第10話 少年グレン
中天に差し掛かった太陽が、レジスタリア王都から駆け出す小さな身体を照らした。彼の名はグレン。都に住まう浮浪児だ。
その表情は酷く血相を変えている。遅刻でもなく、盗みを働いて逃げるのでもない。最愛の妹を救いたい一心であった。
「無事でいてくれ、ミレイア。すぐに助けてやるからな……!」
時間は少し遡る。あちこちで昼食の煙が立ち昇る頃、グレンは寝床としている空き家へと向かった。早朝からの仕事を終え、大人の半分以下の賃金を手にした帰りだった。
「参ったな、これじゃあ2人分のご飯が買えないよ」
賤貨3枚、30ディナ。パン一斤で80ディナとされる中では、懐具合も寂しいを通り越してしまう。せめて保護者でも居れば知恵もくれだろうが、生憎、彼は孤児である。
母を流行病で亡くし、程なくして細工師の父も後を追った。酒の毒が原因なのだが、残された側にすれば理由に意味などない。他の浮浪児に混ざって逞しく生きていくだけだった。
「ミレイア、ただいま」
空き家に戻ってみたものの、返事がない。いつもなら「お兄ちゃんお帰り!」と元気な出迎えがあるのだが、今日に限っては静かだった。やがて静か過ぎる事に気づき、周囲を探し始めた。
「どこだ、ミレイア?」
空き家は不在、近場にも居ない。足が急かすままに浮浪児達の元へ向かえば、ようやくその足は止まる。
「残念だけど諦めなよ。アイツなら人買いに攫われたよ」
犯人は悪名高き奴隷商人、ヴィラド商会であった。確かにミレイアは10を下回る齢であるのに、整った顔立ちをしていた。その為、薄汚れていようとも、悪人達の眼をごまかしきれなかったのだ。
とりあえず事情を把握したグレンだが、ハシゴはここで外される。いざ救出となると誰も手を貸そうとしなかった。報復を恐れるなら当然の処世術であり、それを良く知るグレンは、口汚く罵る真似はしなかった。
次に彼が頼ったのは平民騎士のアーデンである。
「おじさん、妹が連れ去られた!」
アーデンは浮浪児達を気にかけてくれる数少ない大人であり、グレンもこの時ばかりは本心から縋り付いた。しかし事情が事情だ。アーデンは震える少年の肩を抱きしめると、短く謝罪した。それが遠回しの拒絶であることを、グレンは緩やかに理解し、声をあげて泣きじゃくった。
「どうして、どうしてこんな事に……」
独り、路地裏でさまようと、遂には道端で腰を降ろした。中央通りでは、肥え太った人々が笑いを撒き散らしながら去っていく。路地裏でも、うごめく影は数え切れないのだが、不幸な少年に関心を示すものは居ない。この王都には何万という人間が暮らしていても、たった1人さえも味方を見つけることは出来ない。
孤独。雑踏の中で孤立は残酷だ。これならいっそ、無人島に取り残されたほうが遥かにマシである。
「ミレイア……僕はどうすれば」
手の中で硬い音が鳴る。ゆっくりと開いてみれば、先程受け取った賃金が収まっている。錆びついて赤茶けたものが3枚。それが途端に汚らしく見えて腹立たしくなった。仕事の為とは言え、ミレイアを1人にした結果を思えば尚更の事だ。
「こんなものの為に、チクショウ!」
拳を振り上げ、投げ捨てようとした。しかし手から離れる瞬間、脳裏に閃くものがあり、慌てて手のひらを丸めた。
思い出したのは、先日に見知らぬ男から聞いた戯言だった。
――ボウズ知ってるか。北の森には魔王が住んでるってよ。
半分酔いつぶれた男の言葉である。その時のグレンは話には取り合わず、雇われた酒場の外を無言で掃除を続けた。
――とんでもねぇ強さだって言うじゃねぇか。騎士団なんか足元にも及ばねぇ。これはニンゲン様の支配もお終いって事だろうな。
そこまで思い出すと、グレンは立ち上がった。もしかすると、魔王なら助けてくれるかもしれない。奴隷商の荒くれ者なんか全部倒してくれるかもしれない。次の瞬間、彼は駆け始め、そして今に至る。
「まだかな、全然先が見えないぞ」
豊穣の森は、鬱蒼と茂る木々によって囲まれている。街道など廃れて久しく、未整備の砂利道は獣道として名残がある程度だ。だから走るだけで張り出した木の枝が、伸び切った雑草が、彼の身体を痛めつけては阻む。
ただでさえ走り通しなのだ。息は絶え絶え、飢えと渇きも少年の肉体を脅かす。しかし彼は僅かな時間すらも惜しんだ。
「怖いだろう、辛いだろう。絶対に兄ちゃんが助けてやるからな」
彼を支えるのは妹の存在のみ。最後に残された家族。その別れが、犯罪に巻き込まれる形であってはならない。ただただ身を案じる一心で、疲労困憊した足にムチをいれる。
しかし限界など既に通り越している。意識は明滅を繰り返し、足と地面の境界があいまいで、大地を駆ける実感などほとんど無い。ただ前へ、1歩でも先に。その執念にも似た覚悟は、ついに1つの成果をもたらしてくれた。森林地帯を抜けたのである。
「ここで、良いのかな……」
グレンは激しく息をつきながら呆気にとられた。眼前に広がる光景が、予想したものと大きくかけ離れていたからだ。血肉に汚れ、怪物のうごめく光景など一切見当たらない。
彼が目の当たりにしたものはどうか。緩やかな丘陵は草で覆われており、それがどこまでも続いている。ひとたび風が吹けば、原野はサァサァと音を立て、まるで穏やかに歌うかのよう。その始終を空に浮かぶ三日月と、満点の星々が見守るのだ。
あらゆる場所よりも美しく、そして平穏なる大地。それは一刻を争う少年の足を止めるほどの絶景であった。戸惑いと感激に呆けるグレン。そんな彼に、ひどくノンビリとした声がかけられた。
「アルフ……じゃないわね。お客様かしら?」
彼女は狐耳を小さく下げつつ、グレンの様子を窺った。
一方で彼も問いかけに対し、すかさず答えようとしたのだが、相手の姿に驚かされた。獰猛なる獣、魔狼に跨っているのだから。すっかり気圧されてしまい、喉の乾きも手伝って、返答は途切れ途切れになる。
「あの、僕、魔王様に。お願いがあって……」
「あらそう。やっぱりお客様なのね、じゃあ乗ってちょうだい」
「えっと、その狼の背中にですか?」
「そうよ。別に噛んだりしないわ」
グレンは半信半疑になりつつも、巧みに魔狼を操る姿を信頼した。言われた通り並んで腰を降ろす。しかし魔狼は不服なのか、低い唸り声をあげてしまう。
「こらっ悪い子。お客様に失礼でしょ」
「クゥン、キュゥウン……」
「さぁ走るわよ。落ちないように気をつけてね」
「走るって、うわぁ!?」
魔狼は実に健脚だ。二人乗りと思えない速度で丘を縫うようにして駆けに駆けた。農地の脇を通り過ぎ、1軒目の納屋を見送ると、狼の足が止まった。
「ここよ。あがってちょうだい」
案内された家を前にして、やはり困惑してしまった。魔王城の役割を持つ施設はどう見積もっても民家であり、下手すればグレンの住まいよりも小ぶりに見えた。
そして足を踏み入れれば、やっぱり民家である。木の香りを残すダイニングキッチンに血の気配は無く、テーブルの端で眠りにつく幼女の姿が、一層の平凡さを醸し出していた。
ただし獣人である。それは案内人のリタも同様だ。レジスタリアではめっきり見かけなくなった種族が、ここでは当たり前のように暮らしている。その事実が、グレンに非日常を意識させた。
「はい冷たいお水。お腹は空いてるかしら? パンとスープくらい出せるけど」
「お、お気遣いなく。リタ様」
「様なんて要らないわ。そんな偉くないもの」
グレンは緊張から、水を飲む行為に逃げた。よく冷えており、渇きと疲労に悩まされる身体には奥まで染み込むようだ。しかし本題はまだ伝えていない。彼は一息で飲み切ると、気を引き締めて切り出した。
「あの、リタさんが……魔王様なんですか?」
「ウフフ、違うわよ。彼は仕事で外してるから、じきに帰ってくるわ」
「いたんだ、魔王様って……本当に」
切望した魔王は確かに存在する。しかし、それはそれで不安を覚えた。果たして望みを叶えてくれるか、叶えてくれたとして何を代償に求められるのか。嬉しいような恐ろしいような、人生でも初めての感覚に、幼ない心は揺れに揺れた。
やがて入り口の方が騒がしくなる。扉が開き、3人の男女が次々に現れた。気だるそうな男を先頭にし、それに続いた2人は激しく言い争いを重ねていた。
「このゴリラクソ女! アンタのせいで森が荒れちゃったじゃないですか!」
「仕方ないだろう。中々に手強いオーガだったのだ。多少の犠牲には眼を瞑ってもらいたい」
「せっかく整えたばかりだってのに……これはケツを足蹴にされても文句は言えませんからね!」
「お前ら静かにしろ。シルヴィが起きちまうだろうが」
荒い口調とは裏腹に、男の視線は穏やかで優しい。机に突っ伏す幼子を見つめては、頬に確かな笑みを浮かべていた。
その一瞬だけ見えた顔に、グレンも心の扉を僅かに開いた。
「あの、アナタが魔王様ですか?」
「うん? お前はさっきの……」
「あら、やっぱりアルフの知り合いだった?」
「そうじゃない。赤の他人だ」
事実にしても素っ気ない返事だ。しかしグレンは気に留めることもなく、握り拳を固く締めつつ叫んだ。
「魔王様、お願いします! どうか妹を助けてください!」
「妹ぉ? 何の話だよオイ」
「何か込み入った事情があるのかしら? 良かったら聞かせてちょうだい」
「勝手なこと言うな、リタ。もう夜なんだぞ」
「良いじゃないの。どうせ紅茶を飲んでるうちに終わるわよ」
食卓には人数分の木椀が並べられ、温かな湯気が各々から立ち昇った。紅茶の濃い香りが辺りを包み込む。
「えっと、これからする話は、今朝に起きた事なんですけど」
その言葉を皮切りに経緯は語られた。あどけない少年に課せられた悲痛な物語は、紅茶をすする音を際立たせた。咳払いすら鳴りをひそめる中、魔王だけは普段どおりにズズズと木椀からすすった。
「あの、僕は全然お金がなくって、でも時間をかけて必ずお支払いします! 死ぬまで頑張って働きます! だから、どうか妹を助けてください!」
グレンは手汗で湿る賤貨を置き、続けて全身のポケットをまさぐって、更に2枚を卓上に並べた。これが全財産。魔王どころか1人の人間すらも雇えない額面なのだが、女性陣の心には強く響いた。
「そんなにまでして……分かっていたけど、真剣なのね」
全身を泥で汚した上に、全ての金を差し出した姿勢は母性をくすぐった。アシュリーなどは感極まったあまりに涙ぐむ程である。
「アルフ。妾衆(めかけしゅう)は賛成なんだけど」
「妙な役職を自称すんな。ビックリすんだろうが」
肝心の魔王はどうかと言うと、渋面だ。境遇に同情はしているものの、面倒事を天秤にかければウカツに返事は出せないのだ。彼にはまだ、娘の寝かしつけという大仕事が残されているのだから。ベッドに横たえて子守唄を歌い上げる。既にシルヴィアが寝入っていようとも関係なく、それをしてやらない事には逆にアルフレッドが寝付けないのだ。
そして、もう1つの要である愛娘はというと、たった今うたた寝から目覚めた。
「おとさん、おかえんなさい」
「ただいまシルヴィ。待ちくたびれたよな、ごめんよ」
「ねぇ、その男の子は?」
アルフレッドは舌打ちがしたくなる。断ってお終いとなる話が、拗れる気配を見せたからだ。
「ねぇねぇ、リタお姉ちゃん。どうしたの?」
問いかけはリタに移る。アルフレッドは目配せによって誤魔化すよう伝えたので、それを踏まえた上で端的な説明がなされた。
「どうやらね、この子の妹ちゃんが悪い人に掴まったみたいなの」
「えぇーー!?」
まさかのど真ん中のストレート。迷いなき直球は、シルヴィアの童心を揺さぶるのに十分すぎた。
「でも、でもぉ、助けてくれるよね? この子のおとさんが助けてくれるよね?」
「それがねぇ、誰も手伝ってくれないらしいわ。父親も居ないみたいね」
「えぇーーッ!」
シルヴィアに突き刺さる立て続けの衝撃。それが涙腺を壊し、耳に痛い叫びとともに涙が流れ落ちた。こうなればアルフレッドも傍観できない。泣きじゃくる我が子を抱き上げ、その傷心ごとあやそうと試みた。
「かわいそう、かわいそうなの!」
「うんうんそうだねぇ、参っちゃうよねぇ」
「シルヴィには、おとさんがいるのに。この子にはおとさんがいないの! 誰も助けてくんないのぉぉ!」
「大丈夫だって。全部解決してくるから、ガキ……ごほん。妹をちゃんと助けてくるから、悲しむ必要なんか無いんだぞぉ!」
アルフレッド、成り行きでアッサリ受諾する。しかし彼にしてみればそれすらも些事でしかない。今はただ、愛娘の笑顔を取り戻す事が最優先なのだから。
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