第21話 本部読幸と綾上鈴(下)

「あれ、兄さん。なんか今日はちょっとお洒落してるね。……鈴ちゃんとデート?」


「うん、そうなんだ」


 幸那ちゃんと、玄関の前で言葉を交わす。


 綾上と付き合ってから、初めての休日だ。

 今日は、彼女――そう、恋人になった綾上と一緒に、動物園にデートをしに行く予定なのだ。


 俺はネットで、「爽やか白シャツがデート服にはイチオシ!」という情報を仕入れていたのだが、幸那ちゃんからも受けが良いみたいで、少し安心した。


 昨日は背伸びして美容室で髪も切ってもらったし、セットの仕方も教えてもらった。


 なんだか気合が入りすぎだと思われるかもしれないが……気合が入りすぎているのは事実である。


 そういった指摘は、甘んじて受け入れよう。


「それじゃ、行ってくるよ」


 と、靴を履いてから立ち上がると、


「あ、ちょっと待って、兄さん。襟、曲がってるよ」


 そう言って、幸那ちゃんは俺の襟を正してくれた。


「頑張ってね」


 そして、背中をポンと押して、微笑みかけてくれる。


 ……天使だ。


「ありがとう。それじゃ、今度こそ。行ってくるね」


「うん、行ってらっしゃい」







 動物園の最寄り駅の改札付近。

 俺はそこで、綾上を待っていた。


 行きかう人を見て、綾上が来ないかをキョロキョロ探すのだが、まだ集合時間の20分前。

 しばらく来ることはないだろう、俺の到着が早すぎた。


 俺は、待ち時間に今日の目的(・・)を頭の中で確認しようとして……。


「あ、あれ? ……君、だよね?」


 聞きなれた声。

 俺が振り返ってみると、そこには文学少女風の清楚な恰好をした女の子。

 綾上がいた。


 ……何度か綾上の私服姿を見たことはあるものの、改めて見ると……やはり、可愛い。

 普段は薄く化粧をしている程度だと思うのだが、今日はナチュラルさを崩さないまま、普段よりも気合の入ったメイクをしてくれているようにも見える。


 ……可愛い。

 それ以外の言葉が出てこなかった。


「うん、俺だけど。……やっぱ、変かな?」


 俺は頬を掻きながら、綾上に問いかける。

 綾上みたいな美少女の隣を歩くのだから、多少はマシな恰好をしなければ、と思っていたのだが。

 肝心の彼女にはどう思われただろうか。


「……格好よくって、別人かと思いました。やっぱり幸那ちゃんのお兄ちゃんなんだね」


 頬を朱色に染めつつ、俯いて告げる綾上。


「あ、ありがとう。……綾上も、めちゃくちゃ可愛いよ」


「うぅ……」


 俺が言うと、綾上は恥ずかしがって

 付き合う前はあんなに積極的だったのに、付き合ってからというもの、綾上はこんな感じで恥ずかしがってばかりだ。


 そんな綾上の手を握ってから、俺は尋ねる。


「実は俺、ちょっと不安なことがあってさ」


「え、不安? どんなこと?」


 手を繋いだことでさらに顔を赤くした綾上が尋ねる。


「綾上、付き合う前はあんなに積極的だったのに、最近は恥ずかしがってばかりだから。……釣った魚にエサはやらない、的な考えなのかな、と不安に思って」



「き……、君のデレ方の威力が高すぎるせいですから……っ!!! 私はペースを崩されっぱなしです!!!」



 顔を真っ赤にして、俺の言葉に対して怒った綾上。


「で、でも。……幸那ちゃんに対するデレ方を考えれば。これでもまだ控えめ、なのかも」


 ちらり、と俺を横目で伺う綾上と目が合う。

 さらに顔を真っ赤にした。


 そして、繋いでいない方の手で、俺に見られないように綾上は顔を隠そうとするのだが……それが、本当に可愛らしい。


 俺は幸せな気持ちになって、


「さ、行こうか」


 と、照れ屋な彼女とともに歩き始めるのだった。





 天気は快晴。

 動物園に遊びに来るには、絶好の日だ。


 今日は休日なだけあって、家族連れや俺たちのような若いカップルで園内はにぎわっていた。


「さて、とりあえずぐるっと一周してみようか?」


「うん、そうだね」


 俺たちは案内板をみて、園内を一周することに。



「わー、ゾウだ、おっきいね!」

「キリン、首なげー」

「わぁ、パンダだ! ……全然動かないね」

「うぉ、ライオンだ! やっぱ迫力あるなぁ」

「あ、パンダだ!」

「もうみた」



 俺たちは色んな動物を見て回った。

 動物の生態を見て回るだけだと思っていたが、これがいかんせんテンションが上がる。


 カバとかサイとかゾウとか、でっかい生き物をみると、「すげー、喧嘩になっても絶対勝てねーよ!」みたいな頭の悪い感想が次から次に出てきて、そのたびに綾上にはくすくすと笑う。


 ちなみに、動物園デートの最中。

 綾上のポンコツっぷりは、なりを潜めていた。


 俺は正直、少し心配になった。

 綾上からポンコツ可愛いを取ったら、一体何が残るのだろうか?



 ……あれ、もしかしてただの美少女になっちゃう!?



「どうしたの? 疲れちゃった?」


 柔和に微笑む綾上が問いかける。

 俺は首を振ってから――。


「いや、大丈夫だよ。鈴は疲れてないか?」


「うん、私も大丈夫だよ。……ふぇ? え、鈴?」


 ワンテンポ遅れて反応した鈴。

 ……俺の今日の目標は、綾上を「下の名前で呼ぶこと」だった。

 こう、自然な感じで受け入れてもらえないだろうか、と思い今のタイミングで読んでみたのだが、かなり引っかかったようだ。


 そうなると、俺も照れくさくなってしまう。


「や、やっぱり。綾上って呼んだ方が「鈴で良いよ! ううん、鈴が良い!」お、おう」


 俺の言葉に食い気味で言ってきた鈴は、自分の行動に後から照れてしまったのだろう。


「でも、その……いきなり呼ばれたら、びっくりするんだからっ! 君は、ホント……もう! ときめき独占禁止法違反で逮捕されても知らないんだからっ……」


 すごいバカな法律を作ってしまった鈴。

 ポンコツっぷりは健在そうで、俺は少し安心した。


「さて、それじゃ結構時間も経ってるし、ご飯でも食べに行こうか」


「……はい」


 照れくさそうに頷く鈴と、俺はもう一度彼女と手を握り直して、動物園を後にした。




「別に、駅までで良かったのに」


 二人でご飯を食べた後。

 俺は鈴と同じ方向の電車に乗り、彼女の家の近くまで送ることにした。


「鈴みたいな可愛い女の子が暗い中一人で歩いていたら、危ないだろ?」


「大丈夫だよ、人通りの多い道で帰っているし。て、いうか。……君と一緒にいる方が、危ないよね?」


 試すように尋ねる鈴に。


「……ごめん、否定できない」


 俺は正直に応えた。


「……ば、ばかっ! ホント、君デレすぎだからっ!」


 顔を真っ赤にして、鈴は俯いて言う。

 可愛い。


「鈴が可愛すぎるのが悪い。俺は何も悪くない」


「う、うぅ……なにそれ、嬉しすぎるよぅ。でも、心臓がバクバクして、大変だよ」


 ぎゅ、と俺と繋いだ手に力が込められた。


「……ちょっとだけ、寄り道しませんか?」


「……うん、あんまり遅くならないんだったら、良いよな」


 鈴は俺の返事に、にこりと頷いた。



 そしてしばらく歩いた後、案内されたのは遊具もほとんど無いような小さな公園だった。


 夜の暗い時間なこともあってか、周囲には誰もいなかった。


 互いの身体が触れ合うくらいの距離で、俺たちはベンチに腰掛けた。


 そして、手を握ったまま、話す。


「誰もいないし、すっごく静かだね。世界に、私たち二人だけみたい」


「……でも、近所のご家庭が晩ごはんと思われるカレーの匂いが、その雰囲気を台無しにしてるよな」


「……確かに」


 クスリ、と無邪気に笑う鈴。

 俺もおかしくなって、思わず笑ってしまった。


「今日は、すっごく楽しかったです」


 俺の肩にしなだれかかり、鈴は言う。


「うん、俺も楽しかった」


「……私、すごく幸せだな」


「俺も」


 本当に、幸せだと思った。

 これから先も、二人でならきっと幸せでいられる。

 そう思っていた。


 だけど、鈴の続く言葉を聞いて、俺は――。


「動物園、良い取材になりました。……あっ」


 しまった、というような表情を浮かべてから、


「ごめんなさい」


 鈴は、辛そうな表情で俯いて、そう言った。


 俺はその表情を見て、思い知る。



 きっと彼女は、まだ迷っている。

 吹っ切れていない。


 だから――こんなに、辛そうな表情を浮かべるのだろう。



 俺は、鈴にこんな表情をさせたくない。

 そう思ったから、彼女と付き合うことにしたんだ。






 ――鈴。







 俺は彼女の名前を読んで、肩を掴んだ。

 

 華奢な肩は、びくりと跳ねる。

 でも、驚いただけで、抵抗するような感じではなかった。


 どうすれば彼女の不安を取り除けるかはわからなかった。


 どうすれば彼女の迷いを忘れさせられるのか、わからなかった。


 でも、きっと。

 今の俺にできるのは、これだけだ。


「キス、しても。良いか?」


 緊張して、思わず上ずった声。

 ちょっとキモかったかもしれない、けど。

 俺もこれが限界だ。

 めっちゃ、緊張する。


 鈴は少しだけ困ったような、でもどこか幸せそうに笑ってから。


 瞳を閉じた。


 俺はそのまま、彼女の唇と自分のそれを重ねようとして――。










 


 彼女が涙を流していることに気づいて、やめた。











「あ、あれ?なんでだろ。嬉しいはずなのに……ごめんね、目に、ごみでも入ったのかなぁ」


 あはは、と努めて明るく振舞おうとする鈴を見て、俺はどうしようもないことに気づいてしまった。


 肩を掴む手に、力が籠ってしまう。


「……あのさ、鈴。本当は、まだ小説を書きたいんだよな?」


「……それは」


 言葉に詰まる鈴の目元の涙を拭う。


「ちゃんと、考えてほしい」


「え?」


「俺はただの読者だから、詳しくはわからない。だけど、多分。鈴の小説で傷ついた心は、小説を書くことでしか癒せない。……いや、ごめん。小説を書いたって、癒せないのかもしれない。それでも、今の鈴に必要なのは、俺と一緒にいることじゃないんだと思う」


 ここまでで、ようやく気付いた。

 

「俺から告白しておいて、こんなこと言うのは、無責任なんだと思う。でも、ごめん。俺には、鈴の悩みも迷いも、取り除くことができそうにない。だから――無責任なことを、言わせてくれ」


 俺は、彼女の――『三鈴彩花』の助けになることは、何一つとしてできそうにない。

 それは、すごい悔しいことだった。



「小説を書くこと、辛いなら辞めたらいい。今でも俺は、そう思っている。だけど、それだけじゃないのなら。心のどこかで燻っている火種がまだあるのなら。――もう一度、その気持ちとしっかり向き合うべきだと、俺は思う」


 まっすぐに俺は鈴を見つめる。

 だけど、彼女は俺の方を見ようとはしない。


 俯いたまま考え込み、そして――。



「少しだけ、考えさせてください」



 鈴は、ただ一言応えた。

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