1章2話 絵具工房
古びた緑の扉を半ば押し込まれる形でくぐり抜けたデイジーは、勢いよく部屋の中へと飛び込んだ。
体勢を崩して倒れ込みそうになる寸前、誰かに抱きとめられる。
柔らかい腕の感触とふわりと花のいい香りがする……。
視線を上げると、黒髪の美人が困ったように笑っていた。
「危なかったわね。えっと、どなたかしら?」
驚いたデイジーは飛び跳ねるようにして彼女から離れた。
「す、すみません!デイジーと言います」
「私はルフナ、この工房の隣人よ。ルーセント、留守にしていると思ったら一体どういう状況なの?」
ルフナはきれいな形の眉を下げながらルーセントに尋ねる。
「……納品先のセントラルで偶然出会って、なりゆきで助けた」
背後を確認したルーセントが静かに扉を閉める。
すると、騒がしかった雨音も男たちの怒声も、一瞬にして聞こえなくなってしまった。
「なんだか荒っぽい雰囲気ね。ここは安全な場所だから安心してちょうだい」
ルフナはそう言ってデイジーにやさしく声をかけてくれた。彼女の背後には小さな窓がある。
夕陽が室内に差し込み、遠くで子どもたちのはしゃぐ声がかすかに聞こえていた。
ガラス越しに見える景色はデイジーには全く見覚えのない場所だ。
「ここ……やっぱりセントラルじゃない?」
念押しとばかりにデイジーはルフナに聞いてみた。
「そうよ。ここはヒルベリー。西の端にある細工師たちが暮らす町」
「そんな遠い町に一瞬で!?」
国の西端にあるヒルベリーは、首都のセントラルから汽車で半日はかかる場所だ。
「この扉は遠く離れた場所どうしを繋ぐことができる。決まったいくつかの場所に限定されるがな」
そう言って手近な棚からタオルを取り出したルーセントは、それを無言でデイジーに差し出してきた。
全身雨でびしょ濡れなので、これで拭けということらしい。
彼自身も顔をしかめながら後ろに流した灰色の髪を丁寧に拭いている。きっちり整えた髪が乱れるのが嫌らしい。
シワひとつない身ぎれいな格好からして少々神経質そうだ。
「不思議な扉よね。今はもう作ることができない古い術が使われているんですって」
「古い術……」
ルフナの言葉をデイジーは麦わら色の髪を拭きながら口の中で呟いた。
緑の扉とすぐ横にある木製の大きな棚を観察する。
棚には小さなガラス瓶が天井近くまで並べられていた。瓶の中身は鮮やかな色をした粉末だ。
夕陽が当たると小さな光の粒が7色に輝いている。部屋の奥にはドアがあり、どうやら表は店舗になっているようだ。
色とりどりの瓶につい見入っていると、ルーセントがデイジーの黄緑の瞳をじっと観察しているのに気がついた。
慌てて瓶から目をそらす。
「その風変わりな目の色が追われていた理由か?……あいつらはただの人さらいでは無いだろう」
「まぁ。珍しい黄緑色の瞳ね。私は初めて見るわ」
この二人には話しても大丈夫だろうか。親切な二人を信じることにして、デイジーは迷いながらも正直に打ち明けた。
「この目の色、古い言い伝えを信じる人は『魔物の目』だって怖がるの。魔物と同じ目の色だって。さっきの人たちは多分この目に用があったんだと思う。私は魔力が見えるから」
正確に言えば、デイジーには魔力の素のシナンが光の粒として見える。普通の人間には見ることのできないものだ。
単にシナンが見えるだけの単純な能力だが、魔力が見えるということは強い力を持つ魔導具を見分けることができる。
「セントラルでは魔導具が希少で高く売れるんだ。仕事がないときは魔導具を狙うコソ泥の手伝いもしたことある。今日のやつらは私の目の事を誰かから聞いて、無理やりどこかに連れ去ろうとしてた」
「それで逃げていたところを、ルーセントに保護されたのね」
デイジーが一息に話すと、ルーセントが今までで一番深い溜息をついた。
「まったく、厄介な拾い物をしてしまったな……」
「その人たちもあなたがヒルベリーにいるとは思わないでしょう。出会ったのが生真面目なルーセントでよかったわね」
「ひとこと余計だ。ともかくまずは怪我の手当だな。ルフナがいてくれて助かった」
「そうね、あちこち擦り傷だらけだわ。待ってて、いま私の店から薬を取ってくるから」
「はい」
ルフナの言葉にうなずき、デイジーは手近の椅子に大人しく座った。
陽の光が弱くなってきた窓辺を見ながらルーセントが口を開く。
「今日はもう遅い。工房の空き部屋があるから今夜はそこに泊まりなさい」
「え、いいの?……ありがとう!」
「まさか無責任に外に放り出すとでも?」
不承不承というように再び溜息をつくルーセントを見て、ルフナは苦笑しながら緑の扉を開けて外へ出ていった。
この扉は、普段は工房の裏口として使っているらしい。
◇◇◇
その後、ルーセントが無言で工房の奥に消えてしまったので、デイジーはぼんやりと窓の外の景色を眺めてルフナの戻りを待つ。
しばらくして、ルーセントが熱いお茶を手に戻ってきた。自らお茶を淹れてくれたらしい。
「雨で冷えただろう。飲みなさい」
ルーセントに渡されたマグカップを両手で包むようにして持つと、じんわりと温かさが手のひらに伝わってくる。デイジーは何度か息を吹きかけつつ一口飲んで驚いた。
「!? すごくおいしい。これも魔導具?」
お茶の美味しさに感動したデイジーは、どこかにシナンは見えないかとマグカップをあらゆる角度から確かめる。
「なんの細工もないぞ。ただのお茶だ」
ぶっきらぼうに言うルーセントの口角がほんの少し得意気に上がっている。
「それ……。もしかして笑ってる?」
デイジーはこの紳士の笑顔がよく見たくて顔をのぞき込んでみる。
しかし、ルーセントと目が合うとすぐに視線をそらされてしまった。
「ねぇ。ルーセントさんは絵の具屋さんなの?」
「そうだ。厳密に言えば調色師という職種だが」
窓の方に視線を向けたままルーセントが言う。
「どんな仕事なの?さっきのは手品みたいだったよ」
デイジーは先程見た光景を思い出して尋ねる。
「調色師は魔道具や工芸品に使う特別な色を調合する仕事だ。あれは少し魔力の強い絵の具だったから、雨に反応してうまく霧になってくれた」
調色の中でも鉱石などを砕いて作る顔料が専門だ、とルーセントは教えてくれた。
「わたし、細工師に初めて会ったよ。セントラルにはほとんどいないから」
「かなり修練が必要だからな。セントラルでは特に機械化が進んでいる。わざわざ細工師になりたがる者は少ないだろう」
「ふうん……。こんなにキレイな絵の具を作れるのに」
片方の眉をぴくりと動かしてルーセントがようやくこちらに視線をあわせる。
「そうか、キレイか」
ぽつりとつぶやいたルーセントの声はほとんど聞き取れないくらい小さかった。
デイジーが小首をかしげていると、ちょうどルフナが工房に戻ってきた。
「おまたせ。とっておきの薬を持ってきたわ。さあ腕を出して」
ルフナは慣れた手付きですばやく手当てを始める。特製の塗り薬を塗られた箇所はあっという間に痛みがなくなった。
デイジーは確かめるように怪我した方の腕をぐるぐると振り回す。
「すごい。もう全然痛くない!ありがとうルフナさん」
「うふふ、どういたしまして。あとはその濡れネズミみたいな状態をなんとかしないと……。ぼろぼろの服も着替えさせたいわねぇ」
にこにこと笑みを浮かべたルフナは、決して否とは言わせない迫力でデイジーにせまってくる。
「服はとりあえず私のを貸してあげるわ。デイジーに着せたい服があるの。まずはお風呂からね。薬草湯にしましょう!体を温める香草はと……」
妙に気合いの入るルフナにデイジーは思わず後退りする。
ルフナの背後に立つルーセントに視線を向けると、難しい顔をした彼は小さく首を横に振っていた。大人しく彼女の言うことを聞けということらしい。
「ここであなたに風邪を引かれたら薬師の名に傷がつくわ。ルーセントも後でちゃんと着替えるのよ?明日鼻をすすったりしてたら承知しないわよ」
顔をしかめつつ素直にルーセントもうなずく。ルフナには誰も逆らえないのかもしれない……。
◇◇◇
ほぼ強制的に、工房に隣接するルフナの店舗兼・自宅に連行されたデイジーは、湯に入れられ夕食までご馳走になった。
ルフナ曰く、ぼろぼろのデイジーを見て捨て猫を拾ったような気分になったらしい。
ルフナの親切に感謝して家を後にしたデイジーは、裏庭づたいに工房へと戻る。
工房につながるこの庭には、薬の調合に使用する薬草や低木などが植えられている。青くさい草木の匂いを嗅ぎながら、緑の扉を開けて工房の中へ入った。
2階の作業場をドアの隙間からそっと覗くと、作業台に立つルーセントが砕いた鉱石の粉末と、透明な液体とをガラス製の道具で練り混ぜていた。
デイジーは遠慮がちにドアをノックする。
「なにか用か?」
「ルフナさんに協力してもらって夜食を作ってみたの。部屋を貸してくれたお礼。ルーセントさん一度集中しちゃうと、ご飯も忘れるって言っていたから」
手元から顔を上げたルーセントは、少し意外そうな表情でデイジーを見た。
「すまないな。後でもらうからそこに置いておいてくれ。今は少し手が離せなくてな。それと、部屋のことは気にするな」
「うん、わかった」
デイジーは空いている机の上にバスケットを置いた。
ふと、部屋の隅に置いてあるイーゼルが視界に入る。カンバスには布がかかっていて中身はわからないが、デイジーの目にはシナンの光の粒が見えている。
ルーセントの絵の具を使った絵画だろうか。
「あれはルーセントさんが描いている絵?」
ルーセントはデイジーの指差す部屋の隅へ視線を向けた。
「いや違う。あれは後で処分しようと思っているものだ……」
何でもないことのように言うルーセントだったが、若干声色がかたい気がする。
少し気になるものの、ルーセントの周りに見えない壁があるように感じて、デイジーはそれ以上踏み込めなかった。
「今日はいろいろあったんだ。子供はさっさと寝なさい」
「うん、そうする。……それじゃ、おやすみなさい」
ルーセントに挨拶をして空き部屋へと入る。廊下の突き当りのベッドがひとつだけ置かれた小さな部屋だ。
定期的に手入れされているようで埃っぽさは感じない。たとえ狭くてもデイジーにとっては最高の寝床だ。
「ベッドがふかふかだ」
ベッドに横になると、窓からは半月が青白い光で町を照らしているのが見えた。デイジーは仰向けになりつつ、首から下げた飾り笛を取り出す。
普段は服の中に隠して見えないようにしているが、幼い頃母にもらった笛だ。
様々な色糸で複雑に織られた組紐に、独特の模様が描かれた陶器の笛がくくりつけられている。
この笛は吹いてみても何故か音が鳴らなかった。
役に立たない古い笛だが、デイジーはお守りとして身につけている。なんとなくこの笛を見ると落ち着く気がする。
「しばらくセントラルには戻らない方がいいだろうし、これからどうしよう……」
不安な気持ちでいっぱいだったが、横になった途端デイジーはあっという間に眠気に抵抗できなくなった。
薬湯の効果もあるのだろうか。まぶたが意思と関係なしにどんどん下がってくる。
「とにかく明日……起きたら、考えよう……」
笛を握りしめたまま、デイジーはベッドに沈み込むように眠りに落ちていった――。
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