第37話 分かれ道
翠の希望は緑から健介に伝えられ、快く了承された。翠の新しい志望校は
翠は健介から願書と一緒に送られて来たパンフレットを、いつものドーナツ店で彩葉に見せていた。
「ね、すっごいでしょ。ずっと昔から国立大学以上の人気なんだって」
「へぇ、難関だよね。偏差値が私の数学の点くらいだ」
「はは、彩葉、もうちょっと頑張って。音楽には関係ないかもだけど、将来子どもに笑われるよ」
「うわ、そんなとこまで考えた事なかった」
「でも今のところA判定だからなんとかなると思う」
「秀才は余裕ねぇ。ウチのお母さん、翠に家庭教師頼みたいって真剣に言うんだよ」
「受験生が家庭教師?」
「翠は勉強しなくてもどこでも行けるからヒマしてるって勝手に思ってるみたい」
「逆にプレッシャーだ」
「下宿、どうするの?」
「うん、受かってから考えるけど、お父さんが探してくれるみたい」
「そっか。突然凄いお父さん来ちゃったねえ」
翠は照れ笑いを浮かべた。本人にはお父さんなんて呼んだことないんだけど…。
「それにさ、朱雀兄貴の指も浄御原の外科で作ったんだって」
「はい?朱雀さんの指、作ったって?」
「あ、彩葉知らないんだっけ」
「うん、怪我したって瑠璃先生から聞いたけど」
「あーそっか。ごめん。でも言っちゃう」
ややハイになっていた翠は、以前、北泉音大を訪ねて北原先生に聞いた話を勢いで話した。
「マジ?」
「うん」
「そう…なのか」
「ショックだった?」
「ショックって言うか、それで初めピアノを弾きたがらなかったのか。でも前の演奏会ではスムーズだったよ。もう治ったんじゃない?」
「無くなった指は戻らないけど、朱雀兄貴が慣れて来たんじゃない。義指の扱いに」
彩葉の中にはいろんな感情が渦巻いたが、様々な疑問はこれで解決した。1学期末演奏会のピアノ伴奏を聴く限り、それほどのハンディとも思えない。けど、私には話してくれなかった。やはり私のことは副科の生徒の一人だったのだろうか。保健室で抱き止めてくれたのは、只の演奏のご褒美だったのか。
そんな彩葉の表情を翠はじっと見ていた。やはり彩葉は朱雀兄貴のこと想ってる。あたしにはどうしようも出来ない、何もしたくないけど。
「彩葉?」
「あ、ごめん、ちょっと考えちゃった」
「朱雀兄貴はもうこっち来ないみたいだから、だから彩葉が気にすることないよ。元気みたいだし」
翠が妹風を吹かせ、彩葉もそれに押された。考えても仕方ない。家族には勝てっこない。
「それよか彩葉。あたし絶対治してあげる。彩葉の目。正常な目に戻してあげる」
「あ、有難う。圧がハンパないなぁ。別に困ってないんだけど」
「ううん、やっぱちゃんと見えたほうがいい。みんなのミ、見えるようにあたしがやっつけてあげる」
「えー?私、やっつけられるの?」
「彩葉じゃないよ。彩葉を邪魔立てする悪いヤツをやっつけるんだよ。最先端の何かで」
「有難うね、翠。この頃翠、輝いて見えるよ。まっぶしー」
「なにそれ、後光ってヤツ?」
二人は笑い合った。希望通りになれば二人は離れ離れになる。判っていたけど互いに口には出せなかった。
翠と別れて自宅へ歩く彩葉はやはり寂しかった。一つは朱雀の事だ。私だけが知らなかった。良かれと思って朱雀さんは言わなかったんだろうけど、瑠璃先生も気を遣ってくれたんだろうけど、それでも一人だけ仲間外れにされた気持ちは抜けない。今さらだけど。
もう一つは翠だ。翠とはずっと一緒だと思っていた。だけど、いつかはどこかで分かれ道が来るんだ。黄色が見たいのは事実だけど、そのために翠が東京に行くのだったら、私は引き止めちゃうかもしれない。でも今の翠はそうじゃない。ずっと押し殺していた夢が叶いそうになっているんだ。私には引き止められない。
私はどうなるんだろう。北泉音大に受かったとしても、その先どうなるんだろう。プロのフルーティストとしてやっていける人はほんの一握りだと聞いている。ソロが無理ならどこかの楽団に入ってって、でもこの辺に大きな楽団はない。あったとしてもフルートを何人も抱えることはないだろうし、メジャーな楽器だから、そもそも不足していることはないだろう。じゃ、どこかの音楽教室の先生? それで習いに来たサラリーマンと恋をして結婚ってなるのかな。お母さんが望みそうな将来だ。朱雀さんなんてどこにも出て来やしない。
「あーあ、そんな遠い先の前に、入試の課題と卒業演奏会の演目決めないと」
彩葉は自分を鼓舞するために声に出した。
一方の翠は、帰り道も上機嫌だった。お父さんの提案で一気に開けた視界。やっつけてやる、彩葉の邪魔をする悪いヤツら。治ったら彩葉、どんな顔するだろうな。朱雀兄貴も褒めてくれるかな。それにしても朱雀さんが兄貴だったなんて、あたしが感じたシンパシーはこれだったなんて…。もう吹っ切れたけど。
自宅マンションが見える角を曲がったら、空に大きな月が見えた。自分でも今日はちょっとハイになっていると感じる。あのお月さまのせいかな。翠は足を止めた。大学病院の面会室で朱雀兄貴と眺めた夕日もこんなに大きかった。
朱雀兄貴は彩葉のこと、ちょっぴり想ってたな。そして彩葉だって同じだ。これ以上二人が進展したら、あたしはどう感じるのだろう。流した涙の代償をぶつけたくなるのだろうか。そんなことを思う権利はもうないんだけど。
翠は彩葉と会話が途絶えた何か月かの事を思い出した。最初は本当に腹が立った。彩葉が朱雀兄貴の病気を酷くしたと思い込んだ。でも看病を続ける中で、あの伴奏が直接原因じゃないってことも解った。それでも彩葉には謝れなかったんだ。あたしが意地を張って。
瑠璃姉さんが間に入ってくれて、それで彩葉に謝らせて、でも全然すっきりなんてしなかった。だからあたしは彩葉の目を治してあげたいんだ。それが彩葉への『ごめんなさい』になるだろうから…。
『そこで一旦止まれ』
大きな月がそう言っているように翠は感じた。だよね。今はこのままでいい。朱雀さんは兄貴で彩葉はずっと友だち。なにがどうなろうと明日のことは明日のあたしに任せよう。
翠は月を見上げ、また一歩を踏み出した。
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