三話
次の変化が訪れるまでレティはずっと手を動かしていた。
傍目から見ればただビーカーを撫でているように見える行為はしかし、魔力を手の平に集中させながら満遍なく液体に魔力を流し込んでいるのである。
下手に手を休めると直ぐに液体が悪くなるから中断も出来ない。座ってすれば良かったと微かに後悔するが、ちょくちょく同じ失敗をするから立ちっぱなしも慣れていると言えば慣れている。でもやっぱりこの後の日課を考えると座っとけば良かったかなといつも思ってしまうのだ。
そうボンヤリと考えながらも手と目もビーカーから離さない。近くでロイさんが何かゴソゴソゴトゴトしているみたいだが気に掛けられなかった。まあ、ロイさんのことだからレティにとって悪い事にはならないだろうと放っておいた。
寧ろ、疑問に思うくらいレティを気遣ってくれている様子に罪悪感が湧くくらいだ。もう少し好きにすればいいのに、元来真面目な性格なのだろう。
家の中が薄暗くなってきた時に次の変化が訪れた。
ビーカーの中の紫色の液体が、動かしてもいないのにクルクルと回りだしたのだ。
渦を巻きだした液体は底から少しずつ色を変えていく。細い赤い線が見えたなと思えば少しずつ太くなり、あっという間に赤と紫の螺旋を描きながら回転していく。
十秒もしない内に紫色から赤色に置き換わって液体の回転が止まった。何事も無かったかのように凪いだ水面は紅玉のような色に変わっていた。
一部始終を見ていたロイさんは一度目と同様、穴があくほど見つめていた。因みに変化が来る前にロイさんを呼んでいた。色が変わる前は手の平が熱くなり、押されている感覚があるので直ぐに分かる。
二度目も綺麗でしょ、と言えば律儀にそうだな、と返してくれる。
ロイさんの態度はいつも通りぶっきらぼうだから表面上は分からないが、それでも賛同してくれたことについつい嬉しくなってしまう。
三度目はもっと凄いからと言い残してまた作業に没頭する。手元はかなり薄暗くなっていたが、気にせず続ける。終わったら夕食の準備をしないと、と思いながらも、焦らずに一定のスピードで手を翳していく。
最後の変化は完全に陽が森の向こうに隠れてしまった時だった。
「ロイさん」
短く呼ぶ。それだけで把握したのだろう、椅子に座っていたロイさんが近寄ってきた。
「そろそろか?」
「うん、見てて」
そう言ってレティは今までずっと動かし続けていた手を止めた。
流し込んでいた魔力を止めた瞬間、ビーカーの中の液体が真っ白に発光した。
眩しいほどではないが、それでも淡く白く光っている。そしてそのまま濃く深い湖のような青に変色していく。
白と青が交互にゆっくりと明滅し、やがて白が一際強い光を放ち消えた後、ビーカーの液体は薄い桃色に変化していた。
「終わり、だよ」
ホゥッと息を溢して満足気に液体を眺めた。
達成感もさる事ながら、レティは最後の瞬間が好きだった。一度目と二度目の変化も嫌いではないが、あの湖を連想させる青い光が一番綺麗だといつ見ても思ってしまう。
ようやく足を動かしてビーカーを台に置いた。時々体勢を変えていたが、やはりずっと立っていたから動く足が少しぎこちない。次こそは座ってしようと心に決めながら、棚からガラス瓶を二本取り出した。
棚の中を見れば瓶が少なくなっている。そういえばロイさんが薬を売る店を変えたと言っていたから、回収は無理だろなぁと思った。まあいつも乱暴に扱われて半分近くはヒビが入ってたり割れてたりして買い直していたから良いかと思い直した。いつも買っているガラス瓶は量産品らしく、かなり脆い。破格の値段で売っているから助かるが、昔師匠が慌ててしょっちゅう割っていたのを思い出した。
ビーカーの液体をガラス瓶に移し替えていく。ここ一年は目分量だが狂いもなくピッタリの量が瓶に収まった。
ロイさんはレティの一連の行動を静かに見守っていた。レティがガラス瓶を流し台の片隅に置いたのを見て口を開いた。
「終わったのなら食事にするか?」
「うん。待ってて、直ぐに準備するから」
「いやもう出来てる」
「…………えっ」
意味を理解すると、慌ててテーブルに目を遣った。
テーブルの上には大きなお皿が二つ。お皿には朝、昼に食べていたパンとサラダ。そしてスライスされ焼かれた何かが載っていた。
周囲を確認すると、流しには滅多に使わないフライパンが置かれている。多分お皿の上の何かを焼く時に使ったのだろう。
「悪いが勝手に使わせて貰った」
「え……うん、はい、どうぞ」
思わずコクコクと頷く。まさか作っていてくれているとは思わず、予想外の事態に脳の処理が全然追い付いていなかった。
だけど、事態を飲み込んだ時にジワジワと訪れたのは罪悪感だった。
「ごめんロイさん。色々とさせてしまって」
考えてみれば昨日からお世話になりっぱなしだ。薬からローブのことから食事代のこと。夕食の支度やベッドの片付けや薪のことやラフィのこと。お昼ご飯もロイさんが用意してくれたのだ。普段は全部レティ一人で行っていることだからズルをしている気分になって余計申し訳ない。
だけどロイさんは違ったらしい。
「あのな……」
何故か盛大に呆れられている。今まで呆れた態度は何回も見てきたが、ここまで大きいと逆にレティは目をパチクリとさせた。
「何度も言うが、厄介になっているのは俺の方だ。少しは頼れ」
そして大仰なほど息を吐いた。
しかしロイさんの言葉は、レティの心には届かなかった。頼れと言われてもピンとこないのだ。
レティの人生を振り返っても、自分の事は全て自分でやってきた。幼少の頃は誰かに助けてもらっていたかもしれないが、記憶は朧げでハッキリと覚えていない。
師匠がいた数年間の最初は助けてもらったてはいたが、結局直ぐに食事から日々の雑務までレティが引き受けていた。誰かに何かをしてもらう、というのが感覚として捉えられなかった。
頼るとはどういうことだろうと思考に耽り始めたレティをどう思ったのか、ロイさんは呆れた表情のままレティに近付き頭をポン、と叩いてきた。
驚きに思考が止まる。一瞬、何を考えていたのか忘れるくらい衝撃的だった。
そう言えば森でも一度やられた。敬語を使うのを止めた時、頭を優しく叩いてきたのを思い出した。
あの時はロイさんの顔が見れなかったけど、今の顔つきを見る限り同じ感情から来ているのかもしれない。
とにかく、誰かに優しく頭を触られたことがないレティにとっては驚きの一撃に匹敵していた。知らず知らず両手で頭を抑えていた。
「な、何を……」
「余り難しく考えるな。取り敢えず俺の好きにさせてもらう」
ロイさんはそれだけ言うと自分の席に行ってしまった。
その背中をレティはポカンとして見つめてしまった。好きにするのは全然構わないのだけど、それが先程の話とどう繋がるのかが理解できなかった。もしかして好きに料理する、ということなのだろうか。案外料理好きなのかなぁと明後日の方向に想像してしまう程度には、まだ叩かれた衝撃が頭に残っていた。
「どうした?食べないのか?」
ロイさんに促されて我に返り、慌てて椅子に座る。テーブルのお皿に視線を落とすと対面のロイさんが説明を初めてくれた。
「パン、切ってあるだろ。肉が塩っぱいなら挟んで食べろ。少しはマシになる」
それだけ言うとロイさんは食事に手をつけ始めた。説明しておきながらロイさんは挟む気がないらしく、そのままスライスした何かをフォークに突き刺してそのまま食べていた。
レティは改めてお皿に載った料理をマジマジと見る。そうか、これが調理されたお肉なのかと妙に関心してしまった。昨日のスープにも削った肉が入っていたが、あの時は小さく細く削っていたので形状を殆ど認識していなかったのだ。生の肉は買い物の時に見掛けることはあるが、買い食いや店で食べたことない上に肉料理など提供されたこともない。
だから先に好奇心が勝った。ロイさんに倣ってレティもフォークで肉を突き刺し口に運んだ。
思っていたよりもかなり塩気が強く、反射的にむせた。
「……だから言っただろ。ほら、さっさと飲め」
ロイさんが水の入ったコップを渡してくれる。レティは慌てて飲んだが、今度は肉が喉に詰まってしまい苦しむ羽目になった。
何とか飲み下すが、その間ロイさんが笑っていいのか呆れていいのか分からないような顔付きになっていたのはレティは気付かなかった。
ただ、平然と食事を進めるロイさんが不思議で仕方がなかった。
「ケホッ。……ロイさんは何で平気で食べれるの?」
「慣れてるからな」
慣れているとは何を指しているのか。
首を傾げるレティを一瞥したロイさんは、手を伸ばしてレティのお皿の上のパンを手に取った。
ロイさんの言う通り、パンは横に切り込みが入っていてその中にヒョイヒョイと野菜や肉を詰めていった。
昨日お昼に食べたみたいなサンドイッチ状になったパンを渡してくるので、レティは慌てて受け取る。
「それなら問題ないだろ。しっかり食べろよ」
言われてレティはサンドイッチになったパンを見遣る。具が入ったせいでいつもより大きく膨らんでいる。いつもより意識して大きな口を開けないと入り切らない。
仕方が無いので思いっ切り口を開いてパンを頬張った。パンも肉も少し硬いせいで噛み難いが、何とかゆっくりと咀嚼していく。
「どうだ?」
ロイさんが尋ねてくるが、口の中一杯に入れてしまったレティは答えることもできず、コクリと頷いて応えた。
「そうか」
それだけ言うと、ロイさんは目を細めて自分の食事を再開した。
もしここに誰かがいて二人を遠目で目撃したのなら、ロイさんの姿は保護者のそれに見えただろう。
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