣に悩んでいるのがわかった。
視線に気づいたルーセントと目が合う。
「行ってみようよ、ルーセント。わたし難しいことはよくわからないけど、ルーセントの作った絵の具も、それを使った細工品も好きだよ」
ルーセントは少し驚いたような顔で、デイジーの黄緑色の瞳を見た。
デイジーの言葉が背中を押したのかはわからないが、ルーセントは心を決めたようだ。
おもむろにデイジーの頭をぽんぽんと軽く撫でると、セーブルの方へ向き直った
「……師匠、その職人を紹介してもらえますか?」
ルーセントの問いかけに、セーブルは白ひげを揺らしながら満面の笑みで頷いた。
◇◇◇
セーブルの家で回収した【鳥】を再び飛ばし、事前に連絡を取った筆職人のもとへデイジーとルーセントは向かった。
麓の森に沿って林道を進むと、小さな水路脇に建つ山小屋のような建物が見えてきた。
丸太を並べた塀に、教えられた工房の看板が取り付けられている。
中を覗き込むと、背の高い若い女性が眼鏡越しに真剣な目つきで獣毛の束をまとめている。
年齢は二十歳前後だろうか、デイジーたちに気づいて顔を上げた拍子に眼鏡がきらりと光った。
「あの、こんにちは」
「失礼する」
デイジーは店内に入ながら遠慮がちに声をかけた。その肩には、筆職人からの返事を運んで来た【鳥】が止まっている。
眼鏡の女性はその【鳥】を見て合点がいったようだ。
毛束を作業台に置いた女性は、立ち上がってルーセントを睨めつける。
「あなたね、おじいちゃんの作った筆を壊してしまったのは。あの美しい筆を壊しちゃうなんて酷いことするわ」
自己紹介もしないうちに、いきなり糾弾されルーセントは面食らったようだ。
「すまない。大事に使っていたのだが、やむを得ない事情があって……」
「うちの筆は丈夫なのが売りで、よっぽどの事をしなければ折れるはずないわ。おじいちゃんの筆はただでさえ貴重なのに……。一体どんな使い方したのかしら。絵筆はただの道具じゃなくて、芸術品に近いものがあったのに」
色白で眼鏡のひょろりとした女性は、一見大人しそうに見えるのになかなかに気が強い。どう話を進めようかと、デイジーとルーセントは思わず顔を見合わせる。
「こら、ジェシカ。それくらいにしなさい」
女性の勢いに押されて、二人が戸惑っているところに、しゃがれた老人の声が響く。
こつこつと杖をつきながら、奥の部屋から老人がゆっくりと出てきた。ジェシカと呼ばれた女性は、すかさず老人に駆け寄ると、近くの椅子に老人を座らせる。
「大変失礼しました。孫のジェシカは自分たちの作った筆への愛が強すぎるせいで、お客さんにもお構いなしでのう……。いやはやお恥ずかしい」
老人の登場で先程まで息巻いていたジェシカもおとなしくなった。
「わしはドミニク。ドム爺と呼ばれておる。わざわざこんな辺鄙なところまで来てくださってありがとう」
老人はかつて、セーブルやルーセントの絵筆を作った筆職人だった。
今は孫のジェシカに店を譲り、時々筆工房を覗きながらのんびり暮らしているそうだ。工房では普段は一般的な筆を作っているが、依頼に応じて細工師用の筆も作っているという。
ドムにたしなめられたジェシカは、咳払いをひとつしてから接客を仕切り直した。
「さっきは大人気ない態度で失礼しました。改めて、店主のジェシカです。よろしく」
「私はルーセント。それと、助手のデイジーだ」
「はじめまして」
「安心してくだされ。ジェシカは態度が大きくても腕は確かだ。繊細で良い筆を作る」
「おじいちゃん一言余計だってば……。でも、筆づくりに関しては任せてほしいわ。まぁ、今度うちの工房の筆を壊したら承知しないけど」
「……ありがとう。よろしく頼む」
ルーセントの言葉にジェシカは眼鏡を指で押し上げつつ、不敵な笑みで頷き返した。
「じゃあ早速柄に使う素材から決めていくわ。ちょっと待ってて」
店舗の奥に消えたジェシカはしばらくして木箱と古びた帳簿を抱えて戻ってきた。
木箱の中にはさまざまな色と太さの木の棒が入っている。
それらが箱の中でぶつかりあって、からからと暖かみのある音を立てた。
「これは、木の枝?」
デイジーが素直に質問すると、ジェシカは得意げな笑顔でこたえた。
「ええそうよ。筆の柄に使用する木材。どれもこの国の雨と太陽の光をめいっぱい吸って育った良い枝ばかりなの。長年手に馴染んだものの方が使いやすいから、素材は以前の筆と同じものを使いたいわね」
そう言いながら、ジェシカは丁寧に古びた帳簿をめくる。
黄ばんだ紙には設計図のような線画と、その横に細かい文字が書きこんである。
「その帳簿はドミニク氏が店主だった頃のものか?」
ルーセントも興味深そうに帳面を覗き込む。
ちらりとルーセント見たジェシカはやや唇と尖らせながらも頷いた。
「ええそうよ。依頼された筆の素材がこれで調べられるの。えっと、セーブルさんが依頼主だから……」
「帳簿を大切に保管しておいてよかった。さすがにわしも全部は覚えてないからな」
「あった。これね。原毛はテンの尾、柄の素材は……!?」
ジェシカは眼鏡をかけ直してもう一度帳面を見直した。明らかに顔をしかめている。
「なにかあったの?」
「ええ。この人の筆、ファーが使われていたみたいね。それも、このシェイプストーンで採れる黒いファー」
「ファー?……ってなんの木だろ」
聞いたことのない木の名前にデイジーが首をかしげていると、ドミニクが杖を持たない方の手で窓の外を指差す。窓の外には針葉樹のこんもりした森が見えている。
「ファーとはモミの木のことでな、それ自体は珍しい素材じゃないんだが、黒いファーはシェイプストーンで稀に見つかる、黒みがかった樹皮のモミの木だな」
「樹皮の黒さと対象的に中の木目はとても白いのが特徴。もともと珍しいのに、かつて大量に伐採されてしまったから、最近はとても数が少ないのよ。うちも今は在庫切れね」
「そうか……。私は似たような材質の木材に替えてもらって構わないが」
「そうね、私としてはおじいちゃんの筆と対になるようなものを作りたかったのだけど仕方ないわね。黒いファーが生えている場所はわかるけど、ちょっと難しい場所にあるし……」
腕を組んだジェシカは、ずれた眼鏡を押し上げながら小さく唸る。
「それってどういう場所なの?」
「北の崖の岩肌に生えているの。あまり枝を落とす木じゃないから直接枝切りした方が早いけど、まず岩肌なんか登れないでしょ。隣接する木から届くかもしれないけど、まぁ無理な話ね」
「木登りかぁ」
ジェシカの話を聞いて思案顔をしているデイジーに、ルーセントの眉間のシワが深くなる。
「おい、デイジー。……今何を考えている?」
「ちょっと登ってみようかなって」
えへへ、とデイジーが笑うと嫌な予感が当たったルーセントは深いため息をついた。
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