1章3話 調色依頼
息苦しさに目を開けると、深く澄んだ青が一面に広がっていた。
凍るように冷たい水は、全身を無数の細い針で刺してくるようだ。体がこわばり息ができない。
水面を目指して必死にもがいても、鉛のように重い体は真っ直ぐ水底を目指して沈んでいってしまう。
肺の中の空気が尽きて手足がしびれてきた。
徐々に意識が遠のいていく……。
暗幕が降りてくる視界の中で最後に目にしたのは、恐ろしいほどに美しい光の粒が青い水の中を漂う光景だった。
◇◇◇
「っ!」
デイジーが反射的に跳ね起きると、そこは見慣れない小さな部屋だった。窓からクリーム色の朝の光が差し込む。
「そっか、工房に泊まったんだった……」
朝は冷え込む季節になって来たのに何故か全身嫌な汗をかいていた。
全力疾走した後のように心臓がばくばくして体が重い。
よろよろと立ち上がり、窓を開けて思いきり外の空気を吸い込む。
ヒルベリーは緑が多いからなのか、朝の外気がひんやりとしていて気持ち良い。何度か深呼吸をしているうちに頭もすっきりしてきた。
「にゃあ」
鳴き声に驚いて振り返ると、部屋のドアの前に一匹の猫が座っていた。
ドアは閉まっているのにいつの間に部屋に入って来たのだろう。チョコレート色の毛並みがつやつやと光る。
「この家の猫かな?名前は?」
返事をする訳がないのに、つい猫に向かって話しかけてしまった。
黄緑色の瞳がデイジーのものと同じで親近感がわく。猫はにゃあ、と一声鳴くと入り口のドアを前足でとんとんと叩く。
「ん、開けろってことかな?ちょっとまって。わたしも出るから」
大急ぎで身支度したデイジーは空き部屋のドアを開けた。するりと廊下に出た猫は階段を降り、すたすたと店舗の方へと歩いていく。
再びドアの前で足を止めるとこちらに振り向いた。
「はいはい。いま開けるよ」
デイジーが店内へ入ると、猫は用は済んだとばかりにさっさと棚の奥へいなくなってしまった。なんともつれない猫だ。
開店前の店内は、通りに面した窓に目隠しの布がかかり薄暗い。
ダークブラウンで統一された木棚には、工房の裏口で見たガラス瓶と同じものがいくつか並んでいる。
その棚の前にルーセントが立っていた。先程の猫がちゃっかりルーセントの足元でくつろいでいる。
ルーセントは陳列した商品の掃除をいているらしい。
棚にはチューブ入りの普通の絵の具や絵筆、羽ほうきなど普通の画材も並んでいる。
近くに置いてあったガラス瓶を手に取り近くで見ると、カエルの意匠が入ったラベルに店名と色の名前が書かれていた。
『losgann(ロスカン)』がこの工房の名前のようだ。
北方の古い言葉でアマガエルという意味である。
目の力を使って中身を確かめてみると、魔力の素であるシナンがきらきら光って見えた。
「その瓶は魔力が強めだ。細工師以外がむやみに触らないほうがいい」
さっとデイジーの手から瓶を回収したルーセントは、それを鍵付きのガラスの引き戸の中へしまった。
一列に並んだ瓶を見て、魔力の強さごとに蓋が色分けされている事に気づく。
「う、ごめんなさい」
「……オニキスが連れてきたのか」
ルーセントは彼の足元近くでくつろぐ猫のオニキスを見下ろす。当のオニキスは我関せずというように、目を閉じて伸びをしていた。
「オニキスはこの家の猫だよね?」
「ああ、彼女は私がこの工房を継ぐ前からここに居る。正直、何年生きているか私も知らない」
「ええ!?」
オニキスはどう見ても若くて健康な猫だ。
大事にされた猫は9つの魂を持つというけれど本当かもしれない。
「それより、昨日はちゃんと眠れたか?」
「うん。おかげさまで」
実際に朝まで泥のように眠っていたので嘘ではないと思う。
今朝のルーセントは身なりは隙なくきっちりしているものの、いくぶん声が眠そうだった。もしかしたら意外と朝が苦手なのかもしれない。
「あの部屋はしばらく使う予定のない部屋だ。状況が落ち着くまであそこに居ていい。その目の事は私もルフナも黙っておくから安心しなさい」
「……ありがとう!それならたくさん働かないとね。なにか他に手伝うことある?」
「すまないな。それなら窓にかかった目隠しの布を外してくれると助かる。狭い部分は手の小さい君の方が早そうだ」
「うん!まかせて」
役割をもらったデイジーは、商品を倒さないように気をつけながら布を外していく。
その間、ルーセントは眼鏡をかけてカウンターで帳簿の確認をしていた。
外の人通りもまばらな時間帯なので店内にも静かな時間が流れる。
最後に入口のドアにかかっている布を引き開けると、ドアのガラス越しに至近距離で立つ人物と目が合った。
「ひゃっ」
思わず叫んで後ろに飛び退くと、ドアの向こうの赤茶髪のひょろりとした青年が、いたずらっぽい笑顔を浮かべてこちらに手を振っていた。
デイジーの声に顔を上げたルーセントは、立ち上がって店のドアを半分だけ開ける。
すると、青年は遠慮なく店内へと入ってきた。
どうやらこの工房の馴染みの客のようだ。
「やぁ先生。突然押しかけてごめん」
「クロフトまだ開店前だぞ。注文の品はこちらから届けると連絡したはずだが……」
少し遅れてすまなかったな、とルーセントは白い顔料の瓶を包みに入れてクロフトに手渡す。
昨日セントラルで使ったものと同じ色だ。あの瓶は彼に渡すはずのものだったようだ。
「先生ってそういうところ真面目だよね。急に思いついてお店に押しかけてみたら、女の子がいるから驚いたよ!人付き合いの苦手な先生が珍しいよね……もしかして新しい弟子だったりする?」
「ええっと。居候させてもらうことになったけど、弟子ではないです」
目線を向けられたのでとりあえず答えたが、クロフトが面白がってじろじろと観察するのでデイジーは少々居心地が悪い。
見かねたルーセントが二人の間にすっと割って入った。クロフトの視線が遮られて、デイジーはほっと息をつく。
「それくらいにしてやってくれ。デイジーはなりゆきで預かっている子だ。どこかの弟子が途中で出ていってしまったのでな。部屋に空きがあってちょうど良かった」
ルーセントの皮肉っぽい言葉に、クロフトはひたすらバツが悪そうに頭をかいている。その様子を見れば、空き部屋の前の住人は明らかだ。
「それって僕の事……だよね!はじめましてデイジー。僕はクロフト。ルーセントの元弟子だよ。調色師の道は早々に諦めて、いまは先生の作った絵の具でちょっと面白い絵を描いてるよ」
「は、はじめまして」
眉間にシワをよせて聞いていたルーセントが咳払いして話を進める。
「それで、何の用なんだ?」
「そうそう!先生に追加の発注をしに来たんだった。どうしても欲しい色があるんだ。特急料金も払うから急ぎで頼むよ」
眉を下げつつ依頼してくるクロフトから依頼の詳細を聞いて、ルーセントは小さくうなずく。
「その調色なら比較的簡単だ。ただ、あいにく素材を切らしているものがあるな。この町で調達できるとは思うが……」
「そっかー。ヒルベリーで手配できるといいんだけど」
「それ、わたしも手伝う。お使いは得意だし」
昨日この工房に逃げ込む時に、ルーセントは絵の具を使って助けてくれた。
デイジーが返せる恩はなるべく返しておきたい。ルーセントは渋い顔で思案しているが、クロフトは満面の笑みで手を叩く。
「良かったね先生。この子は僕と違って、先生の言うこと素直に聞きそうだし。いい相棒になると思うよ」
「好き勝手言うんじゃない」
「面白そうだから調色が終わったら遊びに……いや、受け取りに来るから連絡してよ。それじゃ、僕はこれで」
クロフトは来たときと同じように手を振りながら店を出ていった。来る時も去る時も突然でまるで俄か雨のような人だ。
「まったく、本当にあきれたやつだ」
口ではそう言っているものの、ルーセントの表情は特に険しくはなかった。
「ルーセントさんってなんだかんだお人好しだよね」
そう言うと、ルーセントにじろりと睨まれてしまった。
眉間のシワのせいで迫力が増している。
「……言い出したからには君にも材料の調達を手伝ってもらうぞ」
「はい!もちろん」
今日は幸いクロフト以外の調色依頼は入っていないらしい。
午後早めに店じまいをして、二人はヒルベリーの町へ出ることになった。
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