五話

レティの何気ない言葉に、嘘みたいに心が軽くなったのをロイドは感じていた。

周りの人間達が、時折ロイドを見てくるが気にもならない。普段から慣れた視線とはいえ、やはり鬱陶しいものは鬱陶しいのだ。

だが、それすらもどうでもよくなっている自分に少しだけ驚いた。

レティの言動は、もしかしたらという懸念も抱いている。検問所での警備兵とのやり取りは、絶対に誤解されているだろう。

それでも、それ以上の衝撃がロイドに強く残っていた。何だかあれこれと悩んでいた自分が馬鹿みたいだった。

少なくともレティが気にしないのであればロイドも気にしないで良いのだと思うと、自然と足取りも軽くなっていた。

こんなに気持ちが楽になったのはもしかしたら初めてかもしれない。我ながら単純だと心中で苦笑を漏らすが、他人から純粋な視線を送られたことも無ければ、本当に気にした素振りも見せないのだから仕方がない。

その上ロイドを庇うような、気遣うようなレティの行動は、ロイドの心を解きほぐすには十分な効果だった。

だから、少しだけ浮かれていた。

よくこの街に来ていると言っていたのに、市場を目にするのは初めてだというレティにある単語が浮かんだが、ならば目的地まで見て回れば良いのではないかと軽く提案した。

しかしそんな浮かれた気持ちも、市場に入り露店の中の一つに菓子や軽食が売っている店を見つけてレティに食べていくか尋ねるまでだった。

レティが申し訳なさそうに持ち合わせが無いと告げた時は、苦い感情が胸に走った。

朝、レティが目覚めてから今までお茶以外何も口にしていないことに気付いたのは、レティの腹から可愛らしい虫の音が鳴った時だった。

あの時はつい心中で笑いを溢したが、思い返せば幾らでも気付きようがあるというのに全く思い至らなかった自分の迂闊さに渋面になってしまった。

市場が開いているのを見てこれ幸いだと思い、歩きながらでも食べられそうな物を探した。

やっと見つけられたと思ったら彼女からまさかの無一文宣言。今日偶々なのかもしれないが、もしかしていつも回復薬を売るまで金銭が全く無いのではと心配してしまった。

代わりに支払うと言っても薬を売れば大丈夫だと言われてはどうしようもない。だったらさっさと行って金銭を得れば気兼ねなく市場を回れると急いだのが失敗だった。

しばらく歩いてから周りを見渡せば、レティの姿は何処にもなかった。

やってしまったと後悔した。レティは多分、人混みには慣れていない。最初は横に並んで歩いていたのに店を見つけた時はロイドの後ろを歩いていたのがその証拠だ。

それくらい分かりそうなものなのに、浮かれていた上に焦って急いだ結果がこのザマだ。

何故離れないように手を繋ぐとかの発想ができなかったのか。いや、本当は考え付いていたが無意識にその選択肢を除外していた。……決して恥ずかしかったという理由では無い、と思いたい。

ともかくレティを探そうと周囲を確認していくが、彼女は小柄で埋もれてしまえば捜し出すのは困難だ。黒いフードを目印にしようにも、寒さ対策のためかローブをきっちり着込んだ女性は少なからずいる。同じ格好をした人物を認めては彼女なのかと確認していった。

来た道を戻りながら見回して行く。キョロキョロしているから通行人達が訝しげに見てくるが、気に留めていられない。

一旦市場を抜けるが、そこにも彼女は居なかった。

もう一度市場に入り、足速に進んでいく。大きい四つ角に行くと左右の道も露店が並んでいる。


ーー真っ直ぐか、右か、左か。


判断は刹那だった。右の通りの方がどうしてか若干人が少ない。その理由は後で知ることになるのだが、取り敢えず見つけやすい方を探す。違ったら反対側を探せばいいだけだ。

決めると即座に右の通りに曲がって入っていく。

入って数メートルも進む内に、空気がピリついているのが肌に感じられた。遠くからは微かに怒号と悲鳴らしき喧騒が耳に届く。

誰かが騒ぎを起こしているのだろうか?本来であれば避けるところだが、勘ともいえる妙な胸騒ぎを覚えた。

速度を更に上げて、人波の隙間を縫って喧騒の中心地を目指す。ロイドの身長は高い部類だが、誰にもぶつかることもなく通り過ぎていく。

見えた。人の頭が邪魔だがポッカリと穴のように空いている場所が。

そこには男が二人して女性を押さえ付けている。警備兵らしき人が数人、外周に展開していた。

そして、その輪の中心に佇む体格が優れている男。そいつが今、近付いて行く先にはーー。

頭から血の気が引いた。なり振り構わずに走り出す。

男が逆手に持ったナイフが振り下ろされる直前に、輪の中に飛び込み、間一髪で手首を掴んだ。

男も然る者で咄嗟に腕を引こうとするが、ロイドは力を込めて牽制する。手首から嫌な音が軋みを上げ、男の顔が醜く歪み呻いた。

だがそんなものにロイドは一瞥すらせずに顔だけで斜め後ろに座り込んでいる二人を見遣った。

一人は十代前半くらいの少年。何処か怪我でもしているのか、あちこちに血が付着している。

もう一人は少女。黒いローブを頭まで被っているから分かりにくいが、ロイドがたった今まで捜し求めていた姿を見間違うはずがない。彼女は少年を庇うように抱いて背中を向けている。

恐怖のためかフードから覗く顔は真っ青だった少女が、ロイドを認識すると薄い緑の瞳が溢れんばかりに開いていた。


「間に合った、ようだな」


安堵の息を漏らす。動悸が激しく息が上がっていた。

普段ならこれくらいの動作で乱れることは一切無いというのに、少女がーーレティが危険だと認識した瞬間、有り得ない程脈が乱れてしまった。

けれどレティの無事な姿を見て、段々と落ち着いてくる。周りの状況を確認する程度には。

女性が必死の形相で男達の拘束を振りほどこうと藻掻いている。外周に展開している警備兵らしいのは、剣を抜いたまま警戒しているのか寄ろうともしない。その内一人はもう一人に肩を貸されて自力で立てないようだ。

手首を掴んでいる男は呻いた後、大人しく掴まれたままになっている。

ロイドは男を見て眉根を寄せた。まだ力を抜いていないにも関わらず男の苦痛が一転、不気味な笑みを湛えていたからだ。

何だ、と思った瞬間、男は空いた手でロイドの手首を握り返し、そのまま捻って引き倒そうと体重を掛けてくる。

その前にロイドは男の手首を離し、前に身体を折った男の顔に向けて膝蹴りを放つ。

それも止められた。男は腕を交差させて受け止め蹴りの勢いのまま後ろに仰け反り、いつの間に順手に持ち替えたのか、ナイフの切っ先がロイドのフードを掠めた。

バサッとフードが簡単に外れる。ここに飛び出した拍子に既に少し捲れていたため、あっさりとロイドの白金色の髪が晒された。

後ろに大きく下がった男が調子外れの口笛を吹く。


「やっぱりな兄ちゃん、変異種じゃねぇか。それもかなり珍しい見た目じゃねぇか」


変異種、という言葉に辺りがざわめきだした。

昔から魔女と変異種は畏怖と蔑みと忌み嫌われる象徴だ。国が違えども誰もが差別するのはロイドも痛いほど知っている。


しかしロイドは、


「そうだな。だからどうした?」


男の嘲笑を涼しげに受け流した。


「へぇ、動じないんだな。自分が化け物の変異種だと恥ずかしくないのか?」

「貴様等よりまだマシだろ。こんな時間、こんな場所で騒ぎを起こすクソッタレ共よりは」

「言うねぇ、兄ちゃん。ところでよ。後ろの二人は知り合いかい?」


男の問いに少しだけ躊躇う。変異種の知り合いというだけで白い目で見られるのだ。

検問所でもそうだったが、もしここでロイドが公言してしまうと、レティが今後街を歩けなくなる可能性が出てくる。

言葉に詰まったロイドの隙を見逃さず、男がナイフを脇に構えて突進してきた。

後ろにはレティと少年がいる。避ければそのまま二人のどちらかを刺すつもりだ。

ロイドは片手を突き出す。もう片手には籠を持っているが手放す気は毛頭なく、掌を広げる。

ナイフがロイドの手に突き刺さるーー如何に変異種とはいえ、人がまた凄惨な事態に合うことに誰かが悲鳴を上げた。

バキィンっと音が響く。

ナイフの刃が空中高く放り上げられ、クルクルと回転してから地面に落ちた。

男が嗤ったまま固まる。掌から離れて生成した氷の盾はビクともせず、逆に今度はロイドが獰猛に笑った。


「ほう、力は中々のものだな。……変異種だと分かるなら予見しておけ。魔法ぐらい使ってくると」


吐き捨てながら開いた掌をグッと握った。パキパキと、ナイフから男の両手、腕まで掛けて瞬く間に氷の拘束具が形成されていく。


「がぁっ、ぐっ!」


叫びそうになるのを男は歯を食い縛って耐え、氷の束縛から逃れようと両足を踏ん張る。結構根性あるなと心の内で称賛を送るが、男のこめかみに掌底を叩き込んだ。

一撃だけで意識を失った男は殴られた方向に傾き、地面に倒れ伏した。


「どけっ!」


怒声が聞こえた。視線を遣ると男二人が背を向けて一目散に逃げ出していた。

いっそ清々しいほどの逃げっぷりである。人垣が勢いよく割れていく。

遅れて剣を抜いている警備兵が走り出した。が、遅れた分距離が空いている。市場の人の多さを考えると撒かれそうだ。

ロイドはパチリと指を鳴らした。鳴らした指の上に二つ、氷のピンポン玉が生成される。

ロイドの意思に合わせて球がヒュンと飛んでいく。豪速球は狙い違わず男達の後頭部に直撃した。

ドサリと倒れる。一人は昏倒したが、もう一人は意識を失わなかったのか藻掻きながら立ち上がろうとする。

しかしそれも追い付いた警備兵に取り押さえられた。一人が怒りのまま当身をくらわせて残った男を気絶させた。

最後にドサリと音が聞こえた後、それまであった悲鳴やざわめきですら無くなり、嘘みたいに辺り一帯が静まり返った。

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