泡と音

@mu-gu-et

第1話

 昼の日差しが暖かい。風が気持ちいい。

外を歩くだけで足取りが軽い。


 時折耳にする喫茶店やテレビから流れる

パッヘルベルのカノン。懐かしい。身体に馴染み、自然と耳を傾けて口ずさむ。


 いつでも自由に聴けるなんて、解放的で悲しく、後悔すら容認してしまう。


 それだけ私の身体に染みついた、短くも生き急いだ記憶。

 

 幾年月を遡り、今尚さっきまでの記憶として甦る。注いで受けた心と身体のアンバランス。当時の私は真面目で素直で弱虫だった。


 学生生活も終わり、社会人になった。

仕事を覚え、頼りにされる事も増えてきた。家に帰ると眠気が一気に襲ってくる。

 

 ある日、父と喧嘩した。些細な事だったけど、少ないながらに自分で給料が稼げる事に自信を持っていた。母は心配していたのに喧嘩を理由に勢いに任せ、持てるもの全て持ち出し実家を出た。

 現在の様に様々な不動産屋はなく、スマホもなかった。目についた看板を頼りに車を走らせ、職場に近いアパートを借りた。

初めてのボーナスと給料の半分位のお金がかかった。

 一人暮らしに憧れもあり、実家から出た事で、一人前の大人になれた様な解放的な気持ちになった。

 当時付き合っていた彼氏がアパートに来た。寝泊まりする様になり、同棲をした。

 寂しさや悔しさ、一人でいることの不安を紛らわせる事ができた。彼氏の端正な顔立ちが好きだった。時々喧嘩をして荒げた口調で押されても、喧嘩のあとの仲直りが好きだった。どんな形でも私との時間を共有してくれている事が嬉しかった。同棲していても、すれ違うタイミングも多々あった。すれ違いで不安がよぎると、稼ぎの少ない私は、アパートの家賃や光熱費に食費。一日ごと生活していく中で生きていくことの悩みが出てきた。

 どうしたらお金を手にできるのかを考える事が増えてきた。今の稼ぎでは先が見えない事に不安を覚え、出会い系サイトに行きついた。知らない人と待ち合わせ、興味のない会話を挨拶程度に済ませ、ホテルに行き、お金を得た。

 その事が彼にバレて大きな喧嘩になり、初めて暴力を受けた。彼は何度もお腹を蹴り、頭を踏みつけた。(痛い…でもそれだけ彼は心を痛めたんだ。ごめんなさい。)時間が流れ、起き上がるとピアスごと踏まれた耳から血が出ていた。得たお金は彼に渡せと言われて、渡した。

 

 その日から対等だった関係に天と地の差が開いた。それでも別れずにいてくれた事が嬉しかった。逆に私がされていたら、どう立ち直っていけば良いのか、考えもつかない。


 自業自得だけど、自分が思っていたよりもかなりダメージがあったみたいで、ご飯が喉を通らない。仕事は休めない。無理矢理寝付いて目が覚めると吐き気がした。日に日に彼の帰りも遅くなり、帰ってこない日もあった。

 私が理由を聞くのもお門違いなので、不安に襲われながらも言葉を飲んでいた。あの時渡したお金は彼の酒代に消えていた。声に出すつもりはないのに、お腹の底から湧き上がり、「ヴゥ〜。う〜。」と唸るような音が口から出てきた。缶コーヒーと煙草のみで半月ほど経った頃、彼が私の口にコンビニの塩むすびを押しあてた。

(しょっぱい…でも美味しいなぁ。私のことを気にかけてくれたんだ。ありがとう)

 仕事も変わらず忙しく、当時の体重は38kgまで落ちていた。鏡を見ると気持ち悪いほど皮膚の下に骨格が浮き出ていた。一緒にお風呂に入るときは、彼の頭の先から足の指先まで洗うようになっていた。夜は、疲れていても求めてくれれば喜んで受けた。

 私が一方的に精神的に依存し、期待していた。休みの日に記帳しようと思い、銀行へ入るため右折しようと、ウインカーを出して止まっていたら、見覚えのある車に道を譲ってもらった。彼だった。彼の助手席に女性が乗っていた。私には気付いていなかった。

その日の夜、聞いてみた。

 「今日、あの通りの交差点で…」

 「あっそう。だからなんだんだよっ。」とキレられた。収まりが付かなくなるまえに、私は謝った。

「変なこと聞いちゃってごめんね。」私が彼のことを気にしすぎていているのか彼はなんで私といるのかよく分からない。聞くことも怖かった。


 月日が流れ、職場の雰囲気も、同期にも上司にも悩まされる事なく仕事に向上心を抱くようになり、いつか私もあの立ち位置で仕事がしたい、もっと他にできる事を追求したいと日々思う熱量が大きくなった。決意を決めて再び学生になり、寮に引っ越した。

同棲ができなくなる事を、彼は理解してくれた。

 

 そこからが私の転落の分岐点だった。


 新しい環境で夢は広がり、知識も技術も身につきアルバイトと勉強の忙しさの中、彼とも時々出かけたりした。一年位経った頃、お互いに感情のないまま一緒にいる事に気づいた。彼に「別れたい」と伝えるとあっけなく別れた。正直、(え?、それだけ?)とも思ったけど、喧嘩別れするよりはよかった。

暫くして、道で偶然すれ違う事が一度あった。たまたま周りに人がいなくて、逆光でよく見えないけど、近づくにつれ輪郭がはっきり分かった。彼が前から歩いてくる。(こんな事ってあるんだなぁ。)スローモーションの様にすれ違うまで、時間の流れがゆっくりと長かった。すれ違った後、私は立ち止まり、(未練がましいかな。今振り返ったら…でも振り返るかな。彼が振り返っていたらなんて話そうかな)そう思い、私はゆっくり振り返った。スタスタと歩く彼の後ろ姿を見た。

(あ〜。自分だけ振り向いてしまったよ。そうだよね。彼にとっては道ですれ違っても、気にも留めない存在になったんだよね。)淡い期待が、遠のく彼の後ろ姿を見て現実を認識した。振り返っていた私は、思いっきり元の進行方向を向いた。踏み出した右足が重かった。(でも、私にはなりたい目標がある。止まったままじゃダメだ。)意を固め、アスファルトの上を足早に歩いた。

 中途半端な思いはお互いの足止めと、不安定な日々を繰り返すだけだと思った。彼は分かっていたのかもしれない。月日が経つ中で幾人かと付かず離れずの恋愛もした。

 学生寮では変わり映えのしないスープを毎日食べて、エアコンは使わず、トイレは2回に1回流す程度の生活だった。それでも夢を抱いていた私には未来図があった。

 面白いほど友達もできた。共通の話題があってもなくても、誰とでも仲良くなった。

輪の中心に自分がいて、周りで世界が動いているような。不安も怖さもなかった。毎日笑っていた。自分に自信を持っていた。

前を向いて歩く事ができた。


 生活費の為に夜はキャバクラで働いた。

当時の私は水商売、風俗に対して偏見しか持っていなかった。

お辞儀の仕方、所作の一つ一つゼロから学んだ。

 睡眠時間が削がれ、疲れが蓄積されるのが体で分かった。キツイ言葉を投げられたり、体を求めてくる人もいた。うまく交わし、気分良く楽しんでもらえるよう、薄灯りの店内で自分の感情を押し殺し、ひたすら時間いっぱい働いた。そこで私が折れなかったのは、別世界の夢があったから。見る方向が定まり、芯があったから。

そして、水堕ちしたくなかった。

 本当にこの頃は、知りもしない世界なのに水風商売への偏見が酷かった。


 キャバクラの仕事に慣れた頃、私の人生が真逆に変わってゆく男と出会った。 

 いつもの様に接客に勤しみ、その男の席に私はついた。場を取り持つ為、私から話しをし、反応良ければ引っ張り、悪ければ当たり障りない話をした。この頃の私は、接客相手は皆んな同じに見えていた。

 日にちを経て何回かある男の接客をした。

どうしてそんな話の展開になったのかは今になっては思い出せないけど、お金の話になった。

 最初は、5万円。返してもらうという口約束で貸した。その男が困っていたから。

当時学生の私の口座には生活費で7万円入っていた。思い切った。

なのに数日後には、20万円。さらに翌週には60万円。その頃には男女の関係になっていた。

 返してもらうために、さらに貸し、お店のボーイから親戚、街金からは限度額以上に借りに借りまくり、返済に苦しんだ。その間最初に貸した5万円すら手元には戻ることはなかった。仲の良かった友達にも相談した。お金の話になったら、蜘蛛の子散らす様にみんな私から遠ざかっていった。

 あれだけ楽しく一緒にいたのに、なんだったのだろうかと悔しくて悲しかった。お金の話なんて、ましてや借金とくれば誰でも聞きたくはないことだけど、本当に苦しんでいた私は惨めになった。

 世界は私なんかのために動いているわけではないのに。訳の分からない自信を盾にして転落した。みんな離れていなくなったことは悔しいけど、清々しくもなった。

 唯一高校時代からの友達が一人、親身になって話しを聞いてくれた。今も変わらず唯一無二の親友。


 こうなると頭の中はお金お金お金。勉強していてもお金にならない。早く返さなきゃ。

誰に相談するでもなく退学した。寮を出る為急いでアパートを借りた。

 

 さようなら私の夢。未来の私。


 当時はっきりと認識したくはなかったけど、和解が解け、応援してくれていた家族には申し訳ない気持ちと、ふわふわとした地に足がついていない感覚で、目の前の景色が一気に霞んだ。少しだけ返還された学費を握りしめて(終わってしまったんだ…)と思ったら、

重くため息が出た。



 (早くお金の返済しなきゃ。)一ヶ月後には家賃も払わなくてはいけない。早く大きく稼げる所…必死に考えた。そんな時にも男からは連絡がくる。

意地とヤケと、負けず嫌いが相性してさらに借金が膨らんだ。取っ払いでお金が貰える所を探し、1ヶ月程地元のヘルスで働いた。知り合いが来ない事を祈りながら、マジックミラー越しにお客さんを確認する行為が、なんだか犯人探しの様にも思えた。なんとか自分の生活費が払えるギリギリを保っていた。


これじゃ先が長い…

地元じゃダメだ…県外に行こう。

この時かなり、感情が死んでいた。


 無料の情報誌を手に取り、県外のヘルスを梯子した。車で移動する時はアニメや映画のサウンドトラックを聴いていた。ちょっと元気な気持ちになれた。

 面接はシャワー室に店長と入り店長が果てる手前までの"指導"。そのあとすぐ個室待機となった。

 待機部屋では頭が痛くなりそうなほど大きな音で流行りの曲が有線で流れてる。思っていたよりもお客さんがつかない。部屋に電話で呼び出しが来るまでは、ひたすら流れる有線を聴いているしかなかった。

(うるさいなぁ…何でこんな事してるんだろう…稼ぎたいのに。)

同じ様に働いている人も同じ思いなのか、もっと明るい理由なのか、知る事はなかった。

 

 お客さんとの連絡先交換は禁止されているけど、中には「出勤日教えて」と押し切られて教えることもあった。驚くほど早くお客さんの恋人から執拗に連絡が来た。 

「どういう関係なんですか?」

「私は彼女です。これ以上彼に近づかないで

 ください。」 

あぁお客さんツメが甘いよ…。

そして信頼されてないじゃんか…。

「私は関係ありません。彼氏さんに聞いて

 ください。」

彼女は被せる様に言ってきた。

「なんでそんな事言うんですか?

 はっきり言ってください。」と。

言える訳がない。電話を切った。

(彼はお店にきたお客さんで、スッキリ

 して帰られました。私は風俗嬢ですよ。)と腹の中で思った。はっきり言いたかった。言っても良かったのかもしれない。

 数日間連絡があったけど、着信を放置していたら、連絡は来なくなった。話がついたのか、バレてしまったのか。どうでもいいや。

 とんだとばっちりだったけど、恋愛に集中できる余裕があって羨ましいなと思った。


 寝ないで朝が来る日が続き、自分の事しか考えられなくなっていた。ヘルスよりもっと身体を駆使するお店があることはふんわり頭の中にあったけど、想像がつかなかった。

 そんな中でも、お金の無心はしっかりあった。お腹が空くと小麦粉を水で練り、それを茹でて砂糖と醤油をつけて食べた。コンビニの1個100円のメロンパンがとても美味しそうに見えたけど、それすら買えなくなっていた。

 家賃だけはどうにか払い、ほとんど帰らずにいたアパートは生活感がなく、少し怖かった。

 

  もっと、もっと大きくお金が必要だ。


 言うまでもなく日銭を稼ぎ、むしり取られの繰り返しで財布は常に空に近い。とても買えないから、なりふり構わず風俗雑誌をコンビニで読み漁った。メモした番号に電話をかけソープランドの面接に赴いた。

 待ち合わせは地元の駅。中年の恰幅の良い男性が改札から出ると同時に、私に気がついた。最初に挨拶をし、近くの喫茶店に入った。

 緊張で指先が冷たくなっていて、コーヒーが上手に飲めなかった。両腕を見せて欲しいと言われ、差し出した。なんの事か分からずキョトンとしていたら、

「薬はやっていないね?」と聞かれた。

(そういうことか…)

 食べる事が満足に出来なかった為、この時もかなり痩せていたし、あまり寝ていなかったから…かな?

 どうしてこの仕事を希望するのかを聞かれて、大まかな経緯を話した。

 「いつから来れる?」と言われ、これからの話をした。話が終わると男性は駅の中に戻っていった。県外だったけど、時間がなかったからアパートは借りたままにし、車もアパートの駐車場に停めておいた。

 時々友人に様子を見てもらうことをお願いし、キャリーケースといつものバッグを持ち各駅停車の遅い電車に乗った。

 当初、面接で不採用になる可能性が高いと思っていたから電車に乗っていても実感がなかった。

 隣のビジネスマンに、荷物が当たらない様に押さえ、見慣れた景色から知らない景色へ流れ変わるのを黙って見ていた。

 目的の駅に着くとお迎えの車がきてくれた。私と荷物をお店まで運んでもらい、お店の寮に入った。

 決して綺麗とは言えない寮だった。直接床で寝たくないな…。備え付けのベッドはありがたいような、そうじゃないような気持ちになった。ただ、そんな事を悠長に言っていられる状況じゃない事が現実。

  

 初めての出勤日、今までのお店の雰囲気とは全く違い、建物、世界観、ボウイの姿に圧倒された。重厚な建物に寝癖などなく言葉遣いが綺麗なボウイ。例えるなら宮殿。私はここで働く事を受け止めた。

 その日ごと決められた持ち部屋で個人レッスンを受ける(有料の為接客で得たお金で天引き)売れっ子になると部屋持ちになれるらしい。今まで身につけたことのない万単位のドレスや下着を身につけて(これも天引き)

一週間後泡姫デビューとなった。


 土地勘もなく、右も左も分からないところで、近くにはコンビニやファミレスはあり、

食べる事に対してはとりあえず、安心した。時々お店で出前もとって貰えるので、食事を味わう楽しみができた。洗濯は寮の部屋の小さなシンクで全て手洗いした。

 元々セックスをする時は相手に合わせ、流れにまかせていた。ソープでは自分からこんなに動くのかと衝撃を受けた。お客さんは高い金額を払い、サービスを受けるから金額に見合った内容でなければならない。非日常的なサービスに納得した。

 言うなれば、もはや立派な重労働。この時、あれだけ偏見を持っていた水商売のキャバクラで得た経験が大きく役に立った。

 身体だけでなく、コミュニケーションも仕草も大切な事だった。

 1人の接客が終わると窓を全開にし、シーツを取り替え、マットの水滴を拭き上げる。

"前の"痕跡を残してはいけない。

 汗を拭い、切れる息を整え、お出迎えの準備。中には梯子をするお客さんもいる。お客さんも、痕跡を消して二件目にくる。終わった後で言われる事もあり、こう言う時は病気を貰ってしまうことがある。

 多くて一日6人の接客。約1ヶ月休みなくがむしゃらに毎日働いた。

 部屋に流れるBGMはクラシック。

唯一知っていたカノンが流れる時には冒頭からカノンの一音一音を頭に叩きつけた。

 二ヶ月が経った頃には痛みとの戦いだった。自分の中にローションを仕込み、引けた腰で摩擦を出来るだけ減らす事しか考えていなかった。一度裂けると、次の日も裂けその繰り返し。

 痛すぎて自ずから大きな声が出てしまう。声を出す事で痛みが誤魔化せる気がした。扉一枚隔てた廊下の向こうで、この声が聞こえた人は、よっぽど好きなのかと思っていたかもしれない。

 流れる音だけが私の救いだった。お陰でクラシックミュージックの作者とメロディが分かるようになっていた。

 綺麗に着飾ってもすぐに脱ぐ。脱げばその身体がお金になる。体型維持の為に一口でも食べたら下剤を飲むようにしていた。好きなお菓子も味わうだけ味わって…。

 リピートしてくれるお客さんも増えていた。知っている人は安心する。考えも少し変わり、年上のお客さんが可愛くも思えた。

 定期的にいく性病検査で時折引っかかり、抗製剤を飲んでは吐き、ある時はお尻に注射。歩くと痛む時もあった。生理も薬で調整した。アソコをドライアイスで焼いた事もあった。いつもの病院が休みの時は違う病院に行った。事情を知らない医者からは股を広げた状態の私に向かって怒鳴る勢いで怒られた。心で反論したが、格好が格好なだけに悔し涙が滲んだ。

 元々体は丈夫ではなかった。気力だけで持ちこたえていた。

そんな中でも、男はお金を取りにきた。

もはやこの時の私はこの男の命まで心配する始末で、救いようがないほど心が崩壊していた。お金を返してもらいたい気持ちと、なんでもいいから私がここにいる理由をその男に縋(すが)りたかった。お店にも借金を作った。自分でも、これこそ救いようがないと思った。


 ソープランドにも金額や内容によっては、もう少し身体の負担の少ない店舗があるという事は後々に理解した。雑誌を見ていた時には、お金の事しか考えてなかったから頭の片隅にもよぎることはなかった。

 泡姫になり半年が過ぎた頃、違うマンションの寮に空きが出たので、移らせてもらった。ここにも備え付けのベッドかぁ…。

 ただその部屋は屋上階だったので見晴らしは良かった。街の景色が見下ろせた。夜景を見る回数が増えた。土地にも慣れてコインランドリーにも行け、買い物にも行けるようになっていた。ようやく自分の生活に不自由がなくなってきた。当初上下ジャージ姿で出勤していたけど、好きな服を着れる様にもなった。


 日を跨(また)いで仕事が終わって、真っ直ぐ帰る気分ではない時は、昼間の様な明るい繁華街を歩いた。まだまだ営業しているお店がたくさんあり、人通りもたくさんあった。昼間とは違う光と雑音に、仕事の辛さが薄れる気持ちになった。

 

 休まなければならない時は、気晴らしにCDを探しに行った。行動範囲が広がっていた。当時、クラシックのメロディに歌手が独自の歌詞を乗せて歌っている曲に夢中になった。何度もリピートして歌った。同じアルバムを三枚買った。

 ベッドの上で鍛えられた耳のおかげで、曲がすんなり入ってくる。


 毎日繰り返し流れるクラシックの順番も覚えてきた頃、身体がいう事を聞かなくなっていた。出勤しては早退、出勤翌日は休み。休みの翌日は休み。病院とお店の往復が続いた。

 もう、限界だ。身体がついてこない。


 タパタパとローションを混ぜる音に力を落とし、お湯が浴槽から流れ続ける音に永遠にここから出られないんじゃないかと考え。呼び出しの電話が鳴る音に、ビクリとしてしまう。ベッドの上で大きな鏡の中の自分を見ていたら涙が溢れた。私が私の為に泣いた。


 この頃には男とは連絡が取れなくなっていた。ほっとしている自分がいた。借金も無くなっていた。貯金はほとんどない。

 私の役割は終わったと思った。どうせなら貯金をたんまり貯めようと思ったけれど、体を売り続ける理由がなかった。身体もボロボロだし…。

 

セックスが痛い。鳥肌が立つほど痛い…


 一日に何人も何回も繰り返して覚えた痛みは、できれば排泄でも使いたくないほどになっていた。とにかく沁みる。

トイレの中で「くぅーっ。痛い痛い痛い。」と口に出るときもあった。


 終わりにしよう。


 お世話になったお店に挨拶をして、荷物をまとめ、快速電車に乗った。

 日差しが強く、地元へ向かっていく景色は木々の緑が濃く、キラキラと眩しく感じた。

 ほとんど生活していなかったアパートは、静かに私を待っていてくれた気がした。

いない間様子をみてくれた友人にお礼を言った。そして「ただいま」と。


 窓を開けて掃除をしよう。

とりあえず空の冷蔵庫に飲みかけのジュースを入れた。

 少し休んだら、仕事を探そう。

大事にカバンに入れていた幾種類もの薬が入った袋を捨てた。

 車はすぐにエンジンは掛からなかった。


 ここまでが、私の泡と音の記憶。


 コンビニやスーパーでアルバイトをしながら半年後、中小企業に就職できた。遅いスタートになってしまったけど、会社勤めができた。決まった給料のなかで、決して贅沢ではない生活ができる。それだけで嬉しい。

 

 住んでいたアパートは私には広すぎたから、もう少し家賃の安い小さなアパートに引っ越した。少ないけど、家族にも生活費を渡せた。少しずつ恩返しがしたかった。


 偏見と否定的な水風商売で堕ちるところまで落ちた私は、経験を重ねた水風商売に助けられた。水風商売という職業が人にも気楽に言える様な時代ではなかった。

 現在の様にSNSが発達していて、もっといろんな情報を得ていれば、また違う光に当たることもできたと思う。

 

 私は人と話す事が苦手。身体にもコンプレックスがある。私にとって、不向きで出来ない仕事だと思い込んでいて、これまた別世界の話に思っていた。仕事が合わずに堕ちたと思っていた。

 水風商売でなかったとしても、夢を諦め社会生活をする事自体に同じことを言っていたと思う。夢を実現できなかったことが受け入れられないでいるから。

 生業で生活している人はそれぞれの理由や思いがある。どんな職業でも、それは同じ。

 水風の世界が私を受け入れてくれなかったら、私は今ここにはいない。生かせて貰えた。

 男に依存して勝手に期待して家族よりも自分の事よりも優先してしまった心の弱さが憎い。自分の選択肢に苦しんで。

 経験のない水風商売に勝手に否定して苦しんでもがいた。苦しくて苦しくて心がすし詰めの私を、受け入れてくれたあの時代のお店お客さんに、今は心から感謝。

 

 実家を飛び出したときに乗って行った車は親の名義。保険ももちろん、持ち出した家電も親が私の実家の部屋に買ってれたものだった。どれだけ甘えて都合良く解釈していたのか、当時の私の行動に腹が立つ。

 そして下調べもしないで知識もないのに、軽率な行動を取ったがために、色々な人に心配をかけた。迷惑もかけた。

 

 一人で生きる事はなかなかできない。時に好きな音楽を聴いて(その音楽も誰かが作った。)

好きな物をお腹いっぱい食べて(その食べ物も誰かが作った)

生き抜く辛さは抱えながらも、人との関わりは見えないところでも繋がっている。

 お金も食事も付き合いも生活する中で、欲は出る。欲をだすとキリがなくなる。ほどほどにしないと気持ちと身体は時々離れる。

 

 できないと思う事にもぶつかってみる強さは身についた。面倒臭くて逃げる癖も消えてはいない。関わる人に情を持って、裏切られる事もあるけど、あの時と同じではない。

 心から人を信じる気持ちを持つ事は難しくなった。皆んな同じではないけど、一つの防衛反応なのかもしれない。


 カノンという一つの曲があの時、あのタイミングで流れなかったら、どこに誤魔化しの気持ちをぶつけていたのか、どれだけ頑張ることができたのか。


 クラシック音楽は難しそうで理解し難い分野だと思い、一番興味がなかった。

苦しくて辛い真っ只中、すがる思いでクラシック曲を求めるようになったあの時。

 一音一音がメロディであるのに、歌詞がついているかの様に聴こえる。

 時に寂しく。時に弾むように。心に反映して聞くたびに違う感覚。支えてくれてありがとう。心に響いてくれてありがとう。


 月日の流れは身体も心も少しずつ癒してくれた。時々、あの時の後遺症かなと思う様な身体の不調が、過去の記憶を引き戻す時もあるけど、あの時の自分を受け入れなければ先には歩けない。

 時々孤独を感じながらも、楽しみを見つけたり、ぼーっとしながらテレビを見たり。昼寝をしたり。自分の時間があることに幸せを感じる。

 当たり前の様に繰り返す日常に、ありがたみを感じる。あれから五年。不安と依存の大きさとお財布の中身で決めて買った三枚のCDアルバムは、今は一枚も持っていない。

 固執した気持ちが溶けて、一枚ずつ手放していた。

 

 ゆるりとした気持ちで過ごしていたある日、近所のコンビニで、十代の頃に想いを寄せていた一つ上の先輩に偶然出会えた。あの時の思いが再燃した。同棲した彼と出会う前に、中途半端な関係で終わっていたから。

その事がずっと心残りだった。

 じーっと見ていると、私に気づいてくれた。

コンビニを出て、久しぶりの会話の後に、私は気持ちをぶつけた。

 「あの時からずっと忘れられないでいま した。勝手だけど、気持ちを伝えさせてください。」

 不器用な言葉の羅列で発する私の声を、届いているよと言ってくれている様に、頷いて受け止めてくれた。とりあえず連絡先を交換して、少しずつ近況を話したり、思い出話をするようになった。

 三年近くお互いに生活しながら恋愛をした。あれだけ辛かったセックスが幸せに感じる。不安でぶつかり合う事も、一方的に依存することもなく、とても穏やかな時間が流れていた。幸せだなぁ。幸せな時にも頭に流れるカノンのメロディ。口ずさみながら振り返ると、私を愛してくれる私の愛する人が微笑んだ。

 カーテン越しでも暑く鮮明な日差しが降り注ぐ中、

「一緒になってください。結婚しましょ

 う。」

彼は優しい声で、しっかりと言った。

 汗と涙が混ざり今までの苦しみが一度に流れ出た。彼の顔がぼやける。私、いままともな顔してないのがわかる。

「はいっ。ありがとう。よろしくお願い

 します。」

絞り出す様な声で答えた。

 

泡の記憶とカノンの音が同時に流れる。

この先も消えやしない。

辛いことがあったら聴こう。また支えてもらおう。二度とあの時の私に戻らない様に。


大切な人の傍(かたわら)に私がいられる様に。









 


 

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