四話

いざ人混みの中に入ってしまうと周囲は熱気に満ち溢れていた。

並ぶ露店からは人を呼ぶ活気のある声が、お菓子を強請る子供の歓声が、店主との値切り交渉が。

何処もかしこも賑わっていて、何もかも初めて目にしたレティにとっては感情が追い付かず圧倒されっぱなしだった。


「…………凄い人混みですね」

「そうだな。はぐれないように気を付けろ」


そう言われても、人波に押されそうになってロイさんの後ろを歩くので一杯一杯だった。最初は横に並んでいたのに少し気を抜いただけでこの有様である。

ロイさんは慣れたものなのかスイスイと波を掻き分けて進んで行く。その後ろをモタモタと人にぶつかりそうになりながらレティは必死で追い掛けていく。

それだけで体力を使っているのか段々と息が上がってきた。情けないな、と思っていると不意に腕を引っ張られた。

驚いて顔を上げると、ロイさんが露店と露店の間にある小さな隙間まで連れて来てくれた。

そこで足を止めて周囲を軽く確認している。

何だろうと思って同じように周りを見てみる。近くのお店からは香ばしい焼き立てのパンやお菓子などが売られていた。


「……腹、減っているだろ。ここらで先に軽く食べていくか?」


えっ?と思ったが、街に入るまでに一度お腹の虫が鳴ったのだった。ロイさんは多分、それを覚えていて提案してくれたのだろう。

指摘されると、確かに空腹かもしれない。隣から漂う美味しそうな匂いに、はしたなくも喉が鳴りそうになった。

でもーー、


「すみません……手持ちが、ありません」


そう、レティは今無一文だった。

薬を売った後、いつも必要な物を買っていくとお金が無くなってしまう。時々少しだけ残った金銭はキチンと貯めているが、もしものことを考えていつも家に置いたお金は持ってこないようにしていたのだ。

今日も店で薬を売ってから買い物を考えていたから持ち合わせが無い。

ロイさんがあからさまに眉間に皺を刻んだ。


「そうか……俺が出そうか?」

「いえ、先に薬を売ればお金はできますから」

「……分かった。その店は、真っ直ぐ行けばあるのか?」

「はい。この大通りを直進して右手に大きな青い看板が見えたら細い路地があるので。そこに入って少し歩いたら黒い扉があります。そこがいつも行っているお店です」

「そうか。……なら早く行くか」


そう言ってロイさんがまた歩き出した。歩き出した、んだけど。


「え?……あれ?」


ロイさんがドンドン先に進んでいく。気の所為ではなく、さっきよりもかなり歩調が速い。

早く行くか、とは言っていたがまさか本当にこんなに早く歩かれると直ぐに見失ってしまいそうになる。

小走りで追い掛けようとするが、隙間から抜けるとまたそこは人混みの中。経験の無いレティにとって人波に逆らうどころか、避けることさえ困難である。

案の定、急いだ瞬間に肩をぶつけてしまった。ぶつかった初老の女性はさも迷惑そうに顔を顰めている。


「あ、すみません」


慌てて頭をペコリと下げるが、上げた時には女性の姿は何処にも無かった。代わりにドンドンと前へ後ろへと人が移動していき、レティも抗えず流されていく。

とうとう大通りからはずれた道に入ってしまった。四つ角から右の通路に流されてしまい、ここも市場が並んでいるので更に本来の方向から離れていってしまう。

ロイさんとは完全にはぐれてしまった。それどころかレティの周囲に人が途切れることがないので段々目が回ってきていた。

どうしようどうしようと内心パニックになりかけていたが、唐突に人波の流れが止まり、押されていたレティは立ち止まった前の人の背中に顔からぶつかってしまった。

「すみませ……」謝ろうとするが、先程の女性と違いぶつかられた方はレティの方を見もしない。

それどころかかなり前方を注視しているみたいだ。

その時気付いた。あれだけあった喧騒が、ここだけシンと静まり返っていることに。

いや、人の声はある。だけどそれは楽しそうなウキウキするような騒がしさではなく、怒号と悲鳴が折り重なって不協和音としてレティの耳に飛び込んできた。

何事かと音の中心地を見る。レティの身長では、人の肩や頭で良く見えなかったけれどそれでも。

どうにか見えた。というか意外とそんなに遠くなかった。避けるように輪ができていて、その中心に女性が一人と子供が一人、少し離れて男が三人いた。

女性が必死に何かを訴え掛けているが、男達がどこ吹く風のようにせせら笑っているのが見える。

レティの周囲からまただよ、だのあのドラ息子のが、だのヒソヒソと話す声が聞こえてきた。

その小さな囁きを聞いていて、一つの噂を思い出していた。

この街の領主様はとても良くできた人らしいが、その人の子供の内の一人がとてつもない性格をしていて、父親どころか街の住人達にとってすら頭痛の種となっているらしい。

しかもその不良息子、金で手下を幾つも雇っているらしく、その内の一人が喧嘩に長けているせいで警備兵も手が付けられないと聞いたことがある。

中には現行犯だったのに、警備兵を全部返り討ちにした挙げ句に罪に問われなかったとか。

領主が強く出ようにもその子供は癇癪が強いらしく、しかも物理的に反抗してくるからどうしようもないらしい。せめて雇いの手下達だけでも潰すことができれば、とカフェテラスで愚痴っていた人達を見たことがあった。

記憶を掘り返していると不意にあちこちから悲鳴が上がりレティの前まで人混みが割れた。

慌てて現実に引き戻される。目に映ったのは、仰向けに倒れた少年と、二人の男に引き倒されている女性。そして、血の滴るナイフを片手にニヤニヤと下卑た嗤いをしている男。


ーー血。ナイフ。流れている。誰が?少年が?


その光景にレティの指先が一瞬で冷えていくのを感じた。視界が狭くなる。自分が刺された訳でもないのに息が勝手に浅くなっていく。

深く突き刺さったのだろう、少年の腹部から止めどなく血が流れている。


「何をしているっ!?」


騒ぎを聞きつけて警備兵が数名、走ってくる。その中の一人が凛とした声を張り上げた。

状況を確認した警備兵達が一斉に怒りに顔を歪めていく。


「アラゴン、またお前か!現行犯で今度こそ捕まえさせてもらうぞっ」


警備兵の啖呵にナイフを持っていたアラゴンと呼ばれた男は気持ち悪い笑みを更に深くする。


「いいぜ、今回は俺一人だけだ。纏めて掛かってきてもらっても構わないぜ。そうでなきゃ俺も身体が鈍っちまうからよ」

「ほざけっ!!」


挑発に乗って警備兵の一人が抜剣と同時に斬り掛かっていく。他の警備兵は剣を抜きながらも周囲に展開していく。市民に被害が及ばないようにしているのだろうか。

警備兵の打ち下ろしの一撃に、アラゴンはヒラリと身を捩って躱していた。そのままナイフを持っていた手で警備兵の顔面に向けて突き出していく。

警備兵が慌てて下がり距離を取る。ナイフの間合いの外に出て再び構え直す。

だけど、そこまでだった。アラゴンは突き出した姿勢のまま大きく踏み込んで警備兵に素早い蹴りを放ったのだ。

横蹴りは警備兵の横っ腹に入り、吹っ飛ばされる。嫌な音を立てながら人垣の方へ突っ込みそうになったが、側に居た警備兵が慌てて受け止めた。

二人はもんどり打って倒れていく。その様子を見ながらアラゴンが肩を軽く回していた。


「おいおい、もうこれでお終いか?少しは強くなんないのかねぇ。なあ、隊長さんよ?」


吹き飛ばされたのはどうやら隊長だったらしい。

隊長と呼ばれた警備兵は同僚の肩を借りながら何とか立ち上がろうとしているが、打ち所が悪かったのか足元が覚束ない様子だった。

それを見てアラゴンは急速に興醒めしたらしい。これみよがしに盛大な息を吐いて、組み伏せられている女性に目を向けようとした時だった。

ヒュン、と油断していたアラゴンの背中に石礫が投げられた。


「あぁ?」


アラゴンが振り向けば、視線の先には先程刺された少年が身体を震わせながらも必死の形相でアラゴンを睨んでいた。

右腕は何かを振りかぶった後。皆がアラゴンに意識をやっている中、少年は近くに落ちていた石を拾ってアラゴンに投げつけたのだ。


「何だ、まだ死んでいなかったのか」


ナイフをゆっくり揺らしながら少年に近付いて行く。少年は立ち上がる力も無いのか、ただ四つん這いの姿勢でアラゴンを下から鋭く睨み付けた。

女性の悲鳴が上がるが、アラゴンは頓着せず少年の側まで近寄り、逆に少年の近くにいた人達が遠ざかる。

レティの前には誰もいなくなっていた。


「良い根性だ。気に入ったぜ坊主」


逆手に握り直したナイフが真っ直ぐ振り下ろされる。

それを間近に見ていたレティは、咄嗟に駆け出し少年を抱えて横に跳んだ。

レティの腕力では一メートルも届かなかったが、ナイフが空振りする。

ズザッと二人揃って地面に倒れたが、レティは素早く上体を起こしてアラゴンを見た。

突然の闖入者に怪訝な表情をしていたが、ニヤリと身震いしそうな嫌らしい笑みがレティを襲った。


「どうしたぁお嬢ちゃん?混ぜて欲しくなったのか?」


猫撫で声が心底気持ち悪かった。全身が微かに震えている。いや、これは未だに抱えている少年からだろうか。

後先考えずに反射的に動いてしまったが、解決策が浮かんでこない。

少年を抱えて逃げる?レティの力では持ち上げられない。

素手で男に立ち向かう?無謀過ぎる。


ならーー魔法を使う?


無理だ。森から遠すぎて危険が大きい。

嫌な汗が流れてきた。違う。さっきからずっと、血が滴るナイフを見てから汗が吹き出している。

思考が纏まらず、呼吸ばかりが荒くなる。だけどでしゃばった以上、腕の中にいる少年だけはどうにかしないと。

アラゴンがもう一度腕を振り上げてきた。後はナイフを突き刺すのみ。

レティは覚悟を決めて少年を庇い強く目を瞑った。

一秒、二秒、三秒……。

何時まで経っても衝撃が襲ってこず不審に思ってレティが恐る恐る目を開くと、切っ先が数十センチの距離で止められていた。

アラゴンの手首を掴んでいる浅黒い手が見えた。もう片手にはレティの籠を提げている。

レティの斜め前方にロイさんがいた。アラゴンが腕を引っ込めようと力を込めているらしいが、それには頓着せずに乱れた呼吸をそのままにレティをチラリと見遣った。


「間に合った、ようだな」

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