第11話 グレーゾーン
どうにもすっきりしない。翠は気にかかっていた。先日の朱雀の件だ。あの血痕の主が朱雀だとしたら、彼は何か問題を、いや病気を隠しているのではないか。校門で倒れた時のこともある。知らんぷりできないよ。だってあたしは看護科なんだから。
彩葉の話だと、貝原さんは先生を追いかけて来たという。先生って、これまで彩葉にピアノを教えていた北原慎吾(きたはら しんご)先生の事だろう。何か知っているかもしれない。翠はモヤモヤを晴らすため、彩葉に内緒で北泉音楽大学へやって来た。大学なんてところに来るのは初めてだ。翠は案内図を見て、まず事務室を探し出す。幸い事務室は真ん中の建物の1階にあった。窓口に居た女性スタッフに尋ねてみる。
「あの、北原先生はいらっしゃるでしょうか?」
「はい? あなたは?」
「西谷高校の生徒です」
「ああ、北原先生が教えに行ってる高校ね」
「はい。お怪我とか気になったので」
翠はちょっと誤魔化した。
「あら、それは有難う。ちょっと待ってね」
事務員は振り返って電話を掛けた。『はい、はい、判りました。お部屋の方ですね』
「えっとね、3号館の4階に先生のお部屋があるのよ。そこへ行ってくれる?この地図見て行ってくれたらいいよ」
女性スタッフに手渡されたマップを見て、翠は北原先生の部屋を探し当てた。
トントン。
「はい」
「失礼します」
「あれ?キミは?」
「すみません。西谷高校看護科の高倉と言います」
「看護科の生徒?音楽科って言ってたけどな」
「すみません、そう思われただけだと思います」
「ふうん、それで突然どうしたの?あ、私の足の状態見に来たとか?まあ、そこに座って」
翠はソファを勧められ、おずおずと座る。書棚には楽譜がずらっと並んでいるのが見えた。
「いえ、実は貝原先生の事なんです。糸巻さんが友だちなのでちょっと気になって」
「ああ、糸巻さんは今は貝原君が教えてるんだったね?」
「はい。でもこの頃時々咳込まれていて、それと左手にずっと手袋されているので、私、看護科なので、どうされたのだろうって。もし何かお手伝いできたらと思ってるんですけど、貝原先生は何も仰らないんです。でも貝原先生は北原先生を追っかけてここに来られたって聞いたので、北原先生はご存知かなと」
「ああ、よく見てるね。さすが看護科だ。頼もしい。たまに咳はしてる気もするけど、そんなに酷いかなあ。手袋はね、看護科の生徒だったら知っておいた方がいいかな。そもそも彼は私を追いかけてここに来たんじゃないんだよ。私はここでずっと教えてるし、彼は東京の若月音楽大学の学生でね。元々ピアニストなんだ」
「ピ・ピアニスト?」
「うん。小学生の頃から神童って騒がれてたみたいでね。それが音大に入って間もなく、側溝に落ちかけた子どもを助けようとして、側溝の蓋で左手の指を挟んでね。あれ重いし自分も蓋に乗ったもんだから、指が潰れちゃったんだ。もう大事件だったらしい」
翠は息を呑んだ。
「指の切断なら、手術で繋げられるそうだが、潰れたんじゃ無理なんだってな。ま、そこら辺はキミの方が詳しいかも知れんが。それで左手の三本の指に人工の義指を嵌める事にしたんだ。上から肌色の樹脂製のカバーをしてるからパッと見には判らんけど、まあ、それでも気にして手袋してるんだよ。彼が追いかけてきた先生は、その道の権威の先生だ。ここの国立大学の医学部の教授になられたんでね。臨床実験の意味もあるみたいだから、どうしてもこっちに来たいって若月音大の先生から頼まれてさ、彼ならいいよって引き受けたんだよ。留学生みたいなもんだ」
翠は圧倒された。あの底抜けに明るい貝原さんが、そんなハンディを持ってる…。
「そりゃよく出来た義指でね。曲げたりつまんだりは自由にできるそうだ。しかしピアノの演奏はそうはいかない。彼も相当努力しているんだが、やはり元の指の感性は戻らないんだ。だから今回の糸巻さんの話ね、丁度いいと実は思ったんだよ」
翠は瞬きすら躊躇って北原先生を見つめる。
「残念ながら彼の演奏者としての生命は断たれたに等しい。だが、指導者の道ならまだある。熱心に指導しているそうじゃないか。学内でもフルート専攻の学生に聞きまくってるしね、仕方なしに取った声楽でも、元々声の質が良かったんでね、糸巻さんの件もあってハードトレーニングやってるから頭角を現してきたんだよな。優秀な奴は違うな。いっそウチの学生になって欲しいくらいだ」
「そ、そうなんですか…」
「あ、でもこの話はここ限りにな。彼も伏せておきたいらしいし、糸巻さんにゃ関係ないしな」
「はい。あの、咳込んでるのは声楽のトレーニングと関係あるんでしょうか?」
「うーん、それはどうかな。声の出し方が違うだろ、声楽と咳じゃ。こっちではそんなに酷いって話聞いたことないし、大方風邪でもひいたんじゃないか?」
翠にはそうは思えなかったけど、一応頷いた。
帰り道、翠は切ない思いで一杯だった。先日翠の肩に掛けられた朱雀の手。硬かったあの指は人口の指だったんだ。そんな事、おくびにも出さず彩葉の為にピアノを弾き、今度は歌おうとしている。しかしあの咳と喀血、只事じゃない筈だ。彼は決して自分からは言わないだろう。
翠は思い悩んだ。急に朱雀が愛おしくなってきた。あの笑い声、軽い冗談の数々。そして真面目に彩葉に色を感じさせたいって言った情熱。だけどそれも生命あっての事だ。喀血の原因は翠も図書室で調べていた。血を吐くだけなら胃や腸が原因かもしれない。しかしあの色、ドーナツ店のトイレで見たあの色は、鮮やかな赤だった。そうすると原因は肺や気管支。喘息どころじゃない。歌わせていていいのか…。
きっとグレーゾーンだ。
そして翠は決断した。彼の生命を、人の生命を救うのはあたしの使命だ。
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