第2話 強行偵察作戦

 ビルに逃げんこんだ時点で、良輔が助からないことは想像がついていた。だからといって、もう助けに行ったとしても間にあわない。

 二人共々殺されては、死んだ良輔に顔向けできない。


 「ハァ、ハァ、ハァ…」

 「お嬢ちゃん、貴方の恋人さんは死んだよ」


 カチャリ、という音がした。目の前に、男─劉が立っている。


 「死ぬ間際に教えてあげるよ。僕の能力は認識異常を引き起こす能力。君の目の前だろうとも後ろだろうとも、君が気づいたときにはそこにいるよ」


 重機関砲と拳銃の両方が向けられる。

 突き飛ばして逃げる。エレベータまで逃げ込む。


 「ちっ、くそねぇ、殺してあげるよ」


 くそねぇ、の意味を掴みかねたが、それよりも先にエレベータのボタンを押す。このままだとボタンが開いた瞬間にかけこまれてしまうかもしれない。

 ならば、一か八か、それも歩の悪い、いや、悪すぎる賭けに出るしかない。


 「4,6,9,7,5!」


 4階、6階、9階、7階、5階の順番でボタンを押す。

 そして、4階に到着する。


 これは、オカルト話だ。

 先程行った順番でボタンを押したとき、異世界へと行けると言われている。そもそも異世界とは何かとかいうことすらわからない以上、異世界に行っても安全とは限らないし、そもそも冗談半分のオカルト話だ。

 こんなことがありえればいいな、そうとしか考えていなかった。


 「わあ…」


 だがドアが開いたとき、状況は予想していたのよりも遥かに違うことがわかった。すべてが色あせて見えた。

 いやちがう、正確に言うならば、赤方変移を起こした光が届いているかのように、すべての色がやや暖色に見えたのだ。それが、まるで色あせているように見えたのだ。


 「ここは…」


 端末で現在地を確認しようとするが、端末が使えなかった。というよりも、端末というものに触れているのかすら分からなかった。

 確かに触れているはずなのに、触っている感触がない。


 それだけではない。自分の手足、それどころか体全てが、まるで緩やかに崩壊していくような感じだった。

 まるで、世界が崩壊していくかのようだった。


 「異世界、なの…」


 そんなこと分からない、というのが正しい。実際、わからないのだ。

 ここが異世界ならば、それはあまりにも残酷すぎる。せっかく逃げ切ったと思ったら、今度は自分が緩やかに崩壊しつつあるのだ。


 否、自分の肉体というものが消失しつつあった。


 前に進もうとする、しかし正確に前に進むことができていない気がする。それどころか、移動ということ自体が定義できなくなりつつあるような気がした。

 やがて、肉体というものが崩壊を終え、自らと世界は一体化した。


 意識だけでは移動できない。

 いや、移動はできているのかもしれない。しかし、周囲空間自体が崩壊を遂げ、あらゆる物体はいま、文字通り「無」だ。

 終わりなき「無」の中では、自らの位置を定義することすら不可能に近い。目印がないのだから、座標を定義できないのだ。


 自分の存在が希薄になりつつあるのか、だんだんと意識が拡散していく。

 だが、それを必死でつなぎとめる。私の友人、良輔を思い出しながら。思い出で意識をつなぎとめようとする。


 やがて、その努力が報われるときが来た。


 「無」の世界に一つの波とも言うべきものが生まれた。その存在はやがて収縮していき、そして一つの物体が生まれた。


 「あれは…」


 何なのだ、と思う。

 だが、それは思うだけで反応を示した。いや、反応ではない。情報を、文字通り送りつけてきたのだ。


 空間を覆い尽くす粒子、意識の塊─。


 理解できない、いや、理解できそうにもなかった。何を言っているのか、何を伝えたいのか理解できなかった。


 私の存在を返せ、と念じる。

 返答はない。しかし、代わりにその物体が緩やかに崩壊していく。

 待て、と念じた。しかし、物体は待たない。


 やがて、物体は完全に消失した。

 代わりに、自分の肉体とも言うべきものが出来上がる。


 移動を定義しようとして失敗する。座標に対して、自分の意識している運動量に対する実際の運動量に差異がある。その差異はxyz方向に関係なく、速い加速度運動が行われるときに大きくなり、静止すれば自分の位置は変化しなかった。

 慣性法則は成り立つのか、同一方向に等速直線運動は行われ続ける。


 「次元数の問題?」


 ふと思った。この空間は本当に三次元空間なのか、と。

 もしも三次元空間でなければ、運動量が認識値よりも小さくなるのは納得がいく。別方向のベクトル移動にその運動量が用いられている可能性があるからだ。


 「ひょっとして…」


 先程、自分が崩壊したとき、この世界では赤方変移が起こっていた。これは、物体が早すぎる速度で自分から離れていくときに起こる現象だ。となると、あの時点で、世界の配置は変わっていなかったにも関わらず、赤方変移が起きたということを考えると、別方向、それこそ第四次元で離れていったのではないかと考える。

 いや、そうだとしても。


 あのとき、自分の体は同化していくようにして溶けていった、この世界に。となると、この世界は─。


 「量子力学的世界…」


 正確には少し違うかもしれないが、それに近いだろう。おそらく、第四次元への移動によりxyz座標系を変化させないことが不可能になったということだろう。だから、xyz座標系での物体の存在確率をいじることで変化させないようにしたのだろう。


 より噛み砕いて言うならば、第四次元をa軸としたとき、運動量保存則よりa軸方向へ移動した静止物体は、他の座標系、つまりxyz座標系に対して−a軸方向分移動しなければその物体が静止していないことになる。

 そして、この世界ではxyz座標系を変更できない。


 となると、結論は一つ。


 物体自体の存在確率をいじることで、物体の質量エネルギーをxyz座標系へのエネルギーに変換したのだ。

 となれば、帰るのは容易だ。


 もとの位置関係を思いだし、そしてもともとドアのあった場所へ行く。そして、あるはずのドアのノブに手をかけて、ドアを開け、そしてその先に向かう。


 「戻った、の?」


 もとに戻ったのだろうか。

 溶けていた、いや、溶けかけていた自分の体はもとのままに戻った。そして、現在時刻を確かめる。十二時間近くが経過していた。


 そして、夜半に近い時間帯。


 美沙は走る。軍部に逃げるために。

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