第44話 みんなのミ

「イロハ、今回は特にお願いしたい事がある」


 3月の初め、卒業演奏会の練習のため西谷高校を訪れた瑠璃は、練習室に入るなり彩葉に言った。


「イロハは今度の演奏を聴かせたい人っている?」

「それは…小島先生とか、音楽科の友だちとか」

「そういう一般論じゃなくて、特にこの人に聴いて欲しいっていう誰かだ」


 彩葉は思い浮かべた。


「やっぱり…一番は翠、かな」

「だな。それは私も賛成だ。イロハが色を見えるようにって、ずっと一緒に考え続けてくれたのは翠だと思う」

「はい」

「だから、そのために吹いて欲しいんだけど、ここからは私のお願いだ」

「え?なんか、怖いんですけど…」


「黄色が見えるイロハなら大丈夫。この曲、バッハだよな」

「はい」

「まだ受験脳生きてるだろ。バッハと言えば?」

「えー、えっとフーガとか対位法?」


 瑠璃は満足そうに頷いた。


「バッハ爺さんの写真見て、ずっと前にイロハ、恐そうとか言ってたよな」

「あー、そうでした」

「でもこの曲選んだ時、バッハに色を付けてやるって意気込んでたよな」

「はい、そうでした…恥ずかしい」

「いや、それが大切なんだよ。対位法ってcounter pointって言うだろ。元々はpoint、つまり音符と音符を繋ぐってことだ」

「はい…、読んだ気がします」

「うん。音ってさ、縦に重ねると和音になる。でもバッハ爺さんはそうじゃなくて、音と音を横に繋ぐことの美しさを表そうとしたと思うんだよ。もしかしてバッハ爺さん、堅物のロマンチストだったんじゃないかって気がする」


 彩葉も頷いた。バッハが作ろうとしたものが垣間かいま見えた気がしたからだ。


「音が流れ出て、飛んで舞ってゆくイメージ。朱雀も言ってたろ。ポンポンと飛んでいくんじゃなくて、四方八方に波になった糸みたいのがいろんな揺れ方をしながら放射される。そんな波が都度都度いろんな色に輝くんだよ」

「最近、そんなイメージ、解って来ました」


 瑠璃は微笑んだ。


「バッハ爺さんのフルートソナタじゃピアノは伴奏じゃない。ガチなんだ。イロハのフルートと私のピアノは対等。それぞれのメロディが流れ出て、追いかけっこしたり、じゃれ合ったり、真似っ子したり、それでいて調和している。仲の良い兄弟姉妹とか家族みたいだね。そんなポリフォニーを描きたい。イロハ、みんなに聴かせてやってくれ、音と色で。私も頑張るから」


 彩葉ははっとした。兄弟姉妹、家族。そうか、みんな来るんだ。朱雀さんもお父さんお母さんも翠も翠のお母さんも。彩葉には瑠璃が言いたい事が判った。バッハさんの意志はちゃんと受け継がれている。そして、あの『湯立の紅葉』の原曲で瑠璃先生も思い知ったんだ。元カレが考えたって言うポリフォニー。それが朱雀さんの手で私と朱雀さんのポリフォニーに変貌した。心地よい音の空間だった。私と朱雀さんはあの時確かに繋がっていた。横断歩道で助けてもらった時のようだった。そんな風に翠もお母さんも、みんなを繋げたいって瑠璃先生は考えている。私と瑠璃先生のメロディを、そんな風に聴いて欲しいって願ってるんだ。


 彩葉はフルートを握りしめた。


「瑠璃先生。私、頑張ります。翠にも恩返ししなくちゃ。ずっと私を支えてきてくれたから」

「うん。本来はイロハの卒業を記念する演奏なんだから、こんな気持ちを割り込ませるのはナンセンスだと思う。だけど、私、思ったんだ」


 瑠璃は人差し指を上げて見せた。


「朱雀が指を失いこっちへ来て、雪の横断歩道でイロハに出会ってからずっと繋がってきたメロディに、実はみんなが乗っかってるんじゃないかって。朱雀とイロハ、イロハと翠、私らと翠、翠と父さん、父さんたちと緑さん。みんなそれぞれの旋律が人生って大舞台でのポリフォニーになってるんじゃないかって。それに気づかせてくれたのは私の元カレだよ。もうこの世にいないけど感謝しかない。だからこの曲の主題モチーフはイロハなんだよ」


 瑠璃は人差し指を下した。


「私もその家族の中に入れて頂けるんですか?」

「勿論だよ。この壮大な曲は、そもそもイロハから始まったんだ。それに、次の楽章じゃ本当に家族になっちゃうかも…だろ?」


 瑠璃は悪戯っぽく笑った。


+++


 彩葉の卒業演奏会は、卒業式の日の午後に行われた。演目はバッハのフルートソナタBWV1030。

優雅な曲に聴こえるが、緻密に設計されたJ.Sバッハの名作である。彩葉も瑠璃も忙しい曲だ。二人の追いかけっこ。並んだり離れたり迎えに来たり背中を押したり、息つく間もなく次々にフルートとピアノから音の波が繰り出される。彩葉は三連符が続き頬が痙攣しそうになっている。瑠璃は彩葉の背中を、その揺れ具合を見ながら動きを合わせて心地よく鍵盤を叩き続ける。



 翠はその投網に心を絡め取られていた。彩葉の奏でる音が、素直に心に入って来る。翠はバッハだのモーツァルトだのはよく判らない。けど隣で目を瞑って聴いている母や、少し前に座っている朱雀兄貴やお父さん、それから朱雀兄貴のお母さんや、それからえっと小島先生にも北原先生にも、きっと、きっと彩葉の奏でる『みんなのミ』が届いている。

綺麗だよ彩葉。三年間の彩葉の集大成なんだ。音楽だけでなく、いろんな意味での集大成。この地での最後のワンステップ。そういう意味ではあたしも同じだ。

 これからどうなるんだろう。貝原家での生活。初めての東京での生活。全国からやって来る同じ志を持った学生たち。あたしは上手くやっていけるかな。凹むことも多いだろう。けど家に帰れば彩葉がいる。もう一つの家族もいる。きっと何とかなるよ。つらつらと将来を思い描きながら、翠は彩葉と瑠璃の音の波に揺られていた。



 緑は寝ている訳ではない。ピアノもフルートもちゃんと入って来る。健介さんの奥さんが来るって言うから、音楽どころじゃないかと思った。しかし小波を越えるように、するっとこの空間に収まったのだ。来月からは一人。久し振りに旅に出たくなった。ヨーロッパがいいかな。翠が幼い頃は足りなかった有給休暇も今は余っていることだし、一人石畳を歩いて、街頭カフェでのんびり人間観察して、それからこうやって音楽を聴くのもいいかも。でもきっと翠のこと、心配になるだろうな。彩葉ちゃんや貝原家の人と一緒だから変な心配はしなくていいけど、そのまま翠が帰って来なかったら…。ま、それでもいいか。

ああ、フルートの音ってこんなに柔らかかったんだ。あの子、瑠璃さんだっけのピアノと上手に絡んでいる。今になって瑠璃さんが言ったアンカーって言葉がよく判る。私も舞い上がろう、このメロディのように。



 健介は妻と手を繋いで聴いていた。妙なことになったのは確かだ。けど、ずっと昔の因果がこんな結果をもたらすとは思ってもみなかった。緑との縁は切れなかったが本人もさばけているし、麻実も何も言わない。自然体だ。丁度この演奏のように、嫌味なく、素直に二つの音色が絡まる。瑠璃はじっくり聴いてねと言っていた。二つの音色は二つの家族のことだったのか。その中から翠の未来が新たに紡がれてゆくだろう。それも彩葉ちゃんがいたからだ。十数年前から突然やって来た彗星の尾のように、みんなを巻き込みながら音が頭上で渦巻いている。人生って本当に不思議だ。

瑠璃も朱雀もよくやってくれた。老いては子に従え、その通りだった。健介は握る手にそっと力を籠めた。



 なんで健介、手を繋いでくるんだろ。緑さんへの当てつけ?麻実は訝しんでいた。けど、緑さんって初めて会ったけど初めての気がしなかった。翠ちゃんなんて、姪っ子みたいな懐かしい気がした。私も余裕が出来たもんね。あの子ならいけるかも知れない。健介は病院を継がせる気なんてないって言ってたけど、病院もこのままって訳にいかないし、瑠璃が言った通りだったら、大学の転部だって可能だし、看護師になってから医学部に通ってもいい。そんなポテンシャルは持ってる子だ。瑠璃と朱雀にまんまとやられたかも知れない。本来ならこんな気持ちになる筈ないのに、この演奏を聴いていると、みんな許せる気がするのは何故だろう。麻実はメロディに身を委ねた。



 彩葉ちゃん。確かに見えるよ、受け取っているよ、キミの色。偶然出会って以来、手の事で腐ってたオレを再生してくれたのはキミだ。本当に有難う。色が見えるとか見えないとか、そんなレベルじゃなかったな。朱雀は目を細めた。いろんな因果や出来事が組み合わさって、しかし綺麗に調和して流れて行く。まるでこの曲みたいだ。バッハが仕掛けたコンポーネントが随所に散らばり繰返し追いかける。姉ちゃんと元カレが気づかせてくれた音楽の妙。彩葉ちゃん、もうちょっと待っててくれ。もう少し極めさせてくれ。オレにもうちょっと自信が出来たら、その時は本気でキミを受け止める。それまでは姉ちゃんにくっついててくれ。今でも思い出す雪の横断歩道、朱雀はこの2年余の自分と彩葉の成長を全身で聴いていた。



 イロハ乗ってるな。今日は大丈夫だ。見える色が増えるたび、イロハは大きくなってきた。きっと見えると言う現象だけではないものがイロハの全身にもたらされたんだ。それにしてもよくこの曲を選んだ。何が始まりでどこに行き着くのか判らない。けど見てて俊。『森から青』は確実に私の中で消化されている。私と一体になっている。あなたとなれなかった代わりに、あの曲が私の魂に溶け込んだのよ。有難う俊、決して無駄にはしないから。

よし、ここからカノンだ、イロハの音色に負けないよう、私も響かせる。みんなを覆いつくせ、みんなを繋げ、バッハの調べ。瑠璃の十本の指は華麗に踊った。



 何も考えない。私の目は譜面を追っているようでそうでない。今はただ聴かせたい。会場のみんなに、ただただ私のカラフルになった心象を届けたい。瑠璃先生のピアノが追って来る。嬉しい。音楽がこんなに楽しいなんて。演奏するのがこんなに嬉しいことだなんて。彩葉は様々な色に変化へんげする音の波をまとい、放ちながら揺れていた。水の中で揺らぐ海藻みたいに、差し込む陽の光に目を細めながら、すり抜ける魚たちにキスを送る。世界はみんな私のものよってうっとりしちゃう。あ、瑠璃先生が走ってる。大丈夫、今日は余裕だよ、一気に追いつくから。

行け、みんなのミ! みんなの心へ!


 彩葉の音色は七色に輝き、七人を包んだ。

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