第25話 親子

 思えば今日は長い一日だったような気がする。


 朝猫崎さんが体調不良だと言う事を聞いてその日にそのままお見舞いに来て。以前の僕では考えられないような事が一気に押し寄せてきた。


 猫崎さんに気がつかれないようにふぅーっと静かに息を吐く。少し間を空けて隣にいる猫崎さんは僕が作った焼きうどんをハムスターのように口の中に溜めながらはむはむと食べ進めていた。茜ちゃんと伊月くんは美味しいよと気を遣って言ってくれていたのだが本当のところはどうだったのだろうか。二人は既に眠りの世界へと誘われて行ったので聞くよしもない。味見したけど特に変では無かったはずだが。


 というかよく考えてみたらこれ、どういう状況なのだろうか。


 確か僕はお見舞いに来ていたのではなかっただろうか。途中まではまだしも、彼女の食べる姿を横目で観察するだけのこの状況。果たしてこれは何の時間なんだろうか。


 ——静かに座っていればいいのかな……?


 そうこうしているうちに猫なのにハムスターのように頬張りながら食べ進めていた猫崎さんに出した焼きうどんは、本来の白い皿のそこが綺麗に見え全て完食し終えていた。


「ご馳走さまでした」


 小さく手を合わせるとソファの背に背中を預けふぅーっと僕にも聞こえるように息を吐いた。薄ら赤らむ顔からはまだ万全じゃないことだけが窺えた。


「あの、猫崎さん。僕が食器洗っておくから猫崎さんは部屋に戻って——」


「鷹岡くん」


 丸い瞳が僕の事を捉える。猫のような鋭い瞳ではなくどちらかと言えば犬のようなくりっとした目で猫崎さんは僕を見つめている。


 桜色の唇がゆっくりと開いた。


「今日は本当にごめんなさい。迷惑をかけちゃって。それに茜と伊月の面倒まで見てもらっちゃって……」


 単語だけを淡々と伝える猫崎さんにしては珍しい。単語じゃなくてちゃんとした文章で。至極申し訳なさそうに僕を見つめる。その瞳にはやはり涙が滲んでいた。


「迷惑だなんて思ってないよ! 本当に気にしないで!? 料理のことなら僕が勝手にやったことだし」


「ううん。それでも迷惑をかけてしまったことには変わりないよ。鷹岡くんの貴重な時間を奪ったし二人の余計なお守りもさせてしまったのは迷惑以外の何物でもないよ」


「……猫崎さん」


「それに元はと言えば私が体調を崩したせいで……」


「そんな……」


「……私がしっかりしないといけないの」


「……」


 話が思わぬ方向にまで飛んでいきどう返せばいいのかわからず口を噤む。猫崎さんは僕から目を逸らし俯いていた。いつもの猫崎さんとは違いどこか冷静さを失っている。その横顔は先程よりも赤みを増しているような気がした。


 何か言わないと。僕が意を決した時、ガチャリと鍵を開ける音が響いた。音の方に僕と猫崎さんが視線を向けた。


 足音と共に姿を現したのは一人の女性。猫崎さんはその人の事を静かに、それでいて鋭い目でじっと睨め付けた。


「……何をしてるの、柚葵? 何故、部屋で休んでいないの? それに——」


 心配といった様子を一切見せずに冷たい瞳が僕を刺す。目があって僕は息を呑んだ。


「……別に何でもないよ。彼は私の様子を心配して見に来てくれたの」


「随分と遅い時間まで居てくれたのね?」


「さっきまで茜と伊月の面倒も見てくれてたの。だからこの時間」


「ふぅん、そう」


 そう言って一瞥しリビングの奥にある自室へと向かっていった。


 ふぅっと溜息が猫崎さんから溢れる。実の母親に対して緊張していたのか目を瞑ったまま力を一気に抜いていた。


「あの、猫崎さん」


「……ごめん。今日は迷惑かけてばかりだね」


「迷惑だなんてそんなこと」

 

「……ごめんなさい」

 

 それ以上猫崎さんは何も言わなかった。

 僕はそのまま何も言えずに猫崎さんの家を後にした。


 外に出ると季節外れの冷たい風が僕の体に当たる。


 風のお陰で僕の鈍った思考が徐々にクリアになっていく。僕は後ろに聳え立つ猫崎さんの家を見る。


「……大丈夫、かな」


 モヤモヤとしたものが僕の中を駆け巡る。灰色の様な鉛色の様な黒色の様な。何物にも例え難い何かが大きくなっていくことだけがわかる。これは一体何なんだろう。


 僕は再び前を向いて歩き始める。


 最後の「ごめんなさい」という言葉が脳裏を過ぎる。暫く消えそうにはないな。


 行きよりも足取りが重くなってしまったのはきっと——。

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