第35話 治してあげたい

 秋、色づいた木々の中を彩葉と翠は歩いていた。今日は二人で志望校見学。朝から県立看護大学へ行き、今、北泉音楽大学を見て回った帰り道だ。北泉音大の正門からは、大学らしく銀杏並木の道が続いている。


「黄色、見えたらよかったな」


彩葉は呟いて、木々を見上げた。


「この葉っぱ、黄色なんでしょ。前に来た時は緑だったから判ったけど、真ん中の薄い色になっちゃった」


「びっくりしたよ。彩葉が信号の真ん中が白のままだーって言った時は」


翠は彩葉の肩に手を置いた。


「私は元々が判らないから何が見えて何が見えてないか判んないんだけどね」


 彩葉の色覚は緑と青が識別できるようになったものの、どう言う訳か黄色と白の区別がつかないままだったのだ。


「私、みんなのミが黄色って話、ずーっと考えてたんだ。どんな色だろうって。そいで調べてみたらさ、黄色って明るくて楽しくて幸福の色だって、なるほどなぁ、それでみんなの色にしたんだって思った。だから見たかったな、黄色」


「そうか…。あたし、彩葉に色見せるって決めたから頑張らないとな」


 翠はちょっと落ち込んだ。あたしが彩葉に約束したのに、結局、赤も青も緑もみんな朱雀兄貴が彩葉に見せたんだもんな。瑠璃姉さんも一役買ったし、あたしだけが何も出来てない。


「ね、翠は朝行った看護大学にするんでしょ?志望校」

「んー」

「バスで通えるし、中も綺麗だったし、カフェまであったし、公立なのに新しいといいね。古臭い北泉と大違いだ」

「うん」


 そう、県立看護大学は素敵だった。5年前に引越ししたらしく、緑の多い広くてきれいなキャンパスだった。公立だから学費も奨学金で何とかなりそうだし、バイトすればお母さんにもそれ程迷惑じゃなさそうだ。しかし…、しかし看護学部では彩葉の色覚を治す勉強は出来ない。看護師は治療が出来ないから、就職してもそれは変わらない。何故、胴上げで青と緑が見えるようになったのか、そして黄色を見せるにはどうすれば良いのか、そう言った研究をするのは医師の職分だ。このままじゃあたしは彩葉を治してあげる事が出来ない…。でもな。


「医学部なんか行ける訳ないし」


 翠は小さな声で呟いた。


「は?医学部?」


 音楽をやっているからなのか、目が機能不全な補償なのか、彩葉は耳がいい。


「あ、ごめん、独り言」

「翠、医学部行きたいの?本当は」

「いや、無理だから。どう考えても無理でしょ」

「成績だけなら行けそうだけど。でもお金かかるんでしょ、医学部」

「そ。だからムリ。6年かかるんだよ。その後もお給料殆どないって書いてたし、ウチじゃ全然ムリ。お母さん過労死しちゃうよ」

「でもなんで?ずっと看護師って言ってたのに」

「ごめん、大したことじゃないんだ。看護だと彩葉の目を治してあげられないなって。そういうの研究したり治療したりって医者の仕事だから、看護師じゃできないんだ」

「えー、それで?そんなのいいよ。私は大して困ってないから」

「だって黄色見たいんでしょ」

「悪かった。我儘言って。私は大丈夫だから。翠は私のことなんて気にしないで、好きなことやってよ」


 翠はそれきり黙ってしまった。彩葉は少し気まずかった。私があんなこと言ったから…。銀杏の葉っぱなんて黄色でも白でもどっちでも構わない。彩葉は足元の落葉をぐいっと踏みつけた。


「ごめん、翠」


 彩葉も小さな声で呟いたが、その声ははらはらと落ちて来た黄色い葉っぱに塗りこめられるように消え、翠には届いていなかった。


+++


 その週の副科実技の時間、相変わらず瑠璃が厳しく彩葉を仕込んでいた。教本はインベンションから同じバッハのシンフォニアになっている。


「イロハ、じゃあ次から1番やろっか」

「はい、後回しにするって仰ってたヤツですね」

「うん。特別に難しいとかそう言うんじゃないけど、3声判ってからやった方がいいって北原の爺さんが言ってたからね、私も従う事にした」

「三つはフルートじゃ大変です」

「手は二本あるけど、口は一つだからね。ま、でも彩葉も三色は判るようになったんだし」

「あ」

「ん?」


 彩葉は迷った。差し出がまし過ぎるかも知れない。怒られちゃうかも知れない。でも…。


「瑠璃先生、ちょっと相談が」

「ん?卒業演奏会かな」

「いえ、翠のことで」

「翠?」

「はい。この前一緒に大学の見学に行ったんです」

「うん。北泉だよな」

「翠の看護大学も付き合って行きました」

「ほう」

「帰り道、翠、気になること言ってて」

「うん?」


「あの、翠。本当は医学部に行きたいみたいです」

「医学部?」

「はい。私の色覚を治したいって。看護じゃ治せないって言ってましたけど、本当はそれだけじゃないかもです。翠、医学部に全然行ける成績なんですけど、やっぱりお金とかで無理って」

「ふうん。で?」

「瑠璃先生はお父さんが同じだから。私が言う事じゃないんですけど、翠には助けてもらってるし」

「なるほど。跡継ぎ候補か…」

「瑠璃先生のお父さん、怒るでしょうか?」

「さあねえ。家庭内と言うか夫婦の問題も絡むから微妙だけど、ま、イロハの気持ちは解ったよ。保証は出来ないけど」


 彩葉は立ち上がって深々とお辞儀をした。


「どうか宜しくお願いします」

「おいおい、保証は出来ないって言っただろ。それよか卒業演奏会の方が大変だろ。演目考えなきゃ、卒業できないよ」

「うわ」

「翠だけが大学生になったりして」

「やめて下さいよ」


 彩葉は本気で焦った。

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