第40話 支えるため

 帰り道、翠は口数が少なかった。瑠璃の一言で、今日最後の彩葉のフルート演奏は伸び伸びとした。彩葉らしい、自然な音色だった。片隅でじっと聴いていた翠にも、その色が届いたのだ。黄色なんかどうでもいい彩葉の色が。


 あたしの色はどんな色だろう。彩葉の音色は人を癒せる。あたしが治療することになったら人を癒せるのか。最新設備で人を癒せるのか。勿論、人を救う事は出来る。それは大切だ。彩葉の目を救うこと、それは彩葉にとって大切なこと…なんだろうか。彩葉の音色がもっと良くなる事なんだろうか…。 解らない。


 彩葉と別れ、一人で夜道を歩く翠の上から、容赦なく雪が降って来た。翠は傘を畳んで立ち止まる。髪に、まつ毛に雪が積もる。冷たさに耐えながら翠はじっと考えた。そもそも翠が看護科を選んだのは、単に手堅いからと言う訳ではない。それは幼い頃の思い出だった。


+++


 翠が小学校低学年の頃、母・緑が過労で倒れ、入院した病院で、翠はまだうら若い看護師に何から何まで世話になった。緑の看護は勿論、まだ小さい翠の食事や学校の事まで気を配り、一緒に居てくれた。


『お母さんは大丈夫だからね。元気になるまでは、私が翠ちゃんのお姉ちゃんになって、一緒にいるからね』


 病院側が母子家庭を配慮してくれたのだが、その優しい看護師のお姉さんに翠は憧れた。本当に白衣の天使だと思った。そばにいてくれることの安心感、そして優しい心遣いの中でもきちんと患者に目を配り、テキパキと仕事をする姿。そう言った全てに憧れた。以来、ナースの白いユニフォームが翠にとっての未来の象徴になったのだ。


 医師になっても同じ気持ちでいられるのだろうか…。


+++


 彷徨う心を抱えたまま翠はクリスマスイヴを迎え、いつもの音楽科・練習室にいた。昼間は図書室で勉強し、彩葉を迎えに来たのだ。イヴだと言うのに瑠璃も付き合っている。


「あーイロハ、低音はもうちょっと控え目に。演歌じゃないんだからコブシみたいなの要らないし」

「はい。スタッキングから続けるとそう聴こえちゃうんですね」

「一旦切れない程度に弱くして、ふわーっとせり上げる感じに吹いた方がいいと思う。落葉が巻風で舞い上がるみたいにな」

「はい」


 彩葉は活き活きと吹くようになった。聴いていても良く判る。あたしは、あたしはどうする…。



トン・トン  


 ドアがノックされた。翠も振り向く。入って来たのは、え?お父さん?


 瑠璃が健介に向かって手を挙げる。


「いらっしゃい、揃ってるよ」


 そして彩葉と翠に言った。


「どういう風の吹きまわしか、みんなに奢りたいんだってクリスマスディナー。翠のお母さんも呼んでるから」


 彩葉が驚いて口に手を当てる。翠は拳を握りしめた。


「おう翠、どうだ?勉強の心配はしてないけど身体には気を付けろよ」


 壁際のパイプ椅子を拡げ、健介は翠の隣に座った。


 翠は思い詰めた。クリスマスイヴ。きっとお父さんは嬉しくて来てくれたんだ。あたしが受け入れて、それで飛びっきりの好意を持って来てくれたんだ。だけど、だけどお父さん…、


 翠は立ち上がり、いきなり健介の前に正座した。


「どうした?」


「お父さん、あたし、あたしやっぱり看護に行きます。看護にさせて下さい。せっかく医学部勧めてもらったけど、あたしは看護の道に行きたい。お父さんの病院、継げないけど、ごめんなさい」


 翠は健介の目で額を床にすりつけた。瑠璃も彩葉も呆気に取られている。健介は数秒間、そんな翠を見つめていたが、椅子を降りて翠の傍らにしゃがみ込むと、そっと手を添えて、翠の上体を起こした。


「翠、初めてお父さんって言ってくれたね。俺にはそれで充分だ。行きたい道に進みなさい。ごめんよ、余計な心の負担を掛けさせたかも知れない。ずっと肩身の狭い思いをさせて来たのにいきなり重すぎる荷物を背負い込ませたかも知れない。翠には翠の想いがあるんだろ。それに素直に生きなさい。それでいいんだよ」


 健介は翠の上体を抱き締めた。


「でも、でもお父さんの傍で働きたい…です」

「有難う。有難う。待ってるよ。浄御原の看護も超一流だ。やりがいあるよきっと」


 健介は手を放し、翠を椅子に座らせた。彩葉が声を掛けた。


「翠、本当にいいの?医学部行きたかったんじゃなかったの?」

「ううん、ごめん彩葉。あたし、一番大事なこと忘れてたと思う。ちょっと目がくらんじゃって」

「そう?邪魔者をやっつけたいんじゃなかったの?」


「その時はそう思った。それはそれで大事なことだとは思う。けどあたしはやっつけるんじゃなくて、彩葉とか患者さんとかと並んで歩きたいの。同じ方向を見て、一緒にお手伝いしたいの。それが本当にやりたかったことなんだって、気がついた。正しい色なんてないって、瑠璃姉さんの言葉で気がついた。だから彩葉、また一緒に通学しよう、東京で。同じお家から通って、同じお家に帰ろう。黄色はあたしが見てあげる」


 健介が翠の肩を抱いた。その指先にぎゅっと力がこもる。目には涙が浮かんでいる。


「いい子に育ったな。なあ瑠璃、自慢の妹だよ」


 健介はこっそり後ろを向いて涙を拭っていた瑠璃に声を掛けた。ハンカチを仕舞いながら赤い目で瑠璃が振り返る。


「イロハ、今日はこれでおしまい。オヤジの奢りだ。受験忘れてぱーっと食べようぜ」


 翠も彩葉も赤い目で一斉に頷いた。


 窓の外では粉雪がちらちら舞っている。今年の街はホワイトクリスマスになりそうだった。

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