二話
薪は庭のあちこちに散乱していたが、数はそう多くはない。家屋の壁にある薪棚に積み直して作業は簡単に終わった。
ロイドは手をパンパンと叩きながら湖に目を向ける。
中天を過ぎた太陽が射す光によって朝に見た時よりも空色に近い。凪いでいるから対岸を見れば森の木を鏡のように映していた。空気は未だ冷たいが、何処か清廉さえあった。
美しい景色だと素直に思う。朝の深い青色も幻想的だったが、今の時間の鏡の湖面も同じくらいに神秘的に感じる。夕方だとどんな風になっているのか。考えるだけで柄にもなく見てみたいと思ってしまう。
しばらく湖の光景に目を奪われてしまったが、我に返ったロイドは足早に玄関に向かう。
急がなくてもレティはまだ食事をしているとは思うが、万が一にも食べ終わっていたら後片付けなど動いていそうだ。彼女ならやりかねない。
昨日からしかレティを見ていないが、彼女はお茶を飲んでいる時しか休んでいない。それ以外はずっと何か雑用をしている姿しか見たことがなかった。
偶々なのかもしれないが、レティはもう少し休憩を入れた方がいいと思う。
いや、普通の農村ではそうなのかもしれないが、彼女に至っては夜遅くまで行動している。
動くという意味ではロイドも他人のことをとやかく言える立場ではないが、元々の体力の差から見ても彼女のことは放っておけなかった。
あの、華奢な身体であちこちパタパタと動き回られては気が気でならなかった。最初に見た時は椅子で眠っていたし、今朝に至っては寝ている所すら見ていない。大丈夫なのかと問い詰めたいくらいだ。
玄関の扉を開けて中に入る。テーブルの方を見ると、レティは座りながらロイドの方へ振り向いていた。
思わずテーブルの上を見る。何も載っていない皿が二つ置かれていた。ロイドの言った通り洗わずにいてくれたようだ。
だがレティの様子が少しおかしい。両手が腹部に当てられている。
表情には微塵も変化が無いが、ロイドだけが分かるいつもの困ったような雰囲気がレティから漂っているのを感じた。
「どうした?」
「……あの、ロイさん」
そう言ってレティは口籠った。珍しい反応にロイドは怪しんでレティの全身を確認する。
見た目は特に変わっていないが、急に体調でも悪くなったのだろうか。
「どうした?気分でも悪いのか?」
「……いえ、そうじゃなくて」
じゃあ何なのだと聞き返したいが、レティが目を泳がせて言い辛そうにしているのを見て口を噤んだ。
しばらく待つ。やがてオズオズとレティが呟いた。
「食べすぎてしまって。お腹が少し……」
重い、と最後は蚊の鳴くような声で告げられて、ロイドはパチクリと目を瞬かせた。
途端、腹の底から愉快な気持ちが込み上げてきた。咄嗟に顔を伏せて誤魔化すが、心中では後から後から湧いてくる感情を処理するのに一杯一杯だった。
苦心して面には出さないようにしたが、レティには伝わったのだろう。フイと目線を逸らされた。
それ以外の見た目は全然変わっていないが、何となく微かにむくれていることだけは確信できた。
「…………全部、食べたのか。ケーキ以外は、残してもいいと言ったのに」
「でも、だって……」
レティはまた言い淀んだが、要するに最初に口籠ったのは恥ずかしかったのか。
彼女のためにも内心の笑いを止めた方がいいのかもしれないが、中々抑えるのが難しい。
しかし仕方のない話だ。こんなに愉快な気持ちになったのは何時振りだろうか。余りにも久しぶり過ぎて上手く制御できなかった。
腹のことと言えば、昨日も彼女の可愛い腹の虫を聞いたのを思い出す。
あの時は罪悪感しかなかったが、今思い返せば彼女の仕草に更に可笑しくなってきた。そろそろ顔に出そうになる。
流石にそれは不味いかと、無理矢理笑いを引っ込める。が、どうにも
上手くいかず、まだ頭を上げられそうになかった。
レティはその間も目が明後日の方向を向いていたが、やがてゆっくりと立ち上がって流し台に近付いていった。
何をするのかと見ていると、薬草が入った鍋を確認しだした。熱が取れたかどうか確かめているのだろう。
「…………おい、お茶はどうする?」
「結構です」
スッパリと断られた。
ロイドは内心でやり過ぎたと悪態をついた。ついさっき、お茶の時ぐらいしか休んでいないと思っていたのに、笑い過ぎてどうやら怒らせた。と言うか拗ねてしまったらしい。少しだけ後悔した。
ストーブの上にはいつもの蒸気の音を立てている薬缶がある。折角準備をしたというのに。
「……冷めたのか?」
「冷めたよ」にべもない。
レティは淡々と次の準備を進めていく。漉し布とビーカーを取り出し、ビーカーの上に布を被せると煮た回復薬を移していく。
玄関に棒立ちしていたロイドは、誰も居なくなったテーブルに移動していく。上には空の皿とコップ。律儀にもロイドが言った通りに洗うつもりはないらしい。
それだけでも良しとするかと食器を持って流しに行く。腕捲くりをしながら、どんな感じに出来たのか好奇心が湧いて何気なくレティの方をチラリと覗いた。
「…………ぅ」
「どうしたの?」
レティが訊いてくるが、絶句したロイドは咄嗟に答えられなかった。
ビーカーの中身。
物凄く真っ黒だった。
ドス黒いと言ってもいい。墨みたいな綺麗な黒ですらない。澱んだ黒い何かの汁がそこにあった。
「……それ、が、回復薬なの、か?」
「そうだよ」
何を言ってるんだろこの人、みたいにレティが答えたが、ロイドの記憶する限りロイドが飲んだ回復薬は、昨日警備兵達に売った回復薬はこんな色をしていなかったはずだ。透き通った綺麗な桃色だったはずだ。
ロイドがビーカーを凝視しているのに気付いてレティがああ、と一つ頷いた。そして、だからと呟いた。
「これから仕上げするの。その内分かるよ」
そう言いながらおもむろに片手をビーカーに沿わした。そうしてゆっくりと、触れるか触れないかの距離でビーカーを撫でるように手を動かし始める。
レティの動作はたったそれだけだった。それ以上は何もせず、ただ只管ビーカーの上から下を行ったり来たりを繰り返している。
「何をしているんだ?」
「魔力を通しているの」
「……魔力を?」
「そう。変わり始めたら教えるからそれまで少し待っててね」
それだけ言うとレティはまた黙ってしまった。その間も手は止まらず、今も同じ動きを延々と繰り返している。
まだまだ疑問は尽きないが、レティが黙々と作業を続けているのでこれ以上横から邪魔するわけにもいかず、仕方なくロイドも食器の後片付けをすることにした。
食器の数なんで無いに等しいから片付けは早々に終わってしまう。その間もレティは微動だにせず、未だに同じ作業を繰り返していた。
手持ち無沙汰になったロイドはしばらくレティの様子を見ていたが、一向に変わる気配がないので溜息をつきながら他に何かできることが無いか探すことにした。
と言っても、まだ昨日から厄介になり始めた身としては何をすべきか把握していない。掃除一つ取っても道具が何処にあるか分からないのだ。勝手に探そうかと微かに考えたが、この家の主に無断であちこち物色するのも申し訳ない。流石のレティも不快に感じるだろう。
夕食の準備も頭の隅を過ぎったが、まだ昼も半分過ぎた頃。作るには早すぎる気もするし、暇な余り包丁を持つのも何だかおかしな話に思えてきた。
完全にやることが無くなってしまったロイドは、もう一度息を漏らすとテーブルの上にある読み掛けの本が目に入った。手慰みに読んでいたのだが、もう少しで読了する。暇潰しに丁度良いかと思い、椅子に腰掛けて頁を開き、足を組んで頬杖をついた。読み終えるまでにはレティの作業も一区切りつけばいいのにと彼女の背中を一瞥しながら続きに目を通した。
楽観視しながら読書すること早一時間近く。ロイドはいい加減終わらないのかと作業している細い背中をチラチラ見ていた。
手元の本の内容は全く頭に入ってこない。一冊目は既に読み終わっている。二冊目を一応持ってきたが、同じ行を何回も読み直しているからそろそろ諦めて閉じようかと考え始めていた。
もう一度流し台の前に立つ小さな体躯を見る。
レティは一時間前と同じ場所でずっと手を動かしていた。足が痛いのか、時々姿勢をずらしていはいるがそれだけだ。液体の入ったビーカーに手を翳してずっと往復している。
見ているこっちの気が滅入りそうだ。回復薬を作るのにこんなに体力と気力ーーついでに魔力ーーが必要だとは夢にも思わなかった。同じことを只管繰り返せと言われても、体力は保つが気力が続かないだろう。
「……ロイさん、ちょっと」
「ん?どうした?」
思考が若干あらぬ方向に向かっていたから反応が遅れた。目を向けると、レティは相変わらず同じ作業を繰り返している。
「そろそろだと思うので、見てみる?」
普段と同じ感情の籠もらない声音なのに、いつもよりも弾んでいるように聞こえたのはロイドの気のせいだろうか。
だが折角レティが久しぶりに声を掛けてきたから行かない訳にはいかない。近寄り、レティが持つビーカーを注視する。
最初は何の変化もなかった。液体はまだヘドロみたいな黒で、とてもでは無いが回復薬だと言われても信じられなかった。
「これが?」
「もう少し……」
そう言って十数秒後、急に変化が顕れ始めた。
小さな泡のようなモノが、一つ二つと底に見えてきたのだ。
泡というよりも星に近いのかもしれない。曇天の夜に瞬きだした儚い星のような煌めきが、ビーカーの底から集まり始めた。
ロイドが認識してからは早かった。星の数が増えて輝きを増していき、どんどんと水面に昇り集まっていく。時々泡のように弾けながら上昇するに連れて、底から液体の色に変化が訪れていく。
ドス黒い色から薄い透き通った灰色へ。更に星が生まれると少しずつ灰色から紫に変わりだした。
最後にホワンと、金の星が混じった灰色の煙が空中に浮かんでは消えた。残った液体は、夢かと思うほど様変わりした透き通った紫になっていた。
「これは……」
「これが一回目の変化だよ。綺麗だったでしょ」
「ああ…………」
レティの言う通り綺麗な現象だった。ロイドは別に魔法研究に精通している訳ではないが、魔力を伴った物はこんなにも神秘的なのかと感動したくらいだ。
そして、無表情の中にも少しだけ得意げに小首を傾げていた、神秘的な光に小さく照らされていた少女が。
「綺麗だった」
上手い表現が他に見つからなかった。己の語彙力の無さに内心苦笑いになるが、下手なことを言って変な目で見られても困るのでそれ以上は黙っておくことにする。
「でしょ?……あと二回変わるからその時また見てね」
「…………はっ?」
ーーあと二回?
言われて思い出す。本来の回復薬は薄い桃色だったがビーカーの中身の色は紫色だ。それに気付いたが、レティは手を全く休めることなく動かし続けている。
「……一つ聞くが、次もまた同じくらい時間がいるのか?」
「え、うん。大体そうだよ」
一度の変化の所要時間は凡そ一時間。それが残り二回という事は約二時間掛かるということか。
知らず窓の外を確認する。まだ寒さが残る季節だからか陽がかなり傾いている。一時間も経てば森が茜色に染まりだすだろう。二時間もすれば外は暗闇に覆われているはずだ。
「もう一つ聞くが、作業を中断するとどうなる?」
「……魔力が抜けて駄目になる、よ」
レティの返事は何処か上の空だった。手元のビーカーに集中しているのだろう。変に気を散らせて失敗させてしまっては、今までの時間が無駄になるからロイドは静かに離れた。が、このまま二時間も無為に待っていても仕方がない。
ロイドは小さく息を吐いてから腹を決めると、最後にレティに短く伝えた。
「なら、俺は好きにさせてもらうぞ」
「うん」
言質は取った。別に好き勝手に動いてもレティは怒らないかもしれないが、逆に不快に思われたら困るし言い訳は欲しい。
ロイドは取り敢えず貯蔵庫に向かった。
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