八話

小柄な身体から何度目かの溜息を漏らすのが聞こえてきて、ロイドは彼女が見ていないことを良いことに穏やかに目を細めた。内心では小さく苦笑してしまう。

さっきから深呼吸と溜息が交互に繰り返されている。深呼吸は隠しているのか静かに行われているが、生憎とロイドは五感が人並み以上で、その中でも聴覚が特に優れている。難儀に思うことも多々あるが、こうしてレティの小さな変化に気付けるのだから悪くないとも思ってしまう。

それでも作業の手は止まらないのだから素直に感心する。ゴリゴリと規則的な音を聞きながら窓の外を見れば、風にそよぐ湖が見えた。反射する太陽の位置を確認して昼が近いのがよく分かる。そろそろ昼食の準備だ。読み掛けの本をテーブルに置いた。

もう少しすればレティが薬草を煮込むためにストーブを使うだろう。だから、庭に設置した簡易の竈で肉を焼くかと考える。

一昨日にラフィから届けられた兎の肉がまだ残っていた。それで簡単なシチューでも作ろうかと腰を上げる。

兎は例の牡鹿事件の翌日から律儀に送られてきた。薬草を取りに外に出たレティが、一羽の兎が石橋の上に転がっているのを目にして丸くしていた。

更に次の日に案の定、同じように兎が置かれていたが、一昨日は無かったのを見てレティはしきりに不思議がっていた。ラフィのことだから止めるまで毎日届けてくると思っていたらしい。まあそれはロイドが止めた。

レティがまた集中しようと半ば無理矢理に意識を乳鉢に向けているのを横目に鍋や器具を拝借する。一心不乱にすり潰しているためロイドが横にいても気付く気配はなかった。

適当な野菜と冷凍漬けにした肉を貯蔵庫から持ってきて外に向かう。玄関から見て畑とは反対の位置には石で造られた簡単な竈がチョコンと鎮座していた。雨の日は絶対に使えないが、こうして晴れていればレティの邪魔にならず便利だ。

鍋に水を満たして適当に切った野菜や肉を投入する。火打ち石で火を着けて燃え上がってきたところに鍋を石の上に置いた。

火かき棒で調節していると、森の中から大きな灰色狼が石橋を渡ってくるのが見えた。動きは軽やかで、想像以上のスピードでロイドの側に近付いてくる。


『今日ハ、貴様カ?』


挨拶もなしにいきなり本題に入ってきた。


「ああ。特に問題ないだろ」

『分カッテイル。貴様ハ強イ。ガ、レティハ元気カ?』


それが目的で来たらしい。ロイドがレティの日課を変わるのは構わないが、今晩会えないから彼女に会わせろ、と。


「分かった、後で伝えておいてやる。……こんな天気だ。偶には外で食うのも悪くない」

『今ハ駄目、ナノカ?』

「薬を作っている。一段落するまで待て。お前もアレの後は無理だろ」

『ムゥ……、アノ匂イ、ハ気分ガ悪イ』

「ならもう少し待ってろ」


シチューが焦げないように掻き混ぜながら次の手順を考えていく。テーブルを引っ張ってくるかそのまま地べたに座るか。レティに聞いてからでも遅くはないだろう。その前に外で食べると言えばどんな顔をするか。

しかし、ラフィとも随分と思念伝達が滑らかになってきた。まだ硬さは残っているが当初に比べてかなり聞き取りやすくなっている。

何で長年行動を共にしているレティではなく、ロイドの方が意思疎通ができるのか。波長でも合ったのだろうか。意気投合とかロイドが交流を欲していたとかは流石に考えたくなかった。獣に触れ合いたいほど飢えているつもりはない。取り敢えずラフィとコミュニケーションが取れるのなら最大限利用することにしたが。


「……そう言えば、昨晩は問題なかったのか?」


シチューをかき混ぜながらさり気なくラフィに訊く。レティは何となく答えてくれなさそうだから最初から訊くつもりはない。


『問題ハ、ナイ。ソモソモ、言ッタハズ。アンナ失態ハ、俺モ見タコト無イ』

「……そうだな。ただの確認だ」


そもそもあんな危険な目に合い続けていればとっくに命なんぞ潰えている。翌日のレティの動きを見る限り、今更彼女の強さに疑いを抱いている訳でもない。

それはロイドも重々承知している。が、あんなギリギリな場面を見せられたこっちとしては心配しない方がおかしい。

スライムが二度、レティの頭上から降ってきた時。

ロイドか、レティか、ラフィか。一番に察知したのは誰だったのだろう。ラフィは吠えていたし、レティは魔法を発動していた。そしてロイドは何も考えずにレティに手を伸ばしていた。

最終的に間一髪で間に合ったのはロイドだった。力の限りレティを引き寄せながら高速で荒削りの氷の槍をブチ込んでいた。

あの光景を思い出すだけで心臓が痛くなる。あの時のレティの影の展開が若干遅いのも気になった。問い質したいところだが果たして正直に言ってくれるかも分からない。感情を読み取ろうと努力したが、こういう時のレティの無機質な表情は何も読み取らせてくれなかった。

表情筋が死んでいるのはロイドもお互い様だが、中々感情を表に出さない彼女を見て厄介だな、と少しだけ嘆息する。


『ン、ドウシタ?』

「……いや、何でもない」


考えている間に寝そべっていたラフィが、顔だけ上げてロイドを下から窺ってくる。

感情表現で言えばこの犬が一番人間味があるよな、と思いながらそう言えばまだ感謝を伝えていなかったことを思い出した。


「そうだ、あの時は助かった。礼を言う」

『何ノ話ダ?』

「……分からないのならいい」


ロイドは素っ気なく言うと、ラフィはプリプリとした様子で眉間に皺が寄せられている。本当に誰よりも顔に出やすい。

ロイドがレティの魔物狩りに付いて行った翌々日。一日交代で狩りを行おうと提案したが、ラフィの協力が無ければ彼女は意地でも同行しただろう。

本当ならば、ロイドが滞在している間くらいずっと代わっても良いと思ったくらいだ。最初の狩りの時は割と早く目標数に到達したが、翌日は思うように魔物と遭遇せず日付を大きく跨いでしまった。レティが殆ど休んでいない疑惑が確信に変わった瞬間だった。

だけどそれを言うとレティは絶対に拒否する。ついでに毎日となるとラフィも拒絶するだろう。

予め交代と譲歩しておけばラフィも説得しやすかったし、レティも強くは出られない、はずだ。

まあ初日はラフィに強引に家まで引っ張ってもらった。先程の礼はそれについてだ。

もう一度太陽の位置を確認する。薬草を煮出して半分は経過したかなと予測をつける。彼女が五日連続で回復薬を作っているから大体の時間を把握できるようになっていた。レティが言うには弱火でじっくり煮ないと綺麗(?)な黒色にはならないらしい。

今まで薬を作っている間は昼飯をどうしていたのかと訊くと、適当にパンとサラダだけ摂っていたという。最悪、昼を大きく過ぎれば抜いていたとも。

只でさえ細身だというのに、食事を抜くわ睡眠時間が少ないわで、このままだと身体を壊しかねない。彼女には休む概念がないのだろうか。朝は確実にロイドよりも先に起き出して活動していて、ロイドが目覚めて以来、一度しか彼女の寝起き姿を見たことがない。

今現在の頭痛の種はそれだな、と嘆息する。一回無理矢理にでも休む口実でも作ってみるかと考えながら、鍋に香辛料を入れたり竈の火種を小さくしていく。

すっかり昼食担当はロイドになってしまった。レティに頼まれたのではなくロイドが勝手にしていることだが、料理なぞ野宿の時に最低限食べられる物しか作ったことがない。料理が好きという訳でもないが、ここ最近で急激に上達したような気がする。いつも表情の乏しいレティが目を丸くして美味しそうにパクパク食べている姿が最大の要因だろう。

その時の彼女の姿を思い出して、誰も気付かない程度だが微かに口元が綻んだ。

もう一度空を見上げてそろそろかな、と腰を上げた。

隣で日向ぼっこしていたラフィが目だけをロイドに向けた。


『ソロソロ、カ?』

「ああ。呼びに行ってくる」

『ソウカ』


嬉しそうに尻尾がパタパタと地面を叩いたが、日光が気持ちいいのか起き上がる気配はない。

玄関の扉を開けると、丁度レティが布巾の上に鍋を置いたところだった。

そこで初めてロイドが外にいたと気付いたらしい。驚いた気配がロイドの肌に伝わる。


「……今まで、何処に?」

「庭だ。食事の準備は出来てるぞ」

「……いつも、すみません」

「構わない。……どうだ、今日は外で食べないか?」

「へっ?……外?」

「ラフィも来ている。偶には良いだろ」

「……はぁ」


返事は曖昧だったが、恐らく驚いているだけで嫌がっている訳ではないと見当を付ける。様々な感情の中で喜怒哀楽より先に驚きの感情だけ分かり易いのは如何なものかと思うが、何も分からないよりマシかと思い直す。


「テーブルと椅子を、外に出してもいいか?」

「あ、うん、いいよ。……私がやるよ」

「いや」流石にそれは、と言いかけたところでテーブルと椅子がフッと下に沈んだ。


床を見るとそこだけ見覚えのある黒い影があり、何も無くなると直ぐに溶けて消えた。


「……遠隔操作もできるのか」

「うん。あれくらいなら余り疲れないし」

言い換えると疲れやすいのかと突っ込みを入れたくなったが、既に終わってしまった後なので止めておいた。


「……まぁいい。食器を持っていくから先に出ていろ。ラフィが待ってるぞ」


言い終わると同時にギャンッと悲鳴が上がるのが耳に届いた。どうやら突然下から出現した椅子に鼻先がぶつかったらしい。


「……痛かったらしいぞ」ここまで思念が強烈に飛んできた。

「えっ、嘘!?」


レティが少し慌てた様子でパタパタと窓辺に寄って外の状況を確認する。


「いいから、先に行ってラフィに謝ってこい」


早く行かないとラフィの八つ当たりによって椅子が一脚、破壊されそうだ。怒りの罵倒がビシビシとロイドの頭に響いてくる。


「う、うん。分かった」


そう言い残してレティは急いで扉を開けて外に向かって行った。

しばらくすると、レティの姿を認めたラフィが一転して喜びの感情を振り撒いているのが伝わってくる。現金な犬だなと思いながらロイドは外に持ち出す準備を始めた。



外での食事も案外悪くないな、と思いながらロイドはカップに入ったお茶を啜っていた。

相変わらず湖から吹いてくる風は冷たいが、日光がじんわりと小島を暖めているから余り気にならない。カップから漂う湯気もふんわりと空気に溶けていった。

レティと同じ林檎の香りが鼻先から抜けていく。ロイドが淹れたのではなく、レティが淹れてくれた。

お茶だけは、ロイドが幾ら淹れてみてもどうしてもレティのように香りが立たない。何回か試したがどうしても満足のいく結果にならないので、今日はもう諦めた。

対面のレティはまだシチューを食べていた。パッと見では分からないが、夢中で食べているのは何となく分かるので作り甲斐があるなと啜りながらレティを眺めていた。

足元にはラフィが気持ち良さそうに昼寝をしている。さっきまでレティからパンを半分以上分け与えられていたのでかなり満足そうだった。

テメエが食べてどうするとラフィを睨み付けたが、知らん顔で平らげられた。今度コイツがいる時はこの犬の分も追加しないとな、と心のメモ帳に追記しておく。

だがそうなると食料の在庫が少し心許なかった。


「……明日、街に買い出しに行くか」


ロイドの呟きを耳にしたレティが数度瞬きを繰り返していた。たった今シチューの具を口に入れたばかりだが、動きが完全に止まっていた。


「おい、ちゃんと噛め」


言われて、慌てて咀嚼して嚥下していく。急がなくていいのに、と言う前にレティが先に口を開いた。


「……何で?」

「幾つか食材が少ない。気分転換に街に出るのもいいだろう」

「でも、薬はまだ今日で十本しかできてないよ」

「別に売るだけが目的じゃないだろ。今言っただろ。気分転換だと」


そう言いながらも、ロイドも本当に買い物が気分転換になるかは疑問が残る。変異種であるロイドにとってはどちらかと言うと人通りが多い場所の外出など苦い思い出しかない。

しかし、食材が少ないのも本当だ。パンに至っては回復薬が二十本揃う前に尽きてしまう。毎日三食きちんと食べていること。ロイドも少食という訳ではないし、レティの分も気持ち大きめに出しているのも原因の一つだ。無論、少なくなったからと言って少量ずつ出そうとは微塵も思っていない。

それと街に行く理由はもう一つ。レティの手を休ませるためだ。

毎日生真面目に回復薬を作っているもんだから後五日もあれば二十本が揃う。けれど警備兵からは二ヶ月に一度くらいで十分だと言われている。このまま連日作り続けていれば一体何本貯めることになるのか。


「偶には違う空気を吸うのも悪くないだろ」

「でも、お金は……」

「この間稼いだばかりだろ。五、六銀貨持っていけば十分事足りる」


呆れた口調でロイドが言うと、レティが目を逸らして口元をモゴモゴさせていた。忘れていたらしい。

先の稼いだ分はまだまだ残っているはずだ。ロイドの記憶だと前の買い物の時は色々買い込んだから三銀貨と八十銅貨くらい使っていた。倍近くの金額を持っていれば多少の無駄遣いをしても大丈夫だろう。


「うーん、……でも……」

「……また、ケーキとかいらないか?」


まだ渋っていたレティの動きがピタリと止まった。もう一押しか。


「またあの店で食べるのも悪くない。何なら他で探すのも一興だろう」


言いながらレティと一緒に街を散策する姿を想像する。変異種相手だと問題も多いだろうが、何だか楽しそうだ。


「どうだ?行ってみないか?」

「……うん。……行ってみたい、かも?」


最後の疑問が気になるところだが、前にもあったなと思い出して気に留めないことにした。


『俺ハ?』


たった今まで寝ていたくせに、頭を上げてレティとロイドを交互に見てきた。レティが何処かへ行くとなると付いてくる気満々らしい。


「……ラフィは今まで街に行ったことあるのか?」

「えっ?ラフィ?勿論、無いよ。森の出入り口で待っていてくれたことがあるけど」

「なら、コイツは留守番だな」

『ナッ……!?』


明らかに絶句しているのが見ただけで分かった。続いて明らかに不機嫌になった顔でロイドをグルグルと威嚇してくる。


『貴様ッ!置イテ行ッテモ、必ズ追イカケテ見ツケル、カラナ!!』

「……レティ。ラフィに土産でも買ってやってみるか?」


ラフィの思念を完全に無視してレティに語りかける。思った通り、露骨に態度を変えてキラキラした紅い瞳が、レティを見上げている。


「……えっ?……うん、そうだね。ラフィ、明日何か買ってくるよ」


何かを察したのかレティも追従してくれる。その甲斐あってラフィは簡単に釣られてくれた。甘えた声を出してレティの足元に頭を擦り寄せている。

その光景を眺めながら、残ったお茶を口に含んで明日の事を考える。

自分が思っている以上に気持ちが高揚している。自分でも意外だと思いながらも、僅かに口角を上げていることには意識していなかった。

知らず知らずの内、仏頂面のロイドもまたこの数日で随分と雰囲気が柔らかくなっていた。

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