第38話 お願いバッハ
この街は秋の終わりともなれば、雪になりかけの雨が続く。空は鉛色、気温も人々の気持ちもぐっと下がる。そんな空を覗いて瑠璃が言った。
「今日はもうやめよっか」
バッハのシンフォニア1番を練習していた彩葉は、瑠璃の声にピアノの手を止めた。
「はぁー、難しいです、これ」
「ふふ。フルーティストの割にはイロハよくやってるよ」
「ですか?自分の手が蛸になったみたい」
「なんだそれ」
「二本が三本になって、四本になってってどんどん増えてく感じ」
「ちゃんとポリフォニーを意識してるってことだよ」
そうなのかな、彩葉はキーカバーを鍵盤に伸ばしながら恐る恐る切り出した。
「あのう、瑠璃先生、今度こそ卒業演奏会の相談です」
「おう、コジババ演目決めてくれた?」
「私が無理を言って、渋々決めてもらいました」
「へえ、何にしたの?」
「それが、バッハです…」
「バッハ?フルートで?」
「はい。なんだかこの頃
「へえ」
瑠璃には彩葉がちょっと眩しく見えた。成長してるな。私と同じ事を思ったんだ。バッハは決してモノクロームなんかじゃない。確かに『神よ憐れみ給え』はモノクロームに色付けされた曲だったかもしれない。だけど、さっき彩葉が弾いてたシンフォニアも、弾き手次第で流麗な色が流れて来る。いいぞイロハ。朱雀の想いが確実に実を結びつつある。
「じゃ、もしかしてフルートソナタ?」
「はい…。厚かましくもロ短調なんです。第1楽章だけ」
「おお、1030か。有名な曲だな。結構好きな子が多いよな、難しそうだけど」
「頑張ります。それで、瑠璃先生、ピアノ伴奏お願いしていいですか?」
「え?私?いいのか、卒業演奏会なのに」
「コジババ、じゃなくて小島先生も、私の危なっかしいのを支えられるのは瑠璃先生しかいないって」
「へえ、私も出世したもんだねえ、コジババのお褒めに預かるとは。今度、ライブに乱入してやろうかな」
「えー、やめて下さいよ、私卒業できなくなっちゃう」
「冗談よ。じゃあ今度から地獄のレッスンと行くか」
「えーー」
「いいよ1030は。それ位やれれば若月も楽勝で入れる」
「若月…ですか?」
瑠璃は彩葉の隣に腰かけた。
「今日はイロハに勧めようと思って来たんだ。受けてみなよ若月音大」
「だって、東京です」
「いいじゃん。私が面倒見てあげるよ」
「へ?」
「部屋余ってんだ、我家は。父さんが病院みたいにやたら部屋作っちゃってさ、下宿生大募集中、瑠璃様とご一緒の朝夕食事付!」
「えー、瑠璃先生のお家ですか?」
「そ。大学近いよ。それにさ、もしかすると翠も来るかもよ」
「翠?え?」
「ふふ。楽しみにしときな。北原爺さんの北泉は滑り止めに受ければいいよ。家帰ってさ、お母さんに相談しておいて。破格の下宿あるからって。保護者として瑠璃先生、用心棒としてアイアンクローの朱雀付き」
彩葉は呆気にとられた。若月音楽大学、憧れだ…。それに、朱雀さんがいる。彩葉の胸は詰まった。
「じゃ、瑠璃先生の進路指導付実技授業はこれでおしまい。来週聞くからさ、真面目に相談しておいてよ。高校生活最後のバッハがモノになるなら、イロハ、大丈夫だよ。自信持て」
そう言って瑠璃は颯爽と出て行った。
彩葉はもう一度ピアノの蓋を開けた。さっきまで弾いていた楽譜を立てる。
連れてって。私を朱雀さんのところへ…、バッハさん。お願い。
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