二話

ーー変異種でも、彼は彼です。


いつもより長く感じた浮遊感と真っ暗な視界が元に戻ると、周囲の景色は一変していた。

目に入ったのは広大な湖と石橋。遠くを見れば小島と木の家が建っている。どうやら転移された場所は、湖の畔みたいだ。

ロイドは腕だけで上半身を持ち上げる。が、背中に激痛が走り、立ち上がれない。


「ぐっ……クソがっ」


苛立ちに悪態をつく。足の感覚があるから脊髄までは痛めてないみたいだが力が入らない。腕だけで地面を這おうとするが、縫い留められたマントが邪魔だ。

歯を喰い縛り、背中に刺さっているナイフを抜く。ズルズルと抜けていく感触が気持ち悪いが、堪えて最後は一気に引き抜いた。


「はっ……」


呼吸が荒く、流れる脂汗が気持ち悪い。ナイフを抜いたからドクドクと血が溢れてきた。

だが、そんなことに頓着している暇はない。

腕だけで這っていくが、遅々として進まない。怒りと焦りでどうにかなりそうだった。

と、小島から何かが石橋を駆ける姿が見えた。瞬く間にロイドの元まで辿り着いた獣がキョロキョロと見回した。


『レティ、ハドウシタ?』


ラフィだ。ロイドとレティが戻るまで律儀に待っていたらしい。

ロイドは急いでラフィに頼んだ。


「おいっ、回復薬を持ってきてくれっ」

『何ッ!?……レティハ……?』

「時間が惜しい。頼む」


緊急だと察したのか、ラフィが踵を返して家に戻る。あっという間に玄関まで到着するが、扉を開けられないのか右往左往と立ち往生していた。


「……どけっ」


片手を上げてロイドが叫ぶ。拳大の氷の球が唸りながら高速で飛んでいく。

慌ててラフィが横に飛び退いた。轟音を立てて扉がぶち破られる。

蝶番が辛うじて引っ掛かり、キィキィと揺れている。後でレティに謝らないとな、と頭の片隅で場違いなことを考えた。

扉が開いたのを確認したラフィが家の中に飛び込んでいき、直ぐに籠を咥えて出てきてくれた。

ロイドの手元に籠を置いたラフィは鼻先に皺を寄せて数歩後ずさっていた。匂いが相当嫌だったらしい。

その様子を視界の端に捉えながら、震える手で籠の中をまさぐる。

取り出したガラス瓶の蓋を何とか指先で開ける。薄桃色の液体を一息に飲み干した。

効果は直ぐに現れた。初めて飲んだ時は熱に浮かされていたから分からなかったが、痛みが嘘のように引いていくのを実感した。

ロイドは立ち上がり、傷の具合を確認する。穴の空いた服に手を触れるが、小さな傷跡が残っているだけだった。

手を開いたり閉じたりする。負傷した影響で体力の消耗を感じるが、まだ動ける。

ロイドは急いで家に向かった。中に入り、一足飛びで二階まで駆け上がる。壁に立てかけてあった剣を引っ掴んで腰のベルトに挿した。面倒とばかりに手すりから下に飛び降り、外に出た。

陽は殆ど傾いて森の木々の向こうに隠れようとしている。まだここに転移してからそんなに時間が経っていないはずだが、薄暗くなる景色に怒りと焦りで無意味に舌打ちをしてしまう。


『オイ、一体ドウシタノダ?』


ロイドの側にラフィが走り寄ってきた。まだ薬の匂いが残っているのか、皺を寄せて唸りながら問い掛けてくる。

だが、ラフィに気を遣る余裕はなかった。

後から後から込み上げてくるドス黒い感情のせいで、ラフィの思念も頭に入らない。代わりに、最後に見えた記憶の中のレティを思い出してより焦燥に駆られる。

ロイドが影に沈む寸前、横で彼女も倒れ伏していた。手を伸ばせば届く距離だったのに、何もできずにロイドだけがこの森に飛ばされた。

ラフィがまだ何か思念で訴えていたが気にも留めずに走り出す。石橋を渡り、何も考えずに森に入ろうとする。

ふと、湖の畔に置きっぱなしだった籠が目に入った。乱暴に捲られた布の隙間から薄桃色の液体が入ったガラス瓶が覗いている。

倒れたレティを思い出して籠に手を伸ばす。持って行けば何かの役に立つと思って。

その動作に血で重くなったマントが揺れた。バサリと前にズレてくる。

胸元のブローチが、残った陽の光に微かに反射して、視界の隅に映った。


ーーこれで、お揃い、だね。

ーーこれ、カモミールの花なの


レティの言葉が脳内に響く。

ロイドの動きが止まる。何故か急速に頭が冷えていくのが分かった。

常に感情が読み取りにくいのに、あの時だけは嬉しそうにーー本当に、小さな笑みを漏らしたのをロイドは見てしまった。

胸が熱くなって上手い言葉が返せなかったのを思い出す。この感情が何なのか、今のロイドはもう理解していた。

眠っていた日を含めて僅か十日ばかりの関係なのに、そんな感情を抱くとは夢にも思わなかった。てっきり世間知らずな彼女に庇護欲が湧いているだけなのかと思っていた。


ーーロイさんはロイさんで私は私ですし


彼女と初めて街に入る前に言われた言葉が記憶から蘇る。

もしかしたら気付いていなかっただけで、その時からロイドはレティに惹かれていたのかもしれない。何せ初めて抱いた感情なのだ。鈍感だと言われても仕方がない。

彼女の姿を思い起こすと、沸騰しかかっていた頭が完全に冷静さを取り戻した。

周囲に気を配る余裕ができたロイドは後ろを振り向く。直ぐ側にラフィがいた。ロイドのただならぬ空気を感じ取ったのか、険しい表情でロイドを見ている。


『何ガ、アッタ?』


先程から何度もラフィから問い掛けられていたが、ようやくロイドに伝わった。


「レティが危ない」


簡潔に答える。もっと詳しく説明してやりたいが、生憎と時間が惜しい。


「街に戻りたい。案内できるか?」


ロイドも太陽の位置を確認する。目的の方向を探すが、一度森に入ってしまったら木々が邪魔で再確認は難しい。最悪、迷子になる可能性すらある。


『無論』


ロイドの雰囲気を感じ取ったラフィも手短に返してくれる。首を振り、ロイドの前に移動する。

籠を乱暴に掴んだのが合図だった。ラフィが疾走を開始し、ロイドが後に続いて駆け出す。

まずは湖をグルリと回り込みながら走る。目的の方向は、石橋から見てほぼ反対の方向だった。

面倒だと思いながらも、もう焦燥感に苛まれることはなかった。

ここからは冷静に対処しなければならない。

そもそも攻撃を受けたこと自体、無様な話だ。胸が高鳴っていた余りに敵の襲撃に反応が遅れてしまい、一撃をもらうなど間抜け過ぎる。ずっと周囲を警戒していたのは何だったのか。

お陰で馬鹿なことに買い物袋を駄目にしてしまった。折角包んでくれた菓子が、久しぶりだと言っていた果物が、ガラス瓶が、全部台無しになってしまった。扉の件共々、後でレティに詫びなくてはならない。

レティの姿がまた脳裏を掠める。彼女は街では魔法が使えないと言っていた。

にも関わらず、男の放った炎の魔法を影の魔法が完全に相殺していた。無理をすれば使えると言っていたが、彼女が昏倒したのは魔法を使用したのが原因なのか。

一人残された彼女に不安を抱くが、それをバネに更に足に力を込める。やっと行きたかった方角に到達し、ラフィと森に入っていく。


「ちっ」


森に入って直ぐにロイドは舌打ちした。足場が悪すぎる。

滑りやすい腐葉土や入り組んだ木や岩などの障害物。真っ直ぐ走れずにガクンとスピードが落ちた。我を失うほど激昂はしないが、もどかしさに苛々してくる。

前を走っているラフィとの距離が徐々に開いてくる。後もう少しすれば魔物も出てくるはずだ。無駄な時間が増えると思うと、身体と気持ちが先走りそうになる。

無駄な体力は使いたくないから気持ちを鎮めようと走ることに集中する。

と、いつの間にか速度を落としたラフィに追い付いた。

横に並んだラフィを不審に思うが、ロイドが口を開くよりも先に頭に硬質な声が流れてきた。


『乗レ』


一瞬、何を言われたのか理解できなかった。が、咄嗟に手を伸ばしてラフィの首の毛を掴んで背中に跨がった。

馬と違って犬の姿をした背中なんぞ構造的に乗れないだろ、と心の中で呟いたが杞憂だった。

ロイドが背に乗った直後、物凄い速さで景色が後ろに流れた。


「う、おっ」


思わず腿に力を入れて、毛を強く掴む。

ラフィは軽々と疾走する。そう言えばかなり大きい鹿を頭上から降らせていたから、ロイド程度なら問題ないのだろう。動きが立体になってきた。

が、ロイドとしては馬にも殆ど乗ったことないから正直かなり乗り難い。バランスの悪い犬の背だから尚更だった。

籠の中の瓶がガチャガチャと音を立てる。いつもより隙間が大きいから街に着くまでに割れるかもしれない。

籠の中身を気にしながらラフィの背中にしがみつくのは至難だった。運動神経には多少の自信があるが、次は絶対に乗らないと決意する。今回だけだと己に言い聞かせて、振り落とされないように更に身体に力を入れた。

ただ、ロイドが走るよりも遥かに早く街に着くだろう。心の片隅で、ラフィに感謝した。

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