第3話 前世でも、現世でも、姉には逆らうな

 この屋敷で目覚めてから、一週間の時間が過ぎた。

 俺の行動は極めてシンプルなものだった。起きて、食べて、寝て食べて寝るだ。

 運動もしたほうが良いと思っているけど、一人で歩くことも、遊ぶことさえも、俺専属の執事であるセドラがそれを許さない。


 目が覚めた時は意識が朦朧としていたけど、翌日には快調だった。

 元気になったからとはいえ、屋敷にいる人達は基本的に過保護なため、徹底的に守られていた。


 だけど、このまま何もしないというのも体には良くはない。俺が夜に寝る時はセドラもこの部屋から出ていく。ガリガリに痩せ細っているから、できるだけ寝る前に運動をするようにしていた。

 ストレッチや筋トレなんだけど、あまり長時間はできない。回数を決めて、限界までやる必要はない。

 体を鍛えるのなら、もっと回数を増やすべきなんだろうけど……初日に調子こいて、翌日の夜には筋肉痛で体を痛めた。その時はそりゃもうね大騒ぎでしたよ。


 父親であるアークは、セドラを殴り飛ばし、午後には俺を散歩に連れて行ったアークをセドラが殴り飛ばすという暴挙。

 二人共剣を抜くことはなかったが、殴り合いをしていたのはびっくりした。


 なんでこんな事になっているのか……

 家族、そして使用人までもがあれ程に過保護で涙腺が崩壊していたのか。

 たまたま使用人達の話の中で、その理由がようやく分かったのだ。


「ははっ、話すことも、歩くことさえできなかったなんて……」


 俺が転生したことで奇跡が起こりました!


「あの状況でそんなことを誰が想像できるか!」


 朝には、普通に声は出たよ、アトラス兄上とも話せたよ。それが、今までできてなかったとか分かるわけ無いだろ!

 兄上がビックリしていたのも、家族が泣いて喜んでいたのも今なら分かる。


 それでも唯一の救いだったのが、大病を患ったことで今までの記憶が無くなったということになり、俺にとっては実に都合のいい設定になっている。


 記憶と一緒に病も消える?


 そんな意味不明な状態だったが……俺としては、こういう場合は元に居た世界に戻ることはできそうにもないから最初から諦めた。

 屋敷にいる誰もが、アレスは記憶を無くしたということに落ち込んでいると……そんな風にも考えた。


『アレスは私の大切な弟、それは何も変わらない。だったら、これからまた作ればいいのよ。辛く苦しい記憶は私もいらないから』


 姉上の言葉に誰もが共感し、家族や使用人たちはようやく落ち着きを取り戻していた。

 母上に抱きかかえられていた俺の頭を撫でていた時に、姉上が見せた笑顔は可愛らしい天使に思えた。という錯覚を起こした。


「アーレースー」


 廊下からドアを超えて聞こえたこの声は……フィール姉上。

 ローバン家において最大の過保護者であり危険人物の代表格がこの姉だ。次点でセドラ。

 可愛いがられるのはまだいいが、俺はずっと病弱だったため体が弱い。


 少しのことで熱が出たりということはないのだけど、歩くだけでもすぐに疲れるが、姉としては病弱だったアレスと、今まで遊ぶことが出来なかったのだろう。

 今の俺は記憶を無くしているということになっているため、これまでの時間を取り戻そうとしているのかもしれない。しかしだ、姉のパワーには勝てない。

 そして、この姉上は力持ちなのか、とにかくありとあらゆる面で子供としておかしい。重そうな物でも軽々と持ち上げる。


 昨日は着せかえ人形として弄ばれた。それはいいとして、いくら痩せ細っているとはいえ、まだ子供である姉上が逃げる俺を掴み、軽々と持ち上げたときは正直焦りもした。

 年齢差からすれば持てなくは無いだろう。しかしだ……座ったまま掛け声もなく、本当の人形を掴むような感覚で持たれると心底怖い。


 だからといって、姉上が嫌いというわけじゃない。

 そんな姉が今日もこの部屋のドアの前に立っている。

 幸いにも着替えをまだ済ませてはいないので、すぐにベッドに潜り込み狸寝入りをすることにした。


 姉の年齢は十一歳、来年からは兄上と同じく学園の寮に住むため、もうしばらく辛抱すればという気持ちもなくはない。

 もちろん嫌いじゃないけど、俺だってのんびりしたいと思ってもいいはず。


「アレス? あ、まだ寝ていたの? 残念、一緒に遊ぼうかと思っていたのですが。仕方がありませんね」


 やっぱりか、でもやっぱり子供だな。

 ふっ、こんなので簡単に引っかかるとは。

 ドアが閉まる音を聞き届けてから目を開くと、俺をじっと見つめる姉上のとばっちり目が合った。


「ふふっ、おはよう。ドアの音で目が覚めちゃったのかな?」


 あ、これ多分やばいかも。

 これか、目が笑っていない笑顔。なんとなく背後に獲物を捉えた姉上のおぞましい影が見えたような気がした。

 そして、その笑顔で近づかないで。


「どうしたのかな? んーー?」


「姉上。えっと、少し横になっていただけです」


「ふーん。そうなんだ」


 完全に失敗した。

 罠に嵌ったのは俺の方だったようだ……一歩歩く度に、右へ左へと頭を揺らしながら俺の所へと近づいていた。

 両頬を捕まれ、目を大きく見開き、姉上の顔を近づいてきた。


 姉上のおでこが俺の額にへと触れる。

 集中しているのは目を閉じて、体温を感じ取っているようだった。

 おでこが離れると、俺の髪をわしゃわしゃと撫で回している。


「そっかそっか、ふーーん」


 こっわ。見透かされている気がしてならない。この年にしてこれほどのプレッシャーを出せる姉に対し、たかが五歳の弟には酷いじゃないですか?


「それじゃあ、しょうがないよね。ふふっ」


 笑っているようだからとりあえずは、助かったようだけど……殺されるかと思ったぞ。絶対にそんなことはしないだろうけど、今日のことは根に持たれそうだな。

 何を納得してたのかはわからないけど、とりあえず危険は回避できたようだ。


「アレス」


「なな、なんでしょうか? 姉上」


「私のことは、お姉ちゃんって呼んでほしいの」


「えっと、お姉ちゃん?」


「ふふっ、なあーに?」


 なにこれ……この笑顔。

 ものすごく嬉しそうなんだけど。

 そんな顔をされると、こっちは少し罪悪感が……なんて思ったが、さっきの顔を思い出すと不思議と湧いてこないな。


 姉上はもう少しお淑やかというものを身につけるべきだ。

 屋敷を走り回り、俺の所へとやってきてはおもちゃにされる。

 欲望のまま行動でもしている野生動物。それが俺が姉上に対して改善して欲しいところだった。


「お姉ちゃんですよー。いいですねー」


 それなのに、俺は姉上に優しく撫でられていた。

 何が起こったのかを理解するのに時間がかかるほど思考停止していた。姉上の表情がまるで別人のように見えた。優しく撫でられる心地よさで小さな欠伸が漏れた。


「ごめんね、昨日はいろいろと疲れたのよね。ゆっくりとお休みなさい」


「はい」


 フィール姉上がべッドから降りドアの前で振り返る


「それと、次に同じことをしたらお仕置きだからね」


 この数日、事ある毎にじゃじゃ馬な姉上に引っ張り回される日々だったから、幼い体でましてや病弱だった体には負担が大きい。

 しかし、子供である姉上にどこまで通じるのだろうかと思ったが、それでもちゃんと姉として弟を心配をしているんだな。

 だがしかし、お仕置きが怖いので今後は気をつけることにしようと心に誓った。


 これまでに把握できたのは、家族のことぐらいなものだ。

 父であるアークは、領主だからというべきか屋敷に帰って来れないこともある。領主というのは、踏ん反り返っているということもなく、思っていた以上にやることが多いみたいだ。

 貴族としての階級は公爵。そのことを聞いて驚いたりもした。


 母のソフィ、優しくて、それでいて温厚。この点は姉上も見習って欲しいと思う。

 前世の俺には母親とのいい思い出なんかなく、あの人が母親で本当に良かったと思っている。


 兄のアトラスは、今は学園の寮に住んでいるため、あの日出会って翌々日には学園へと戻っていった。

 姉上に劣らずのブラコンなのか、俺を抱えたまま馬車に乗り込もうとして姉上と口論になったりもした。


 姉のフィールが一番の曲者で、見た目はかわいいが兄上以上のブラコンだと確信している。

 後一年もすれば、姉上も学園の寮に入るからそれまでの辛抱だけど何カ月後の話なんだろう。来月ぐらいがいいなー。


 執事のセドラ、不思議なのが俺の専属執事らしい。身の回りを世話してくれるし、とっても良い人。

 このセドラもなかなかの曲者で、父上はちゃんと旦那様なのに対して、母上は奥様とは呼ばず、ソフィと呼び捨てで、使う言葉もかなり悪い。


『ソフィ。早くしろ』とか『モタモタするな』なんてもはや平常運転レベル。もちろん母上にだけに対して。兄上や姉上に対しては俺と変わらない。

 母上限定で口が悪い……そんな状況にも関わらず、父上もそれについては何も言わないのがこれまた不思議でもある。

 執事は、あと二人ほど居るらしいけどまだ話をしたことがない。

 使用人、メイドや料理専門の人などはよく分かっていない。


「ふぁあー、うん。寝れそう」


 あれこれ考えているうちに、程よい睡魔に抵抗することもなく眠りに落ちていった。

 ただね、俺が使っているのって子供ベッドだったりするのかな?

 俺が使っていたシングルベットよりも、倍あるというのは情けない話だ。

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