2章1話 幻の青い花

 沸騰したお湯を陶器のティーポットに入れる。カップにも注ぎ、それぞれをあらかじめ温めておく。

 ティーポットのお湯を切り、茶葉を入れたら再び沸騰したお湯を注ぎ、しばらく茶葉を蒸らす。

 蒸らし終わったら、同じくお湯を切ったカップに熱いお茶を注ぐ。風味が強く、色の濃いお茶が白いカップを満たす。


 ルーセントは後からミルクを入れるタイプなので、ブラックティーの入ったカップとミルクを別々に彼の前に出す。


「中々だな。茶葉を蒸らす時間をもう少しだけ長くすると良い」


 一口飲んだルーセントは、満足そうにそう言った。


「蒸らす時間ね。わかった!」


「クロフトより覚えが早いな。まぁ、やつは初めから覚える気がなかったがな」


 眉間にシワを作りながら、けれど声色は存外やさしくルーセントが言う。


「あはは、やっぱりそうなんだ」


 デイジーが工房の助手になってから、ひと月が経った――。



 ルーセントは宣言通り、まず初めにお茶の淹れ方をデイジーに教えた。


 それがこの工房の伝統らしい。適切なお湯の温度や茶葉の分量を量ることを癖付ければ、絵の具作りにも活かせるというのが表向きの理由らしい。


 実は単に歴代の店主がお茶好きだったからだ。とルーセントが教えてくれた。そう言いながらルーセントもお茶には中々うるさい。


 デイジーのマグカップの中には、ミルク入りのお茶と蜂蜜がすこし。これを飲み終えたら、工房『losgann(ロスカン)』での一日が始まる。


「今日、私は調色の作業がある。店番を頼んでいいか?」


「うん。補助はいる?」


「いや、今回の色なら大丈夫だ」


「わかった。店番はまかせてよ!」


 ルーセントは過去の出来事の影響で、少しずつ色が見えなくなってきている。デイジーは見えにくい色の調色の際は、彼の補助に入ることにしていた。

 といっても、ルーセントの腕と経験に裏打ちされた調色は完璧なので、あくまで保険としてその場を見守るだけだ。


 それでも気難しそうなルーセントが、デイジーの目を信頼してくれているのが嬉しい。


「あら、小さなお弟子さんね」


 いつか店番をしているとき、工房を訪れたお客さんにそう言われた事がある。デイジーは微笑みながら、助手です。とやんわり訂正した。


 前に一度、補助をする時にルーセントに調色の仕方を教えてもらった。

 魔力の素・シナンが見えるデイジーにとって、調色はかなり有利なはず。と、楽観視していたが、そんなに簡単なものではなかった。


 色の調合は、魔力のある・なしに関わらず、金属や鉱物の粉末を混ぜ合わせていろいろな色を生成する。きっちり分量を量り、丁寧に手順通りに混ぜ合わせなければならない。かなり繊細な作業だ。


 デイジーの調色には雑な部分があったり、そもそも鉱物の組み合わせが全然覚えられなかった。


 ルーセントの足手まといになってはいけない。素直に助手に徹することにしたデイジーは、お使いと店番が主な仕事だ。



「孤児院時代に読み書き習っておいてよかった!」


 難しい文章にはつまづくが、日常生活の簡単な単語なら支障ない。お金の勘定も、セントラルでの裏稼業で、苦い経験と共に鍛えられていた。


 デイジーの黄緑色の目は、室内だと色が分かりづらい。


 初めは恐る恐る店番をしていたデイジーだったが、風変わりな目の色に気がつく客がいないので、今はのびのびと仕事をしていた。

 すっかり慣れた手付きで、窓にかけられた布を外し開店の準備をする。


 朝のやわらかい陽光が小さな窓を通して店内に差し込む。夜のうちに降った雨は、すっかり上がったようだ。


「今日はいい天気になりそう」


 デイジーは大きく伸びをしてから、店の入口にかけられたプレートを裏返し『OPEN』にした。



 朝のゆっくりとした時間が流れる。足元にやってきた猫のオニキスと時々じゃれながら、デイジーがのんびり店番をしていると、二人組の女性が店にやってきた。この辺りで見かけない顔だ。


「いらっしゃいませ」


 遠慮がちに店に入ってくる二人に、デイジーは声をかける。


「かわいい店員さんね。店のご主人はいらっしゃるかしら?」


「はい、今呼んできます。えっと、調色のご依頼ですか?」


 デイジーの質問に、女性たちはお互いの顔を見合わせうなずいた。


 その仕草も顔つきもそっくりで、二人は姉妹だとわかった。年齢はルーセントと同じくらいだろうか。

 ルーセントは灰髪と眉間のシワのせいで実年齢より老けてみえるので、こちらの姉妹のほうが年上なのかもしれない。


「ええ、そうね。ちょっとお願いしたい事があって訪れたの。ルーセントとは古い馴染みでね。彼は覚えていないかもしれないけれど……。いるかしら?」


 ルーセントの幼馴染だろうか。デイジーは小首をかしげながらも、二人の名前を聞いてルーセントに取り次ぐことにした。


「ルーセント、お店の方に古い知り合いという人が来てるよ。今出られる?」


 二階の作業場にさっと駆け上がったデイジーは、眼鏡姿のルーセントに声をかけた。

 眼鏡を外したルーセントは、渋い顔をして眉間を揉む。


「古い知り合い……。名前は聞いているか?」


「うん。ライラさんとミーナさんっていう姉妹の方だよ」



 ◇◇◇



「お茶どうぞ」


「ありがとう。……懐かしい香りがするわ」


 店舗の隅にある商談用の小さな円卓に、デイジーは淹れたてのお茶をふたつ置いて下がった。


 姉妹と円卓を挟んでルーセントが腰かけている。大人3人も座れば窮屈な大きさの円卓なので、デイジーはルーセントの邪魔にならないよう、後方の壁際に立っている。


「ずいぶんと久しいな」


「ふふ、そうね……25年ぶりくらいかしら。この工房を探すのには苦労したわ。ねぇミーナ」


「私たち【裏口】からしか入ったことなかったもの」


 姉妹はかつて、よくこの工房に遊びに来ていたらしい。その頃からルーセントはここで弟子として働いていたようだ。


 二人は工房の【裏口】、遠く離れた場所と工房をつなぐ不思議な扉から出入りしていたので、この工房がヒルベリーにあることを知らなかったそうだ。


 ある日ふと思い立ち、なんとか工房の場所を探し当て、ヒルベリーを訪れてみたという。


 彼女たちの知るルーセントは、デイジーより少し若い少年だったはず……。どんな少年だったのだろう。ライラが言うには小さいのに老成していて、生意気な少年だったらしい。


「私たちのこと、ちゃんと覚えていてくれて嬉しいわ。ねぇ姉さん?」


 妹のミーナが笑顔でライラに問いかける。


「セーブルさんのおかげね。体が弱かったミーナも、今では旅行ができるくらい丈夫になったのよ」


「セーブルさんって?」


 聞いたことのない人物の名前に、デイジーは思わず口を挟んでしまった。


「先代の工房の店主で私の調色の師匠だ。【裏口】の入り方も師匠がこの二人に教えたんだ」


「その、セーブルさんは……」


 ライラが遠慮がちに質問した。この工房はデイジーが来る前から、ルーセントが一人で経営している。妹のミーナも微妙な表情を浮かべていた。


「師匠はここより北にある、シェイプストーンという村で隠居している。雨が降ると節々が痛むとぼやいているが、矍鑠としているらしい」


 淡々と話すルーセントの一言で、一同の空気がぽっと明るくなる。


「そうだったの。お元気そうで嬉しいわ!今度お手紙書きましょう」


 姉妹が嬉しそうに話し合っているのを前にして、ルーセントは小さくため息をついた。


「それで。わざわざ工房を探して来たのだから、他にも用事があるんじゃないのか?」


「本当、そういう可愛げのないところは昔から変わらないわね。デイジーちゃんに迷惑かけてない?なにかあったらルフナに言いつけていいからね」


 急に水を向けられてデイジーは慌てて首を横に振る。


「いえ。それに、ルーセントはわたしの恩人だから……」


 姉妹が目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。デイジーからはルーセントの背中しか見えないので、どんな表情をしているか見えない。


「あら、あなたそんな顔するのね。ルーセントの面白い顔が見られたところで、本題にいきましょうか。この後、隣のルフナのところにも顔出さなきゃだし」


 ライラは鞄から大事そうになにか小さなものを取り出す。


「それは……」


 そっと円卓の上にのせられたのは、ガラスのケースに入れられた青い花だった。ヒナゲシによく似たその花は、まるで摘みたてのようにみずみずしい。


 花びらの上で、海の水のように様々な青色がゆらめいている。


 デイジーは姉妹に気付かれないように、目に力をこめて花に宿る魔力を見た。シナンはきらきらと輝いていたが、少しだけその輝きが弱い気がする。


「私と姉さんの大事なお守り。そしてこの工房での思い出がたくさん詰まっている花。大切に保管してきたけれど、ほんの少しだけ色が薄くなってきているの」


 妹ミーナの言葉をライラが引き取って続ける。


「再会の記念に、この花を塗り直してくれないかしら」


 よく似た顔の二人が優しく微笑んだ。

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