五話

家から出たレティは淡々と桶に湖の水を汲んだが、それを畑に持って行くことなく、しゃがみ込んで湖面に自分の姿を映した。

ユラユラと小さく波打つ水面に、無表情な少女の顔がボンヤリと映し出される。

翡翠よりも薄い色の瞳が凝視している。徐に、バシャバシャと顔を洗いだした。

気が済むまで顔を洗って、ようやく一息ついた。レティはハァ、と小さく息を吐き出す。

まだ寒いから吐く息は少し白い。それを見るともなしに見ながら、先程の恥ずかしい挙動を思い出して、もう一度溜息をついた。

まさか寝顔を青年に見られるとは思ってもみなかった。いつもならとうに起きている時間で、夜明け前にはベッドから抜け出して畑の水やりやら水汲みやら朝食の準備など、少なくはない仕事があるのだから。

起きた時に涎は出てなかった、と思いたい。咄嗟に俯いて誤魔化したけど、自信が無かった。

朝食の準備の間に口の回りは拭いていたが、どちらにせよ無駄な抵抗だったような気がする。

いつから居たのかは知らないが、結構な至近距離で目が合ったのだ。レティだって相手の人相がハッキリ見えた。向こうだって視力に問題が無い限り絶対見えている距離である。

切り替えるために畑に来たけれど、この寒い季節、更に一人分の小さな畑では残っている野菜や香草に水を撒くだけで終了する。時間稼ぎにもなりはしない。

混乱している間にも、身体はいつも通りに動いた。濡れた顔を適当に袖で拭いながら立ち上がり、畑に行って桶から手で水をかけていくが、あっという間に作業は終わってしまった。


「……どうしよう」


水桶を持ったまま小さく呟く。かといってこのまま棒立ちしている訳にもいかない。

体格の大きい男性であればとうに食事は終わっている頃のはずだ。しばらく街に行っていなかったからパンは少ししかなかったのだ。きっと足りないはずである。

仕方なくノロノロと歩いてもう一度湖に近付く。今度は湖全体を見渡した。

朝日に照らされた湖は相変わらず綺麗だ。レティの心情とはまるで反対で美しく輝いている。

ふと、青年の瞳も湖みたいに綺麗だったと思い出す。吸い込まれそうな紺碧の瞳は今の湖の色と瓜二つだ。


「……はぁ」


溜息を一つついて気持ちを無理矢理切り替える。桶に水を入れて家に戻った。

部屋に入るとやはり、青年は食事を終えたところだった。水を飲んでいた手を止めてこっちを凝視してくる。

レティは居たたまれなくなってそそくさと台所に向かい薬缶に水を移していく。


「……ご馳走様」


聞き慣れない声にレティは思わず振り向く。

そこにはそっぽを向いた、何とも言えない表情の青年の姿がそこにあった。実はつい先程も青年の声を聞いていたのだが、混乱の坩堝にいたレティの耳には全く入っていなかったので、この時初めて青年の声を聞いた。


「……お粗末様です」


素っ気なく返したが、この返事で合っていたのか自信がない。誰かに食事を提供するのも初めてなら、感謝の意を伝えられたのも初めてである。


「お茶は、いりますか?」

「あぁ」


向こうも簡潔にしか答えない。普段人と会話しないレティにとってはむしろ有り難いとすら思えるはずなのだが、まだ平静になっていない身としては物凄く間が保たなかった。

いっそ無心になれと自分に言い聞かせてお茶の準備を進める。薬缶をストーブの上に置いて沸騰するのを待ちながら、ポットに自家製の茶葉を入れていく。


「……すまなかった。世話になったな」


作業の手を止める。言われた内容が頭の中で咀嚼されてやっと、レティはゆっくりと振り向いて青年を見ることができた。


「……いえ、怪我が良くなって何よりです」

「いや、本当に助かった」


青年はそう言って口を閉ざしたが、何か考え込みまた口を開いた。


「もう助からないと思っていたが……あれは何をしたんだ?お前の魔法か?」

「いえ、魔法ではありません。私が作った回復薬です。無事に効いてくれて良かったです」

「……回復薬?あれがか?」

「はい、あの……?」


青年に飲ませたのは確かにレティが作った回復薬だ。

師匠が教えてくれた、師匠曰く特製の回復薬だと。

街で売ればそれなりの値段で売れるから多少は珍しいのかも知れないが、青年が顔を顰めるほどに奇妙な物を飲ませたつもりはない。


「回復薬にしては異常なほど効果が高いな」

「そうなのですか?」

「あぁ。俺が知っている範囲でだが、普通であればどんなに良くても出血を止められる程度だ」


青年の説明を聞いて、レティは内心で驚く。そんなに違いがあるのかと。

けれど、レティ以上に青年の方が衝撃は大きかったらしい。眉根を寄せ、碧の瞳が鋭くレティを見ていた。


「俺が受けた傷なら……止血程度なら死んでもおかしくなった。本当に回復薬だけなのか?」

「はい、治療に使ったのは回復薬だけです」


嘘では無いのでそのまま言う。

本当は止血に影の魔法も使ったが治癒には全く役立っていない。

それに、この魔法は一般的に見れば悍ましい類なので口にはしなかった。

魔法のことを話せば、魔女だと恐れられる可能性があるから素直に言えなかった。

青年はまだ眉間に皺を寄せて随分と考え込んでいた。

だが、やがて納得したのか一つ頷いた。


「そうか。どちらにせよ助かった。改めて礼を言う」

「いえ、そんな……お気になさらず」


そもそも助けたのは成り行きだった。変な気配を拾って見に行ってみれば倒れていたから介抱しただけだ。

改めて考え直すと碌な理由ではない。

薬缶からお湯が沸騰する音が聞こえたので会話を切るようにお湯をポットに入れ、マグカップを二つ用意していく。

ポットからは直ぐに爽やかな香りが昇ってくる。少し時間を置いて蒸らしてからカップにお茶を注いでいった。


「お茶が入りました」


カップを二つ、テーブルの上に載せる。

けれど座る気にはなれず青年の前に置きっぱなしだったお皿とコップを手に取って流しに置いていく。

先に洗ってしまおうかと思ったが、肩越しに後ろを一瞥すると、青年はテーブルの上のカップを見ているだけで、飲む様子は全くなかった。カップに手を付ける気配さえない。

もしかしてーーいや、もしかしなくてもレティが座るまで律儀に待っているつもりだ。

何で二つも淹れてしまったのか。何も考えずに準備してしまった自分に呆れそうになった。

しばらく様子を見ても青年は動き出しそうになかった。

仕方なくテーブルに戻って椅子に座る。

そうするとやっと青年はカップを手に取って中の液体を口に含んだ。

レティも倣ってお茶を飲む。口の中にはいつもの爽やかな風味が鼻に抜けていった。


「美味しいな。何ていうお茶だ?」

「……へっ?」


青年の問に、知らず素っ頓狂な声を出してしまった。

しばらくしてお茶の名前を聞いているのだと分かったが、レティも名前は知らなかった。

だから素直に言った。


「さあ、私も何のお茶か詳しくは知らないんです。だけど、師匠が昔から作っていたお茶で」


花と草をブレンドさせた物だ。比率では少しだけ花の方が多い。


「師匠?師匠がいるのか。今は何処に?」

「あ、師匠はもう今はいないんです。数年前に亡くなって」


ピタリと、口に運んでいたカップの手が止まった。見る見る青年の眉間に皺が刻まれていく。


「……それは悪いことを聞いた」

「いえ、気にしないで下さい」


あの眉間の皺は後悔から来たものらしい。渋面は彼の癖なのかと思った。

だけど青年が気に病む必要は無いのだ。

亡くなった最初の内はレティも寂しさを抱いたものだが、今でもラフィはいるし、随分と一人にも慣れたと思う。

青年は無言のままカップを傾けて飲んでいた。レティも特に、青年に何か聞きたいこともないので、黙ったままお茶を啜っていた。

やがて二人とも飲み干し、それぞれがカップをテーブルに置いた。

青年は何故か空になったカップを見つめていたが、ポツリと小さく呟いた。


「……久しぶりに美味いお茶を飲んだ。礼を言う」


素っ気ない言葉だったが、どうしてかレティの胸がフワリと温かくなった。


「いえ、こちらこそ」


青年にとっては意味が分からない返答だっただろう。それでもレティは無意識に口に出していた。

師匠特製のお茶を褒められて嬉しかったのだと、レティが気付くことはなかった。

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