十三夜(月齢11,9)
「何であんたが知らないの?信じらんない・・・」
京子の冷たく尖った視線が僕に刺さる。でも語尾は消え入りそうで、視線は地面を見ているようだ。もちろん、僕もすぐに地面を見る。それほどに京子がもたらした事実は僕を激しく動揺させた。
その頃の僕と言えば、やっと病院の借金が終わって解放された気分でちょっと浮かれていた。10年。そう、一言で言えば10年もの間、僕は精神科に入退院を繰り返していた。パワハラで心を潰されたと言うのが理由だが、しっかりと病名が付いた。「境界性パーソナリティー障害及び抑うつ」だそうだ。最初の入院は結構長く、半年ほど外に出られなかった。いわゆる「閉鎖病棟」と言うヤツで、同じフロア内は移動自由だが、そのフロアから出ることは出来ない。主治医の判断で「院内の散歩」とか「売店まで買い物に行く」ことは可能だったのだが、その許可が出るまで1か月を要した。僕は自殺未遂をしてこの病院に入院する羽目になったが、この病院が市街地に開業している「メンタルクリニック」の勧めで、自分から病院に行ったことが功を奏して、「措置入院」ではなく「任意入院」となった。「措置」で入ると本当に自由が無いので、任意入院となって良かったと思う。ただ、最初の入院の時に何の知識もなく、入院費を丸々払うことになった。精神科の入院費はかなり高いのだ。半年で200万円を超えていた。国保を使ってもこの金額である。2回目の入院時に「高額医療費制度」を教えてもらい、手続きをしたので負担は減った。それでも入院は結構な長さになるので、月に9万円弱の負担でもかなり厳しいものだった。医療費を除く「自己負担分」も月に2万円ほどかかるのだ。僕は10年間で12回の「短期入院」を繰り返していた。2~3か月入院しては退院。そして医療費を払うためにアルバイトを掛け持ちしたりして、疲れ切ってまた入院。総額500万円の医療費を払わなければならなかった。僕が精神科に入院していた頃は、まだ病院側も「優しい」部分があり、かなり大量の書類にサインと捺印することにはなったが、「無利息での分割払い」を認めてもらえた。毎月6万円ずつ払って、5年かかったが完済出来た。最初の方の入院費は預金でギリギリ払えたのが幸いした形だ。もしも利息付きで返済となっていたら、完済まで8年はかかっていただろうと思う。まだ優しい時代だった。
逆に言えば、最初の入院が「措置入院」であったなら、医療費は国費負担となっていたはずなので、多少の不便と引き換えに、病院への借金は200万円以上減っていたのだと思う。措置から任意への切り替えが遅ければの話だが。
入退院を繰り返し、病状は徐々に安定していった。「もう入院はさせない」と主治医に宣告された。僕は入院することで「休息」を得ていたのだが、それももう終わりと言うことだった。そして通院の必要も無くなった時には、僕は40歳になっていた。貴重な10年間を潰してしまったが、もう入院も通院も必要が無い「健康な人」になれたのだから喜ぶべきだろう。人生は長いのだから。
病院への返済をしながら、それでも多少は「遊ぶ」余裕もあった。休日なんてものは無かった生活で、丸々1日休めるのは月に2回あればいい方で、フリーランスで抱えてる「納期」はいつだって1週間以内にやってくる。仕事は何でも良かった。月に20万円稼げれば、あとはフリーランスで請け負った分は「お小遣い」に回せた。カメラマンと言うよりは「撮影屋」がメインで、たまにサブカル雑誌にコラムを書いていた。当時はまだ「FAX」がメインで、僕は東京の雑誌社と契約をしていた。依頼内容に沿った原稿をワープロで書いて、自分で校正してFAXで送る。編集部曰く「一番手のかからないライター」であった。ただ、原稿料はかなり安くて、毎月の振込額は多くても数万円、大体は1万円以下だった。今の「内職ライター」よりもかなり高給取りでも、当時は「食えないライター」だったし、写真の仕事もピンキリの収入で、どうにか年収で3桁に届くころには病院の借金は返済が終わっていた。内緒だが、この写真の仕事は「とある広告代理店」に就職した先輩が、お小遣い稼ぎで後先考えず請け負って、僕のような「外注カメラマン」に発注していたので、所得税の申告をしていなかった。先輩がまとめて所得税を払って、僕ら外注には「分け前」を与えているようなものだったのだ。そんな割と美味しい「お仕事」も、デジタル写真の台頭でどんどん減っていった。もう、「プロカメラマン」は必要ないとも言われ始めた時代。特定の「分野」では、まだまだプロカメラマンが活躍しているが、僕のような「撮影屋」の仕事は、ハイクラス・アマチュアに持っていかれた。誰もが撮影出来るのだから仕方ない。デジタル写真はその場で撮影画像を見ることが出来る。当然、失敗したらやり直せる。僕は、こんな時代になって良かったと思う。誰もが写真を楽しめる時代の何が悪いのだろう?確かに、あるレベルの「撮影屋」は駆逐されたが、これも時代の流れだろう。そして今は、スマホで事足りるのだ。本当に嫌味でも皮肉でも無く思う、「最高の時代」だと・・・
警備員の仕事はかなり過酷だった。僕は「施設警備」の資格を持っていて、他に「雑踏警備」の講習も受けていた。今は雑踏警備も資格が無いと無理になったと言う話を聞いたが、僕が警備員だった時期はまだ「受講」すれば良かった。毎日「違う現場に飛ばされる」のは疲れるし、現場監督の扱いも雑である。「施設警備」ならば、同じ施設に毎日通えばいいので、慣れてしまえば天国のような職場になるはずだった。いきなり、県内でも有数の乗降客数を誇る「駅の警備」に回されたりしなければ、の話だ。その駅の警備は、警備員が長続きしないことで、社内で有名だった。誰もが「あそこは嫌です」と言って逃げるのだ。会社も背に腹は代えられないので、資格無しの警備員をほぼ数日単位で送り込むことを繰り返していた。
そこへ、僕のような資格持ちが入社したのだ。この時点で僕の運命は決まった。鉄道会社の名は控えるが、完全に「体育系」の職場である。僕は初日に駅長よりも偉いキャリア組に呼び出されて、20分以上、「直立不動」で怒鳴り飛ばさることになった。冬のことだった。駅のコンコースに「ホームレス」が居着いてしまい、一般客から苦情が出ていたのだ。僕はホームレスに恨みがあるわけでも、先入観があるわけでもなかったので「おじさん、ここで座り込んだら駄目だから」程度の注意で済ませていたのだが、ソレを見ていたキャリア組のエリートに「お前は甘いんだよっ!出て行ってくれじゃない、排除だ、排除。分かったかっ!」となった次第。僕は仕事に関しては真面目であったし、ホームレスに分のある話でもなかった。駅のコンコースは「駅の私有地」なのだ。以来、僕のホームレスへの態度はかなり強硬になった。そして、そんな仕事は神経が磨り減る。自然と、遊びに精を出すようになった。文字通り「精」を出すのだ。過去の恋愛経験から、女性不信となっていたが、やはり「性的な意味」での女性は必要なのだ。ただ、もう「恋愛はしたくない」とも思っていた。そうなれば、遊ぶ相手は風俗嬢である。なるべく安くて可愛い子のいるお店に通うようになった。風俗嬢がその店で働いている「理由」は考えない。ただ、今の風俗店で無理やり働かされている女の子は多くは無いはずだ。リアルでお付き合いした「嬢」も数人いたが、彼女たちは自由で、泣いて笑って怒って、そして普通に恋する乙女だった。「訳アリ」な嬢もいるのだろう。僕は出会ったことが無いけれど。
僕はもう「恋愛」をする気が無かったのだ。悪いのは僕であったのかも知れないが、やはり愛した人に裏切られるのは哀しい。その哀しみは僕の心に堆積していって、固めてしまったようだ。長い精神科入院もせいもある。僕は自分の心を守るために「コア」を作っていた。僕の心は「中空のコア」で、サファイアのような硬さで「何もない僕」を護っていた。僕にはもう「心は無い」のだとも思っていた。少なくとも「恋愛」に関しては何もないことは確かだった。僕の恋愛は「偽証」の繰り返し。僕が語る愛の言葉は全部嘘だった。相手もそれは承知の上であろう。僕は「風俗に通ってくるモテない男」なのだから、適当にお互いに「偽証を繰り返す」だけで成立する関係。そんな関係が深まったこともあったが、やはり最後は自然消滅。フェイドアウトしていくのを、僕はぼんやり見ているだけだ。「Alone again.」なんて思わなかった。僕はいつだって「Leave me again.」と言う主義だった。もういいんだ、放っておいてくれても。ただひと時でいい、人の温度を感じることが出来ればいい。
朝起きると、朝飯を作りながら弁当も作る。朝飯のおかずを多めに作って、弁当箱に詰めるだけだ。外食は金がかかる。駅の警備をしていれば、外に出て食事するわけにもいかない。毎日コンビニ弁当を買うのはもったいない。駅事務所も、昼食時間には連絡をしてこないはずだが、やはり緊急事態ともなれば呼び出される。だから、僕はあてがわれた休憩所(ロッカールームの片隅だ)で弁当を食い、ちょっと仮眠することにしていた。緊急事態で呼び出されたら、休憩時間はそこで終わる。あとから「さっきは15分しか休憩していないから」と言う論法は通用しない。警備には「スケジュール」だってあるのだ。
18:00に退勤となる。今度は警備会社の「室長」がやって来る。もう、この会社には駅の勤務が出来るのは「室長」しかいないのだ。ストレスマッハである。駅長や「キャリア組のお偉いさん」の厳しい視線を浴びて、やっと勤務が終われば会社の上司が交代でやってくる。いや、これは数か月で慣れたし、「駅の勤務が長続きしている資格持ち」と言うことで、かなり優遇もされるようになっていた。ホームレス対策はもう「犯罪スレスレ」の排除行為となっていたので、「キャリア組のおっさん」にも認められるようになっていた。コレはその会社で初の「高評価」でもある。3か月も勤務すれば「現場に染まる」わけだ。2時間に1回、駅事務所に赴き、直立不動で敬礼し、奥の机に座っている駅長まで届く張りのある声で「業務報告」をする。聞いてみれば、この業務報告が辛くて逃げる警備員ばかりだったようだ。モロに「体育系のノリ」であるから、腰掛やアルバイト気分では確かに重荷だろうとは思った。勤務もかなり過酷で、ポケットの中には「会社の携帯電話」と「駅の携帯電話」があり(もちろん、自分の携帯も入っている)襟元には無線機が留めてある。この無線機はほとんど無音なのだが、ここから声がすると「緊急事態」である。しかも「運行関連」であるから、対応がシビアだ。こんな時は「駅の担当者」として動かなければならない。駅から渡されている携帯は、1日に5~6回は鳴る。酷い時は「対応中」に別件で鳴る。
室長との交代時は、そんな「装備品」を渡しながらの雑談である。携帯電話だけでなく、特別に携行を許されている「特殊警棒」も受け渡す。この警棒は「絶対に抜くな、使うな」と言われている代物である。傷害事案程度で抜いたことは無い。つまりは、僕はこの特殊警棒を使ったことが無い。警備員は警棒だけでなく「警杖」も扱えるように教育されるが、現場で使うことは無いだろう。
勤務中はとにかく歩き回る。警備重点地帯で立ち番もするが、基本は構内の警備なので歩き回ることになる。そんな仕事が終わり、帰りついでに風俗店に・・・とやったことは無い。汗臭い身体で行くのはマナー違反だ。汗臭くともサービスはしてくれるが、僕は嬢に失礼だと思うので、遊びに行く場合はシャワーを浴びてからにしていたし、今でもそうだ。
「遊び」にもマナーがあるし、僕なりの「美学」もあった。サービスタイムは30分しかないのだが、初対面の嬢が相手でも、5分以内に笑顔にさせる。冗談で笑わせてもいいし、得意の写真を見せて頬を綻ばさせてもいい。フレンドリーな雰囲気になれば、1クラス上のサービスを受けることが出来る。「美学」ではないな、「楽しい遊び方」と言う程度だ。
普段は家に直帰して、飯を作って缶ビールを2本。あとは好きな漫画を読んだりして、割と早めに寝てしまう。朝が早い仕事だから当たり前。相変わらず「写真の仕事」はしていたので、渋々デジタル一眼レフを買った。レンズは同じものが使えるが、納品が面倒になった。本来、写真の仕事と言うモノは「手離れがいい」はすだ。撮影して現像所に出して、持ち帰ってルーペで子細にチェックしたら、封筒に放り込んでポストに。若しくは依頼主に渡す。コレでお終いである。急ぎの仕事や、依頼主が「先輩」出ない場合、撮影したフィルムを渡すだけで済むことも多かった。このあたりは「信頼」の問題で、「撮影に失敗しない」と言う評価があるから出来たことでもある。ところがデジタルになったら、先ずはパソコンが必要になった。撮影するだけでなく、ほぼ「完成原稿」となるデータを納品することになった。ド偉い出費である。当時のデジタル一眼レフはボディだけで20万はした。パソコンも今では使えないような低スペックでも10万円である。最低限の画像編集は必須テクニックとなった。昼間は駅で警備員。家に帰ってパソコンで画像編集なんて日もあった。好きでなければ出来ないような仕事である。ただ、このデジタル一眼レフを使った仕事も次第に減っていったが・・・
すると、パソコンの使い道が無い。毎月購読していた「四コマ漫画誌」の好きな作者が「ブログ」をやっていると言う。ソレまでは単なる「道具」であったパソコンが「魔法の箱」になった。最初に引いたネット回線。あの「モデムだけをばら撒いた会社」と契約することにした。これまたお安い契約で、「携帯電話新規契約で開通費用は無料」であった。パソコンに関しては何も知らない僕である。当然のように「無料で訪問設定します」と言うサービスを使った。回線速度はベストエフォートで「5M」である。もう遅いのなんのって、「情報が横丁の角を曲がってくるのを待つ」感じであった。多分、実測で1Mあったかどうかである。そんな遅い回線でも「ブログ」を読んで歩くには十分だった。流行り始めていたYouTube動画も普通に見ることが出来たが、動画の画質が良くなると、途中で止まって読み込み待ちとなる。特にYouTube動画には興味が無かったので問題なかった。このネット開通から「ブログ」を通じて出会いもあったが、それはまた別の話。
最初は読んでるだけで満足であった。ファンである漫画家のブログは面白かったし、そこから繋がる他の漫画家のブログを巡回して楽しんでいた。ところがである。「検索機能」と言う優れた機能を発見した。僕は当時、「倉木麻衣さん」の大ファンで、検索出来る範囲で「倉木麻衣さん関連のサイト」を探していた。ファンクラブには当然入会した。この検索で引っかかったのが「くらきんち」と言うブログだった。もうそのブログ主もとっくに引退しているので書いたが、このブログが面白かったのだ。そして僕は思い始めた。
「こんな面白いブログを自分でも作ってみたい」と。
面白い「ブログ」を書いてみたい。そんな思いから始めてみた。正直、色々と分からないことだらけで、ファンだった漫画家と同じアメーバでブログを開設することにした。今思えば、割とアメーバは書きやすい仕様なので、間違いではなかったと思う。「カスタマイズ」出来る幅が狭いが、僕はそこまでヘヴィなユーザーではない。
ブログそのものは順調だった。楽しい「ブロ友」も出来たし、その「楽しいブロ友」は人気ブロガーだったので、その読者さんが僕のブログも訪れてくれたりで、そこそこの人気ブログにもなれた。
しかし、僕は当時流行っていた「某巨大掲示板」にハマってしまう。とにかくその掲示板に現れるユーザーが「一線を越えた愉快な人」ばかりで、僕はせっせとスレ探しをしたり、仕事で時間が無い時は「まとめサイト」を読んでいた。狭い1DKのアパート。壁は薄く、隣の部屋の携帯の「バイブ」まで分かる。そんな環境で深夜に、腹を抱えて笑い転げそうになるのを堪えると、過呼吸になった。今でもあの時に「彼ら」は元気だろうか?ちょうど、「電車男」が流行った頃だと思う。当然だがブログの方はお留守になりがちで、しかも折り悪く「フィルタリング」と言う悪制が始まった。僕は思うのだが、「わざわざ探さないと出てこない情報」なのだから、ユーザーに任せておけばいい。特に「エロ」には厳しかった。「フェラーリ」と書くだけで記事が「閲覧停止」になり、「ロリコン」と書くだけで閲覧停止と言う酷さであった。今はそこそこに緩和されているが、僕は今までに軽く10のアカウントを消されている。
某巨大掲示板で見聞した話をブログでやらかすと、確実に記事が消えた。その掲示板も度重なる規制や自粛で「牙を抜かれた虎」みたいになっているけれど。
勿論、どこにでも「何でも否定したい人」はいるもので、僕も何回か叩かれて、以来ROM専となったが。それでも読んでるだけなら最高に楽しかった記憶がある。「野菜レイパー」とか、本当に頭がおかしかった。レイプした後は「美味しく食べている」点で、彼は野菜を虐待する人であったが「紳士」だったと思う。またある時は、「犯罪予告」が問題になった。コレは今でもたまに新聞の紙面を賑わすが、コレをパクって「都庁にジャムパン、仕掛けた」と言うスレまであった。起爆装置ならぬ「起パン装置」をめぐって、スレ内で戦っているのである。架空の話でよくも熱くなっれたものだし、それがまた最高にぶっ飛んでいて面白かった。なお、お台場は「チョコクリーム」に沈んだと記憶している。
僕は寂しかったのだろう。仕事では「同僚がいない」のだ。一人で回す現場であるので仕方ない。話し相手は駅関係者か、自社の室長ぐらいである。長い入退院の繰り返しの間に、リアルな友達は離れていった。親戚も関係を断っていた。実弟が既婚で、我が家の「大黒柱」のようになっていて、「兄貴は頭がおかしくなったから呼んでません」となれば、数年で縁遠くなって当たり前である。今でもその影響で、僕は親戚筋の消息を全く知らない。その弟も、年に数回会えばいい方で、正月だけはこっちから挨拶に行っていた。あっちが「本家」のようなものだ。既婚であり、子持ちで持ち家。アパート暮らしで独身で、しかもアラフォーの警備員じゃ相手にされない。世の中と言うモノはそんなものだ。
「だから」と言ったら失礼にあたるが、僕は風俗で遊ぶことを好んだ。30分でいいから「体温を感じたい」のだ。僕は言葉の「軽さ」を熟知している。こんなお話を書いておいてと思われるだろうが、「美辞麗句」などいくらでも並べることが出来る。文字ではなく、話す言葉だって怪しいものだ。世の中には無感情で耳障りのいい言葉と笑顔を見せ、時には悲しい話をしながら聞きながら涙する人間だっている。程度問題で、人は誰もが「演じている」と言っていい。だが、「温もり」は違うと思った。いや、相手が殺人鬼でもいいのだ。僕のためにその体温を分け合ってくれるなら。
風俗嬢は殺人鬼ではない。当たり前である。なので、優しい言葉と安っぽい香水の匂いと共に僕に温もりを与えてくれる。稀に「素の体臭が素晴らしい子」もいて、そんな子に当たった時にはちょっとだけ神を信じたりした。30分8千円。コレが温もりの対価だ。高いのか安いのかは知らない。今の僕は「安い風俗で遊ぶ」ことに躊躇いのある年齢なので、120分で3万円を支払う。やはり、高いのか安いのか分からない。考えてみれば、「恋人」がいれば対価は不要だ。しかも「愛」までついてくる。この際だから、多少の対価を払って、デジカメとプリンターと年賀状ソフトを付けてもらってもいい。そのぐらい、「恋人」には魅力があるのだ。そしてここで話は堂々巡りとなる。僕は「女性に絶望した」からこそ、遊びで済ませているのである。なぜ遊ぶかと言えば、「恋愛の一応の目標である肉体関係」までのショートカットだからであるし、温もりだって欲しい。だったら恋人を作ればいいじゃないかと。しかし僕は・・・ということなのだ。まだ絶望から日が浅かった当時は、この悩みと言うか堂々巡りに頭を支配されることもあった。
仕事では評価が高かった。真冬の話であるが、駅のコンコースに屯するホームレスを寒空の下に追い出すのは心が痛んだが、ある日を境に「ホームレス排除」の方向で、駅のキャリア組や駅長と一致を見た。僕は冷酷非道な人間ではない(はずだ)今では、「殺してくれって言うなら殺してやるよ」と言って憚らないが、当時はまだ「人の心」を持っていた。ホームレスだって、好きでやってるわけではないだろう。たまにテレビに出てくるホームレスは勤勉であったりもする。今の我が家は3階の部屋だが、出勤前の朝方、目の前にあるゴミステーションのアルミ缶を集めている人がいる。割と迷惑で、その場で潰す騒音が聞こえては来るのだが、「生業」を潰すこともないだろうと、静観している。
ある雨の日のこと。
その日は底冷えする日で、警備員服の上に防寒コートを着ていても、骨まで冷えるような湿気た冬日であった。いつもなら朝からホームレスと格闘になるのだが、その日は何故かホームレスが少なかった。あとから聞けば、仲間割れして一人に怪我をさせて、駅に現れることが出来なかったようだ。いくらホームレス同士の話とは言え、「傷害」ともなればただでは済まないと考えたのだろう。その「被害者のホームレス」がポツン・・・と座り込んでいた。その時は「仲間割れがあった」なんて知らなかったので、いつもの調子で怒鳴ろうかと言うタイミングで「分かってるよ、兄さんだって仕事だもんな」と、脚を引きずりながら歩いては、その場で座り込む。もしや怪我でもしてるのかと、真横にしゃがみ込んで触診をしてみた。幸い、骨折は無いようだが、無残なほど腫れ上がっている。健康な人なら1週間で腫れも引くだろうが、相手は栄養状態すら怪しいホームレスである。雨の中に追い出すことも忍びなくて、「おっちゃんさ、あの階段んとこ、あるだろ。あそこは監視カメラに映らないから、ここよりはちょびっと寒いけど移動してくれるか?」と話した。おっちゃんは頷いたのかどうかも分からない仕草で、ゆっくりと僕の指定した場所に座り込んだ。その日はそのホームレスが気になって仕方がない。昼休憩が終わった時に、温かい缶コーヒーを買って渡した。寒い平日は乗降客も少なめで、通勤時間を除けば割と暇である。僕はそのホームレスに話しかけていた。「おっちゃんさぁ、この市の市役所に行けば生活保護を受けられるんだって知ってる?」と言えば、手続きが分からないと言う。僕は自慢ではないが、精神科で知り合った人(まあ友人と呼んでもいいだろう)が多少、知的な意味の障害があったので、生活保護申請に同伴したことがある。2回だけだが。なので知識はあった。
勿論、そんな生活保護受給者を食い物にする「貧困ビジネス」があることも知っていたが、自分で申請に行くとか、信用出来る知人の応援を頼めるならば、そんなビジネスの餌食にはならないはずだ。今だから言えるが、精神病院自体がそんな「貧困ビジネス」に手を染めていた時代だった。
その日の僕は、巡回ルートを若干変更して、そのホームレスのいる階段に通った。どうにかしてこのホームレスを助けたかった。別に「情に厚い」わけではない。そのホームレスが怪我が原因で、その場で死んでいても「なんだそうか」と思うだけで、あとはマニュアルに従って処理するだけだ。しかし、まだ間に合う気がした。生活保護を申請する時に「住民票」は必ずしも必要ではないこと。ホームレスならば、仮の宿泊所を手配してくれて、あとは本人の希望で民間若しくは公営の賃貸に入れることなどを教えた。生活費だって、働けないうちは毎月支給してくれる。しかし、そのホームレスは頑なであった。「どうせ、いつかは住民票だって必要になるんだろう?」と言うのだ。勿論必要になるし、その時は前に住んでいた市町村に照会が行くこととなる。コレが嫌と言うのだ。よほどの罪を犯したか、不義理をしてきたのだろうか?それでも、今とは言わずとも、近い未来に野垂れ死ぬことは確定的なのだ。僕は「明後日は休みだから、一緒に市役所に行ってやっから、保護を受けなよ」と言ってみたが、力なく首をふるだけであった。結局、そのホームレスは姿を見なくなった。そんなホームレスもいれば、もうどうにもならないレベルの駄目人間もいた。本当に駄目で、ダメ人間コンテストに出場したら、余裕で琵琶湖を2周しそうなほどの駄目さ加減で。
実は「ホームレス支援団体」も存在するのだが、あいつらは「自己満足」のために団体を運営している。「為さぬ善より為す偽善」とは言うが、周囲の迷惑を考えていない。驚くことに、駅のコンコースを「支援拠点」にしていたのだ。つまり、その団体が弁当を配ったり、多少なりとも金銭を渡す時は「駅に集める」と言うのが当たり前だった。今までの警備員は何をしていたのだろうか?コンコースは駅の「私有地」である。僕はコレは多少の怒りを交えて「ここでそんなことをされると困ります」と申し渡し、二度と駅でそのような支援は行わないと約束させた。そんな支援団体が少額だが現金を渡す。そのお金は「必ず」安いパック酒に変わっていた。支援があったと思しき日曜日の翌日は、頬を赤らめたホームレスが出てくるし、一般客に絡むキチガイも出るのだ。また、「現金収入は無いはず」なのだが、割とホームレスは酒を飲んでいた。聞けば、「乗降客からの差し入れ」であったり、現金の施しであったり。若干僕を怒らせたのは窃盗である。駅の切符売り場の「地見屋」(地面を見て歩いてお金を拾う)ぐらいは容認できても、券売機に細工をして釣銭の一部を掠め取ることは赦せなかった。手口は書かないが、切符を買った客からの苦情で発覚した。当然だが、券売機付近は「重点監視ポイント」となった。
本当に精神病院に入れないと危ないタイプもいた。酒が入ると暴れるタイプで、素面だと話も通じないような知的障害がある。このホームレスはある日、来ていたジャンパーを脱いで、ジャンパーを振り回しながら混雑しているコンコースをまっすぐ歩くと言う暴挙に出た。僕はその時、駅のホームを巡回していたのだが、携帯でその状況を知らされてダッシュしてコンコース。既にそのキチガイの姿は無かったが、今度やったら警察に突き出そうと考えた。コレが僕の「甘さ」であったと知ったのは3日後である。「次に見かけたら警察に」と言う対応をするべきであったのだ。そのホームレスは勤務中の僕に突っかかって来て、いきなり殴りかかってきた。こちらは勤務中の警備員であるから、応戦は出来ない。せいぜい防御する程度だが、足を払われて倒されて、馬乗りになられた時は内心「しまった」と思った。数発殴られたところで、通りがかりの男性がそのホームレスを引きはがしてくれたが、無抵抗だったと言うのも腹が立ったので、地面に寝っ転がっているそのホームレスの金玉を踏んずけておいた。この事件は通報されてしまったので、警察官が臨場。ホームレスは現行犯逮捕。再犯と言うか、累犯らしい。早い話が、暴力沙汰を繰り返すが不起訴になることを繰り返していたようだ。僕もそのまま警察署に連れていかれた。社に確認を取ったところ「安もっちゃんは怪我してるのか?」と言うので、そりゃ警察病院で応急手当を受けましたからと答えると「労災だから被害届を出しておけ」と言われた。この「被害届」の事情聴取の鬼畜さよ・・・僕は被害者なのだが、余裕で8時間かかった。途中で「現場検証」みたいなもので、僕がモデルとなって「現場写真」まで撮影。「こんな風に殴られたんです」と言う具合だ。警察署から解放されたのは23:00であった。翌朝も仕事で朝が早いので、げんなりしながら電車に乗っていたら、「異音感知」で電車が停まった。踏んだり蹴ったりである。
なお、そのホームレスは起訴されるかどうかの瀬戸際となり、拘置所から手紙を書いてきた。謝罪の言葉が並んでいたが、漢字は少ないのに「こなれた文」だったので、弁護人の言う通りに書いたのだろう。当然、「お赦しくださるのなら云々」と、弁護士事務所の電話番号が書かれていたが、その場で電話して「実刑でいいんじゃないですか?」とだけ言って、話を打ち切った。その後も「労災保険」を使ったと言うことで、労基から何度も確認が来たりした。迷惑極まりない事件であったが、2回目がまた酷かった。
まだ桜が咲くには遠い春の日。まだまだ冷える日が続いていた。駅の警備員としてかなり経験を積んでいた僕にも試練の時が来た。仕事が忙しいのは当たり前で、交代要員がいない状態が続く。この勤務地で「21連勤」は地獄のようであった。室長も同じくらいの連勤をしていたので、文句も言いにくいが、流石にキレかけた。結局、本社から優秀な警備員が応援で来ると言うことで、僕も室長も1日ずつ休めた。その後は定期的に本社から応援が来ることになった。
「〇番線のホームにヤバそうな人がいる」と、襟元の無線ががなりたててきた。「今にも飛び込みそうだ」と言うのだ。回送列車の運転士からの通報であった。そして、運転士の「勘」はよく当たるのだ。つまり、僕は〇番線ホームに行かなければならない・・・と考える前に走り出していた。改札を抜ける瞬間に駅の時計を見た。駅の時計はかなり正確で、今のようなネットや電波で補正される時計と同じような精度を誇っていた。そして僕が時計を見た理由。
ダイヤを暗記しているので、この時間に入ってくる電車を思い出すためだ。間の悪いことに、特急電車の通過時間まであと5分も無い。大きな駅だが、3つ先に同じようなターミナル駅があるので、僕の勤務している駅は通過するのだ。時間的に、特急の前に構内に入ってくる電車は無い。それだけが救いであった。とにかく走って〇番線に走り込んだ。既に駅員二人が説得をしているようだ。しかし、その男はホームにある鉄柵にしがみついて動こうとしない。残り時間は3分・・・僕が近づいていくと、駅員さんは安心したように僕を見た。
「どうしましょう?」と問われても、僕にだってわからない。今まで、駅構内の痴漢行為や窃盗などの対応はしてきたが、命がかかるような事案は初めてである。対応としては、兎に角この男をホームから遠ざけるしかない。遠ざけることが出来たら、鉄道警察に引き渡せば済むだろう。そう言えば、なんで警察の臨場が「警備員よりも遅いのか?」と、頭の隅で思った。まだ警察官は来ていないのだ。発報は当然、警察にも届いているはずだ。僕よりも先に男の説得を試みている駅員さんは、このホーム常駐なので当たり前である。やや小太りの男は説得を聞き入れようとしない。鉄柵にしがみつき、頑なに顔を伏せながら「ウーヴー」と唸るだけである。ガッチリと鉄柵の裏にまで腕を通しているので、力づくで引き離すなら、腕を切断するしかないだろう。そしてタイムアップが近づく。
僕は左目の片隅で「特急電車のヘッドライト」を見た。最悪のタイミングだ。そして、特急電車の運転士も発報を聞いているのだろう、警笛を鳴らしながら構内に入ってくる。その警笛は「自殺志願者にとってはスタート合図」である。2秒、いや1秒あっただろうか。男は警笛を聞くと、いきなり立ち上がりホームの端へ走り出した。駅員さんが二人がかりで止めようとするが、「これから死のうと言う人間」の馬鹿力は「火事場のアレ」以上だ。駅員さん二人を引きずりながらホームから線路に向かって突進していく。僕はこの鉄道会社の「人命軽視」に腹が立ったが、どこもそうなのだろう。ダイヤが最優先事項であり、それで事故は起きたら、その時はその時である。僕は安全を見込んで、その男から真っすぐ飛び込むラインから1メートル弱、ズレた位置にいた。駅員さんが諦める。このままこの男にしがみついていたら心中である。駅員さんは前に突っ伏しながら僕を見た。必死の目つきだった。(頼むぞ)と、その目は語っていた。僕も、担当駅で自殺者が出るのは好ましくない。駅員さんが手を放す。構内に特急電車が入構してくる。男は人生最後のウィニングランを決めようとしている。
正面から受け止める気は最初からない。ズレた位置にいた僕は、その男の腹を「殺す気」で蹴った。確実に沈めたいので膝蹴りを入れて、一瞬前のめりになった男の膝裏を、今度は「へし折る気」で蹴った。幸い、折らずに済んだようだったが。警笛を鳴らしながら特急電車が通過して行く。あの運転士は呪われればいい。そのくらい腹立たしいものである。
特急電車が通過して、僕の蹴りで崩れ落ちた男が男泣きしている。蹴った僕の足もかなり痛い。駅員さんはまた「どうしましょう?」と僕に聞く。もう鉄道警察に引き渡すしかないだろうと思った頃にやっと警察官が臨場。駅員さんが事情を説明して、男は警察署に連行されていった。蹴っ飛ばした僕の罪は見逃してくれた。あの時、蹴らなければバラバラ死体が散らばっていたのだ。褒められてもいいだろう。その通りで、この事案は僕の勤める会社にすぐに伝わり、僕は報奨金を貰うこととなった。3千円だった。命がけで命を助けても3千円・・・
僕は今でも思うのだ。本気で自殺しようとしたあの男のことを。僕は幸いにも生還した。守護の者の叫びを聴くことが出来た。あの男はどうだろう?駅で飛び込もうとしたばかりに、僕のような「モブキャラ」に命を救われてしまった。自殺したかった理由は知らない。その後、付近で自殺者が出たと言う話も聞かない。生きる選択をしたのだろうとは思うが、その人生は明るくなっただろうか。問題が解決して、生きる活力を得ただろうか?
僕は職務で男を「死なせなかった」だけだ。仕事中でなければ、傍観者でいたはずだ。僕が生死を決めてしまったあの男が少しは幸せになったと思いたいと言うのは、僕のエゴだろう。
たまにスパイスの効いた事案が発生するが、大体は平穏だった。駅を巡回し、1日に数回鳴る駅の携帯電話が伝えてくるのは「乗客の体調不良で救急車を呼んだので対応を頼む」と言う程度の軽い事案だ。会社の携帯電話が鳴ることはあまり無かった。ただ、午前中に鳴る場合は、ほとんどの場合「次の休みは無くなった」と言う報せだ。本当に月に3日も休めればいい方だった。お陰で病院への借金返済が捗ったが。
そんな毎日の中、またホームレスが問題を起こした。コンコースを追い出されたホームレスたちは、隣接するデパートの入り口付近に屯し始めたのだ。隣接すると言っても、ソレは「駅ビル」の一部であり、デパートの警備員が甘っちょろいのでそうなっただけだ。コンコースから続く市の「駅前広場」には夕方から市の嘱託であろう、初老の警備員が現れるが、やることと言えば「ここは禁煙ですよ」と言う注意ぐらいで、非常に頼りない。僕はデパートの管理者と駅の管理者との話し合いの結果、コンコースからデパートの入り口までを警備することとなった。もとは同じ会社の運営である。話は早かった。会社からは数千円の手当増額があった。
そんなホームレスをデパートの入り口から引きずり出そうとした時のことだ。また殴り掛かられた。相手は3人である。簡単に地面に転がされて、一番「チンケな爺さん」が馬乗りになって僕を殴打し続けた。いくらチンケな相手でも、ノーガードで殴られ続ければ顔も腫れ上がった。この時は、騒ぎを遠くから見た交番の警官が駆けつけてくれて、どうにかそのホームレスを僕から剝がしてくれた。剥がされる瞬間に、思い切り足首を蹴り飛ばしてやったが。
そしてまた労災である。僕は「殴られたこと」を駅の事務所に報告に行った。既に交番から通報が入っていたようで、駅長が飛んできて、僕の顔を見て憤った。相当腫れ上がっていたので、駅長も驚いたらしい。
「よくも、うちの警備員をっ!」と叫んで飛び出していった。僕はちょっとびっくりした。駅長は僕のことを「うちの警備員」と呼んだ。この駅では、警備員は委託のよそ者扱いなのだが、勤務態度や能力から「身内扱い」してくれていたようだ。光栄に思えた。そしてすぐに僕も交番に呼び出された。被害届は出さざるを得ない。労災扱いなので当然であるし、また警察病院行きである。コレは「駅から一番近い大きな病院が警察病院だから」と言う理由である。タクシーで数分長く走れば民間の病院もあるのだが、犯罪被害者は警察病院を使えるようだ。顔の腫れは4~5日で引くだろうと言われた。3か所ほど、痛み止めのシップを貼られて、不細工を隠すのにちょうどよかった。そのまま警察署で事情聴取である。ここで刑事さんに褒められた。
「警備員さんさ、殴り返さなくて正解だったよ。あの男は心臓が悪くて、ショックを与えると簡単に死ぬみたいだから」
職務中は、例え「正当防衛」でもこちらから手を出せない。緊急避難で暴力と言うか実力行使を行うことは可能だ。あの自殺志願者の時のように。しかし、殴られてるぐらいで、こちらも殴り返していいかと言えば、答えは「No」なのだ。本当に割を食う商売である。延々と6時間は事情聴取を受けたが、この時は昼間の早い時間だったので、仕事を放り出せてラッキーだった。
そして決定的な「事案」が起こった。
ホームレスたちが僕を恨んで、出し合った金で「ナイフ」を買ったと言うのだ。つまり、次にホームレスに襲われたら、刺される覚悟が必要と言うこと。当然だが、駅長も警備会社もそんなことを容認しない。僕は「安全確保」と言うことで、現場を異動することとなった。後釜の警備員の評判は知らない。ただ、頻繁に代わっていて、僕は室長に「ほとぼりが冷めたら駅に戻すから覚悟しておけ」と言われていた。
新しい現場は退屈であった。大規模な路面改修が年単位で続く。地下にショッピングモールまで作る計画で、そんな現場には「専属のチーム」がいる。長い現場であるから、仕事もルーチンワークとなっていた。付近は一般車両の立ち入り規制があるので、歩行者の保護が一番のしごとであり、あとは工事している区域の端っこで赤ニンジンを持って突っ立ってればいい。「立ち入り禁止」と言う看板の横である。当然だが月給は下がった。資格持ちだからそこそこに貰えていたが、新しい現場では資格は不要だった。資格手当を削られたようなものだ。しばらくはその現場にいたが、「2級警備士」なので、路上に出ることが増えていった。都市部の「片側2車線以上の車線規制等」に、2級持ちが必須となったのだ。それまでは素人同然の新人でも現場には入れたが、今後は「最低1人は資格持ちが必要」となった。これはまあ、ありがたい話で。資格持ちがいないと仕事が出来ないのだから、よほどの人不足でもない限り、僕は警備会社のライトバンの中にいるだけで良かった。その日の日報を書いてサインして、シャチハタを押せばいいだけだ。そして徐々に収入が減っていった。現場は雨が降れば休みである。梅雨の間が暇で困った。駅に戻ろうにも、ナイフを買ったと噂されるホームレスは、新しい警備員を舐め腐っているそうで、「安元が戻ったら刺されるかも知れない」と言うことで、本当に仕事が無い。僕は病院への返済があるのでと泣きついて、雨の日もなるべく現場に出るようにしてもらったが、雨の中、人気のない駐車場に突っ立っているのも泣けてくる。
僕は仕事に関しては真面目だが、「1つの会社にこだわる」ことも無かったので、減収が続いたことを理由に転職することにした。同じ警備業だが、今度は「高速道路専門」の警備会社だ。アルバイトの平均年齢は20代と言う、活気のある会社であった。
以前の警備会社から日を置かずに転職したので、本来なら「新任教育」は不要なのだが、「新任教育から始めるから」と面接で言われた。つまり、面接即採用と言うことだ。慢性的な人手不足なのが察せられた。新任教育を受けたのが僕を含め5人だった。そして新任教育はかなり厳しかった。僕は経験者なので特に問題は無かったが、毎日、その日の研修内容に関する「小テスト」があった。そしていよいよ、この「高速道路での車線規制等」の専門教育が始まった。いや、最終日に一気に行われたその専門教育はかなり意欲を削ぐものであった。豊富な写真を見せられながら受けた教育は、ほぼ「死亡事例」のことだった。高速道路では気を抜くと死亡事故につながると言う豊富な事例があった。午前中はそんな事例と「注意するべき点」を頭に叩き込まれた。死亡事例と言っても、流石にグロ画像は無かったのだが、「こんな死に方をしました」なんて事例を5つも6つも見せられれば、「入社して頑張るぞ」なんて士気はだだ下がりである。支給される弁当を食べて、他の研修生と雑談した。一人は「俺は無理っす・・・」と言っていた。他の3人は「どうするかなあ」と若干の迷いを見せていた。ただ、日給は一般の警備員の2倍だ。ここで稼げればかなり生活は潤うだろう。僕はと言えば、「死なないことが多いし、マニュアルさえ守れば大丈夫だろう」と、呑気に考えていた。つまり、もうこの会社で働くことを決めていた。
午後からの研修は「雑談」みたいな感じで進んだ。資料には無い「事例」を雑談のように話す教官。内容は「当社の起こした事故」がテーマであった。かなり突っ込んだ内容で、この会社もそうだし、他の「高速道路専門の警備会社」もそうなのだが、高速道路公団と同じカラーリングの車両を使う。当然、一般車両から見れば「公団の車両」なので、交通法規は絶対に守れと言う話から、「工事中」と言う看板を背負った車両で「横転事故」を起こしたとか。鉄製の看板を積んでいるので重心が高く、普通のトラック感覚で運転すると危険だとか。そしてこの会社でも「死亡事例」があったことなど。
研修が終わり、教官が真面目な顔に戻って告げる「無理だと思ったら入社しなくていい。研修手当はきちんと出す。今までに、研修生がそのまま残る割合は6割ほどだ。半分近くは自信が無くなって断っていく。それでいいんだ」
当然だが僕はそのままこの会社に入社した。ただ、アルバイトでの採用だった。この会社にはいわゆる「正社員」がほとんどいないと知った。ハードな仕事ゆえ、人の入れ替わりが激しいのが理由だろう。僕もこの会社では3か月しか持たなかった。勤務自体は2~3回の現場を踏めば慣れるレベルなのだが、ハードだ。高速道路では一般車両が100㎞/h以上でビュンビュン走っているわけで、その車線を規制するには、先行車が「規制される車線に発煙筒」を投げることから始まる。発煙筒を見た車両が車線変更するわけだ。発煙筒を投げる車両が1㎞弱進むと、「車線規制の看板」を背負った車が低速で追いかけていく。黄色いパトランプを光らせたアレだ。この2車両で車線規制を終わらせると、カラーコーンを置いていく。この流れ作業が大変なのだ。工事帯を作ってしまえばあとは楽だ。誘導すらしないでいい。工事帯の始まりの部分と途中の部分、そして工事帯終端に立って旗を振っていればいい。夜間は赤ニンジンである。この工事帯に車が突っ込んできて死んだなんて事例はいくつかあって、マトモに跳ね飛ばされるらしい。また、工事帯の真ん中付近で、「工事車両」を誘導中に気を抜いて、ローラー車に潰されるとか、本当にどこに危険が潜んでいるか分からない。仕事になれた頃に先輩アルバイトから聞く話は、ユーモアに溢れているが深刻な話ばかり。一番の問題は「トイレ」だそうだ。高速道路を走って現場に到着。工事帯を速やかに作って、あとは立ち番である。社の車は必ず、高速道路に乗る前にコンビニに寄っていた。「トイレは済ませておけよー」と言うことである。あと、現場に入ったら「買い物」等は出来るわけが無いので、弁当を買うのだ。通常なら移動式のトイレを積んだ「トイレ車両」が用意される。3人配置の現場なら、交代要員が2人入っていて、交代で休憩を回してくれるので、この時にトイレに行けばいい。しかし、人手不足の会社である。休憩回しが出来ない現場もある。また、休憩時間中に高速道路を歩いてトイレ車両まで行くのが難しいこともある。トイレが3㎞先だなんて言うのは悪夢に近い。「勤務中にうんこを漏らしたことがあるか?」と言うアンケートに6割が「ある」と答えた会社である。小便くらいなら、褒められたことでは無いが、壁際で済ませればいい。しかし、女性のアルバイトもいて、その「乙女たち」は、おしっこを漏らすと笑っていた。
ある秋の日。その現場はかなり長い期間工事をしていた。半年はやっていたはずだ。工事帯は常設なので苦労は無い。トイレ車両も複数台配備され、現場としては上々の部類であった。ただ、配置される場所によっては地獄のようで、その配置場所は「長いトンネル内」であった。排気装置はあるのだが、それでも排気ガスで「呼吸困難」になる警備員が出る。交代要員がいればいいのだが、いない日もあったりするのだ。そんな時は道路公団の車で搬送されていく。トンネルから出て30分もすれば回復するのだが、弱い人は弱い。僕もそうだ。排気ガスとアスファルトの臭いに負けることもあった。幸い、トンネル内での勤務は1回だけで、しかも入り口付近だったので、これまた褒められたことではないが、ちょっと持ち場を離れて新鮮な空気を吸うことが出来た。割と「楽な現場」なので、アルバイトはローテーションで変えられていた。「少しは楽をさせてやろう」と言う慈悲である。この現場には「一番楽なポジション」があって、僕はこのポジションを得ることが出来た。くじ引きで決まっただけだが。そのポジションは、高速道路の外から入ってくるダンプの誘導で、通常時は閉じられている「進入路」に立って、ダンプが来るたびにゲートを開け閉めするだけ。導入路なので一般車両は入ってこない(バス停だったから)そして、1日に入ってくるダンプは10台程度。8時間勤務で10台あるかないかと言うこと。ダンプが入ってこない間は椅子に座っていればいい。当時の僕は音楽を聴くのが趣味だったので、ポケットには小さな音楽プレイヤーが必ず入っていた。ただ音楽を聴いて、ダンプが見えればゲートを開けて誘導するだけ。コレで普通の警備員の2倍近い日給なのだ。最高であった。翌日のくじ引きでまた地獄行きかも知れないが・・・
ところがである。このポジションは非常に楽なので「交代が来ない」のだ。トイレも食事も暇な時に勝手にすればいいと言うこと。そして夕刻。現場は時間通りに終わり、また夜間から始まる。17:00にいったん現場は停まり、21:00からまた始まる。そして朝方にはまた停まり、09:00から再開されることを繰り返していた。僕は迎えの車が来るのを待っていたのだが、ポケットの携帯が鳴った。「あー、安元ぉ?あのさぁ、そこは楽だから連勤でいいよな?」いやもう、「連勤でいいかな?」ではない。「いいよな?」である。そう言えば、行きに寄ったコンビニで「安元は多めに買っておけ」と言われた。あの時点で連勤は運命だったのであろう。そして、反対車線を社の車が走り去っていく。アルバイトのみんなが笑顔で手を振ってくれる。コンチクショーである。高速道路で、周囲は田舎である。勝手に帰ることは不可能。僕は早々に諦めて、高速バスのバス停で仮眠を取ろうとした。いや、夕方であるから眠れはしないのだが、休憩は取っておきたい。幸い、弁当は無いがお菓子をいくつか買ってあったので、空腹に悩まされることは無かった。そして20:00になった。現場入りするアルバイトを乗せた社の車がバス停に入って来て、「コレ、食え」と弁当を2つ、ペットボトルのお茶を4本。「明日は暑いからな」だそうだ。ここで気づけよ、僕。なぜ「明日の天気」が話題になったのか?翌朝のことである。アルバイトを乗せた社の車が、反対車線を走っていく。また手を振ってくれた。コレで3連勤確定である。流石に眠いので、バス停の硬いベンチに、拾ってきた段ボールを敷いて寝た。誘導路のゲートから出れば、そこは田園地帯で、段ボールを拾ってきたり、トイレ(もちろんうんこも)に不自由しない。大自然に返せばいいだけだ。朝方、また社の車がバス停に入って来て、様々な差し入れをしてくれた。弁当はもちろん、お菓子とか雑誌もあった。嫌な予感がした。的中した。僕は反対車線を走っていく社の車を見送りながら、この場所で6連勤をした。6日間連続ではない。「日勤夜勤日勤夜勤日勤夜勤」である。この3日間で10万円近くを稼げた。あと、勤務中は「日よけが無い場所」だったので、真っ黒に日焼けして「健康そうな警備員」になれた。
そして「秋の集中工事」の時期になった。
高速道路ではおなじみの「集中工事」には、アルバイトの7割が駆り出される。残る3割は通常業務だが、当然人手が足りない。集中工事の話を聞くと、かなりヤバいと感じた。先ず、「脱糞事案」が最も起こる現場であること。そして、3交代で回すそうで、ソレはそのまま「工事は停まらない」と言うことを意味する。交代が来なければずっと立ちっぱなしで、疲れてフラっとしたアルバイトが、工事の人に「馬鹿野郎っ!死にてぇのかっ!」と怒鳴られながら襟首を掴まれたとか・・・フラっと前に倒れかけて車線に出そうになるとか、危険すぎる話だ。しかも、工事期間中は帰宅できない。社が借り上げたアパートで雑魚寝である。この寮と工事現場を往復するだけの3週間。「自分がいま現場にいるのか、寮で寝ていて夢を見てるのか分からなくなる」そうだ。僕は怖気を振るった。しかし、社に残っても、人手不足で休憩もままならない勤務になるだろう。もう辞めた方がいいと判断した。そこそこに稼げたので未練は無い。身軽なアルバイトで良かったとさえ思う。
辞めたところで、また警備員である。トラックに乗ると言う選択肢もあったが、体力的に厳しいと思った。運転そのものには自信はあった。僕の職歴は警備員か、トラックの運転手ばかりなのだ。4トンのロングボディで長距離から業務配送までやっていた。いや、本来なら「トラック運転手」が本業だったのだが、入退院を繰り返せば、雇ってくれる会社は少ない。
次に面接を受けた警備会社は、僕の前職を見て「はあ、あの会社にいたんですか・・・」と言うことで文句無しの採用であった。あの会社で半年持てば、どこでだって通用する。それほどハードな会社だったのだ。実際、高速道路よりも一般道の方が楽だった。少なくとも死んだりしない。
しかし、この会社を2か月で退社することになった。ここもアルバイトで入ったのだが、資格持ちと言うことで、いずれは正社員に、と言う話もあったのだが。
11月のある日の現場で、僕は足を捻挫してしまった。どうにか歩ける程度であったが、警備員が足を引きずって歩くわけにもいかない。あの「駅の警備」では、交代要員がいないので、痛風発作を起こしても、脚を引きずって構内を歩いたものだが。
そして、この足の捻挫が苦難の幕開けであった。
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