絵の具をひとさじ

ナヲザネ

1章1話 緑の扉

 雨の国―。この国は不思議と雨が多い。そして北の霊峰から湧き出る水にはシナンと呼ばれる魔力の素が含まれており、古くから様々な恩恵を与えてきた。


 人々は長い年月をかけ、魔力を物質に封じ込める方法を見つける。それ以来、この国独自の魔道具まどうぐや工芸品などを発展させてきた。それらを作る人々を総称して細工師さいくしと呼ぶ。



 ***



「ご依頼の紅の顔料です」


 雨の国の首都・セントラル。その街角にある老舗のベーカリーをルーセントは訪ねていた。工房の刻印入りの瓶を鞄から取り出し相手に手渡す。


「わざわざ届けさせてすまないね、ルーセントさん。この街は細工師が少ないからなぁ。来てもらって助かったよ」


 張りのある声の店主にうなずき、ルーセントは静かに返す。


「セントラルは機械化が進んでいますから」


 そうだなあ、と大柄の店主は石造りの竈を大きな手で軽く叩いた。使い込まれた竈の外側には、炎のような文様が紅い塗料で描かれているが、ところどころ塗料が剥げてしまっている。


 薄れてしまった文様を描き直さなければ火力が安定しない。修繕するには特別な顔料が必要だ。


 仕入れのためにセントラルへやって来たルーセントは、その帰路に依頼された顔料を納品するため店に立ち寄っていた。


「魔道具は扱いにくいところもあるが、うちのパンはやっぱりこの竈じゃないと。おかげでようやく修理できるよ。ルーセントさんは絵を描かないのかい?」


「……はい。私は調色師ちょうしょくしですので」


 ルーセントは返答にほんの少し詰まったが、おおらかな店主は気に留めなかったようだ。にこやかな笑顔のまま話を続ける。


「セントラルは久しぶりだろう?お茶でもどうだい」


「いえ、次がありますので」


 誘いを断る口実に嘘は言っていない。ルーセントは主人に丁寧に礼を告げると足早に店を後にした。


 陽が傾いてきたセントラルの街並みは厚い雲に覆われ、またたく間に雨が降り出した。赤いレンガ屋根の家々は今や一面の灰色と化している。


 石畳から跳ね返る雨水に顔をしかめながら、ルーセントは目抜き通りから細い路地に折れ、ひと気のない路地裏へと進んだ。



 斜めに降り注ぐ雨粒をコートの襟を立てて凌ぐ。

しばらく地面ばかり見て歩いていると、雨音に混じりなにか物音が聞こえた気がして足を止めた。


 音のした方向に耳をすませる。


「おい、逃げたぞ!」


「くそ、あいつどこいきやがった!」


 路地の建物に反響して、かすかに複数人の足音と怒声が聞こえてくる。

 大都市とはいえ、一歩裏道に入ると危険な場所もある。鞄には大事な仕事道具が入っているため、物盗りに狙われては困る。


 厄介事を避けるため、ルーセントは物音から遠ざかるように進路を変えた。

 剣呑な雰囲気と比例するかのように、雨の勢いは増す一方だ。


「傘を持ってくるべきだったな……」


 ルーセントが何気なく空を見上げたとき。突然、頭上の屋根から黒い影が降ってきた。


「っ!」


 それはほとんど音も立てずにルーセントの目の前にひらりと着地する。あまりの身軽さに獣と錯覚しそうになるが、それは一人の少女だった。


「あ、人がいた」


 顔をあげた少女と目が合う。頭に深く被ったフードの奥で、黄緑色の瞳がきらりと光った気がした。


「なんだ、一体……」


 野良猫のような目つきの少女は、明らかにこちらを警戒している。

 着ている服はあちこち汚れており、短い袖からのぞく腕はあちこち汚れや擦り傷がついている。


「ごめん、そこどいて。急いでるの!」


 立ちすくんだままのルーセントを押しのけるようにして、少女は走り去ろうと足を踏み出す。

 ほとんど反射的にルーセントは少女に声をかけた。


「ちょっと待ちなさい」


 ぴくりと少女が反応し立ち止まる。振り向くのを待たずにルーセントは続けた。


「何があったか知らんが、誰かに追われているのか?」


 少女の様子と、先程聞こえた怒声から推測して尋ねる。面倒になるのはわかりきっているが、傷だらけの少女を目の当たりにして、そのまま放置という訳にはいかない。


 ルーセントの言葉に少女は戸惑いながらも小さくうなずいた。


 見たところ13、4歳だろうか。見ず知らずのルーセントに身構えてはしているものの、この状況にも関わらず冷静さを保っているように見える。


「行くあてはあるのか?」


 淡々と質問するルーセントに対して、少女が窺うようにこちらを見上げてくる。

 じっとルーセントの瞳を見据えたあと、首を横に振った。


「ない。わたし孤児だから」


「……そうか。この近くの安全な場所は――」


 思案している間もなく、路地の壁に反響していくつかの人間の声と足音が聞こえてくる。


 ルーセントは覚悟を決めて軽く息を吐いた。


「わかった。ついてきなさい」


「え?」


「手を貸すと言っている。私はルーセント。名前は?」


「デイジー。気難しそうな人だと思ったけど、おじさんいい人だね」


「……ひとこと余計だ」


 灰髪と無愛想な顔のせいで、ルーセントは不本意ながら実年齢より老けて見られがちだ。自然と眉間のシワを深くしながら無言で歩き出す。その数歩後ろをデイジーが大人しくついてきた。


◇◇◇


 しばらくお互い黙ったまま、周囲を警戒しつつ見通しの悪い場所を静かに進む。


「その道より、こっちの方が見つかりにくいよ」


 デイジーはセントラルを独り転々として暮らしているようで、抜け道や目立ちにくい迂回路などに詳しかった。そんな環境で生きてきたなら、危険な目にも何度も遭ってきたのだろう。そう考えると先程の態度にも納得がいく。


「この先だ」


 やがて二人は、街はずれの路地の突き当りに行き着いた。三方を白い壁に囲まれた通路に古びた緑色の扉がひとつ。不思議な存在感を放っている。


「え、まさかあの扉?壁に張り付いているだけに見えるけど……」


 一気にデイジーの表情が曇る。不自然に壁に張りついた扉を見れば当然かもしれない。


「私の工房につながる入口だ」


 ルーセントは扉の前まで進み、真鍮製のドアノッカーに手をかける。

 風変わりな蛙の意匠デザインのドアノッカーは、何代も前から使い続けているものだ。それと同じ意匠のピンがルーセントの襟元にも光る。


 決まったリズムで扉を叩きドアノブを回す。木のきしむ音と共に開いた扉の向こうは、工房の一室で窓からは赤い夕陽が斜めに差し込んでいた。


 セントラルは相変わらず雨が降り続いているが、あちらは晴れているらしい。


「えっ?……一体どういうこと?」


 デイジーは扉の向こうとこちらの景色を交互に見て、ひたすら困惑している。


 その時、二人の背後から追手の足音が聞こえてきた。まだ追跡を諦めていなかったようだ。

 執拗にデイジーを追いかけてくるあたり、ただの人さらいではないのかもしれない。


「おい、見つけたぞ。こっちだ!」


 二人の姿を発見した男が、こちらを指差して仲間に叫ぶ。男の声を聞いて、周囲に散っていた仲間たちが集まってきた。


「悪いが説明はあとだ。……これが目くらましになればいいが」


 ルーセントは鞄から小さなガラス瓶を取り出す。この後友人に渡す予定のものだったがやむを得ない。扉に半分体を入れたまま、デイジーが興味津々の様子で手元をのぞきこんできた。


「それって、絵の具?」


「そうだ。正確に言えば顔料だが」


 瓶の中身は乳白色の粉末に見えるが、少し揺らすと液体のように動く。

 ルーセントが調合した魔力を含んだ顔料だ。


 そのガラス瓶をためらいなく地面へと投げつける。


 瓶が割れた瞬間、光る霧のようなものが広がり、路地一体を包み込んだ。

 駆け寄ってきていた追手の男たちが驚いて足を止める。


「なんだ!?……くそっ。前が見えない」


 慌てふためく男たちを尻目に、ルーセントはデイジーを扉の向こうへと強引に押しやる。


「今のうちに早く中へ」


「う、ちょっと。わぁっ」


 妙なところで好奇心を見せるデイジーを工房へと逃し、ルーセント自身も室内へ入る。


 ドアノブに手をかけながら背後を確認すると、真っ白な視界の向こうで複数の影が未だに混乱していた。

 猫だましのようなものだが、細工師の少ないセントラルの者たちには効果的だったようだ。霧が消えないうちにさっさと退散する。


 古びた緑の扉がぱたんと小さな音を立てて閉まる。

その直後、扉は白い壁に溶けこむようにすうっと消えた。


 少女を追ってきた者達は、完全に二人を見失った――。


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